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	<meta name="author" content="加納　景">
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	<title>Notebook（2003年09月）</title>
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<h1>Notebook（2003年10月）</h1>
<h2>観念の遍歴</h2>

<h3>2003/10/31(Fri),いや、だから</h3>
<blockquote cite="http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/omake/diary.html"><dl><dt>平成十五年十月三十一日</dt><dd>「のぢ」「のあ」「あやの」ではちやんと<q>診断結果</q>が出るのだけれども、「あのー」だと<samp>実行エラー</samp>になる。謎。</dd></dl></blockquote><p><q cite="http://homepage2.nifty.com/montjeu/">＊「ー」が入る場合は省略して入力してください。</q>なので。というかあのー氏は顔文字つきじゃないとダメなんだろうか。</p>
<h3>2003/10/31(Fri),基本</h3>
<p>自分と意見が合おうが合うまいが、人の文章を正確に読むことができないのはただ読解力がないだけだ。言葉足らずで文脈が読めていないと批判するのとはわけが違う。</p>
<p>そういう人に限って、学校の国語を批判しているのだからあきれる。小中高の国語は作者の文章から命題を抜き出し、そこから論理的に考察する訓練でしかないが、それすらもできていない。そもそもそういう人の文章は何が命題かも分からない文章が多いから、もっと救えない。</p>
<h3>2003/10/31(Fri),非論理</h3>
<p>前言っていたことと今言っていることが違う、というのはありえる。なぜ違うことになったのかと説明すれば良い。しかし今の日本人の問題は、違っているということすら気づかない、ということである。</p>
<h3>2003/10/30(Thu),敗北</h3>
<p>無理ですた(´・ω・`)</p>
<h3>2003/10/30(Thu),宣言</h3>
<p>禁煙するぞ(｀・ω・´)</p>
<h3>2003/10/30(Thu),マスコミ批判の誤謬</h3>
<p>マスコミ批判がネットを語る上で外せない状況となっている。情報の改竄・隠蔽、自社の論調以外は嘲笑とあてどない「市民の声」とやらで抹殺する姿勢は、政治家の詭弁よりもあくどく卑劣で、非難されて当然である。</p>
<p>しかしながら一方、それを批判する立場の人間も、マスコミよりはいくぶんかマシであるが、似たり寄ったりの言葉を吐き続けている。彼らは自由・平等・博愛などといったフランス革命の過てる理念(少なくとも僕はそう考える)を、戦後日本が未だに掲げているという欺瞞に一片の疑念も抱かない思考停止状態にあるという点において、マスコミと変わらないのだ。彼らは情報情報とオウムよろしく繰り返すが、情報にはそこに人間の観念があり、そして行動があるから生まれるのであって、決して無機質なものではない。そうとわかれば、入り組んだ精神を持つ一人(あるいは多数)の人間を伝えるには、見世物小屋の看板で済まされるはずがないと気づくはずである。</p>

<p>手段や手法を卑劣だというのは簡単である。しかし、それは(彼らが大好きな言葉で言えば)まったく建設的な意見ではなく、ただの汚物の投げ合いにすぎない。マスコミの偏向報道を喋々するだけなら、Blogの存在意義とやらも大したものではないだろう。</p>
<h3>2003/10/30(Thu),今は萌えよりぽへぽへの時代</h3>
<p>そう、ぽへぽへがいいんです。</p>
<h3>2003/10/30(Thu),萌えちゃったもんはしようがない</h3>
<p><q cite="http://media.excite.co.jp/daily/thursday/031009/p02.html#file4">福田和也や柄谷行人が「キャラ萌え」と口にしなくてはならなくなる時代が来ないとは限りません。</q></p>
<p>福田和也から文学の世界に入った僕はとっくの前に「萌え萌えだね」とか余裕で口走ってますが、だめですか。</p>
<h3>2003/10/30(Thu),バラす</h3>
<p>掲示板で僕の昔使っていたHNを公開しろと脅されたので公開してみます。</p>
<ul><li>ドクター:汎用。</li><li>七瀬:捨てハン1。</li><li>紫月:一時使用。すぐ中止。</li><li>リカ:<a href="http://casa.s20.xrea.com/weblogs/mynet.html">ネカマ用</a>。</li><li>みゅー:覚えてない、ことにする。</li></ul><p>まあもうちょっとあるけれど。特に某界隈での捨てハンとかはちょっとアレ……。</p>
<h3>2003/10/30(Thu),よくある光景</h3>
<blockquote><p>私は政治家じゃないし、苦情を言われてもあまり対処できませんので・・。そういう考え方もあるという感じで見てみてくださいね。人によってマニフェストは違うし。建設的に議論するはいいと思いますけど。</p>
<p><cite><a href="http://tbn.to/">ＴＢＮ</a></cite></p>
</blockquote><p>こういう逃げの論法はみっともない。自分が一生懸命考えて、調べて、思ったことを書いたのなら、それで良いではないか。誰かに突っ込まれてたとえそれが間違っていようと、良いではないか。少なくとも素人ということを盾にして相対主義に陥り、挙句に良心的な意見で一丁あがりとするような文章よりも、真剣に考えても間違ってしまった文章の方がはるかにマシであるし、自分の言葉に真摯だ。</p>
<h3>2003/10/30(Thu),最近のデスクトップ?</h3>
<ul><li><a href="http://casa.s20.xrea.com/images/de.jpg" title="イメージ(36.12K Bytes)">人様のサイトのソースを覗きながら人様のアレに萌えている図</a></li></ul><p>応援しています。<a href="http://www1.skz.or.jp/~kusumi/klee/index.html">klee</a> & <a href="http://usada.sakura.vg/">うさださくら</a></p>
<h3>2003/10/29(Wed),アクセスログ</h3>
<p>久しぶりにアクセスログを見たら、アクセス数がここ最近ぐっと落ち込んでいる。元々人を面白がらせたりするサイトではないから、アクセス数なんてあってないようなものだろうとあらかじめ予測していた。まあもちろん、あったらあったで嬉しいのだろうけれど。</p>
<p>で、僕が前見た時は2chとかその辺のアレもあって1日2000〜3000、多い時で5000くらいあった。ところが最近は500〜1000、少ない時で300といった有り様。好き勝手にできて中々面白い。というか、個人サイトなんだから好き勝手にしてもいいはず。それもかなりの弱小サイトなんだし。(それにしてはメールのくる率が高い気がするな……。)</p>
<h3>2003/10/29(Wed),言葉と言葉遣いと社交</h3>
<p>例えば僕は言葉そのものよりも言葉遣いを第一に考えるのだけれど、これは言葉を無視しているわけではない。なぜなら言葉とは人間の精神の型だからである。その意味において、言葉の堕落は文化の堕落と言い切ってもよいかもしれない。そう云ったのは、福田恒存であるが、たしかにそれは高い蓋然性で結ばれていることに疑いはないものの、言葉自身を目的としてしまって精神を硬直させるようなことになってはならない。その平衡を得るためには、言葉遣いに注意しなければならないことに気づくはずである。なぜといって、言葉遣いとは他者に向けてどのように言葉を繰り出すのかということであり、そこに自意識が伴うことによって精神の運動を促すからだ。ゆえに精神の運動の場として社交場が有効なのであり、社交の方法を日本人は学ばなければならないという、西部邁氏の論に、僕は賛同するのである。</p>
<!--<p>なぜこのような文章を書いたかというと、僕にメールで正字正かな論争を挑んできた人がいたからだ。その人はきっと勘違いしている。僕は決して現代仮名遣い派ではなのだ。むしろ正字正かなは「正しい」と過去に書いている。これを指して僕は、「言葉自身を目的として」いると書いたのだ。</p>
-->
<h3>2003/10/29(Wed),社歌</h3>
<p>坂本龍一が、鹿島建設株式会社の社歌を依頼されて作った曲がある。<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00006K0TZ/250-5359463-9811432">CM/TV</a>にその曲は収録されているんだけれど、教授本人の解説にはこうある。</p>
<blockquote><p>それはともかく、「社歌」って依頼でこういう曲を作ってしまう自分も「ど〜おかなぁ?」と思える歳になりました。（^^;)</p>
</blockquote><p>いや、日本ブレイク工業の社歌よりはずっと<strong>マシ</strong>です。</p>
<ul><li><a href="http://free.kakiko.com/saji/nbk.html">日本ブレイク工業応援団</a>:まとめサイト。</li></ul>
<h3>2003/10/29(Wed),不適切発言という便利な言葉</h3>
<blockquote cite="http://www.wafu.ne.jp/~gori/diary3/000169.html" title="テレビ朝日はシャレで逃げ切るのか"><p>ネットの意見の一部では「こんなのシャレに決まってるのに、何を大騒ぎしてるのか？」とか「シャレを理解できない馬鹿」とか婉曲的にテレビ朝日の火消しの手助けしてる連中も居るけど、そりゃ全然違うだろ。そんな事言い始めたら鴻池前防災相の「市中引き回し」発言も太田衆院議員の「レイプ、元気が有って良い」発言も森前首相の「神の国」発言もシャレで済むような不適切発言を取り上げて徹底追求するのがテレビ朝日始めとする朝日グループの真骨頂じゃないの？ </p>
</blockquote><p><q>市中</q>云々とか<q>レイプ</q>云々などと<q>神の国</q>発言を一緒に取り上げる方もどうかと思う。森元総理の発言はリップサービスであっても間違ったことは云っていないし、ましてや<q>シャレ</q>ではない。無知蒙昧、厚顔無恥のマスコミが問題化させたという文脈で登場するなら分かるが、政治家の頭の悪さにひたすらつけこむような頭の悪いマスコミがいて云々、という話とは、違う。何もかも<q>不適切発言</q>として一緒くたにして語るような杜撰な言葉遣いは、マスコミのそれと大して変わらない。</p>
<h3>2003/10/28(Tue),診断</h3>
<ul><li><a href="http://homepage2.nifty.com/montjeu/">ニックネーム診断</a></li></ul><blockquote title="かのうけいさんの診断結果です。"><dl><dt>あなたの呼び名が持つ語感、イメージです。</dt><dd>冷静、クール、分析的、硬い感じ、几帳面、冷たい、 明るい、大胆、積極的</dd><dt>あなたの性格を診断します。</dt><dd>親分肌で、面倒見が良いタイプです。</dd><dd>懐が深く少々のことではゆるぎません。考え方も柔和で堅実ですが、保守的すぎるところがあります。周囲には石頭と思われているかもしれませんよ。また、腰が重く、タイミングを失うことも多いので注意しましょう。</dd><dd>例えば、「なお」さんなら、「なおっぺ」「なおべえ」のように、「っぺ」「べえ」を付けて呼んでもらいましょう。新しいものに取り組む好奇心が出てくるかも。</dd><dt>あなたの得意分野、向いている職業は、以下の通りです。</dt><dd>冷静で分析的な考え方をしています。理系分野が得意なタイプです。エンジニアなどがおすすめです。また、音楽的才狽ﾉ恵まれる人も多いです。女性の場合は、キャリアウーマンタイプになる人が多く、色事より仕事といったタイプです。</dd></dl></blockquote><p><q>保守的すぎるところがあります。</q>笑った。</p>
<h3>2003/10/28(Tue),議論でのレトリック</h3>
<p><a href="http://deztec.jp/design/index.html">徳保さん</a>と<a href="http://d.hatena.ne.jp/adramine/">adramineさん</a>の論争(喧嘩?)を見ていてこう思った。</p>
<p>僕と徳保さんの例でもいいのだけれど、<a href="http://casa.s20.xrea.com/weblogs/tradition.html">あの議論</a>が成り立っているのは少なくとも双方が相手の論理に対して自分の論理を戦わせているからなのだが――もちろんそこには感情論も含まれるのは当然である――文脈にそぐわない批判は人格批判ととらわれても仕方のないことなのだ。徳保さんは最初の批判に<q cite="http://deztec.jp/design/note031001.html" title="備忘録031001-31(平成15年10月11日)">いったいどんな顔していっているのか</q>と書いたわけだけれども、この文は顔そのものを指して云っているわけではないにしても、およそ感情に近い言葉で、問題提起から自説の解説という文脈においては不適切である。</p>
<p>では、どのように書けばよかったのか。僕ならこう書く。</p>
<div class="section"><p><q>adramineさんのやっていることは、明らかに<em>adramineの判断におけるイケスタ、カスイケサイトのリスト作り</em>です。それなのに<q>基準としてデザイン的にどうこうというつもりは一切ありません</q>というのは矛盾しているだろう。</q></p>
</div><p>矛盾という言葉は、極力感情を排している言葉(論理的に否定する言葉)だから、議論は成り立つだろう。</p>
<p>ちなみに、この議論において僕は徳保さんの立場をとる。けれど、議論での言葉遣いに関して、または、議論そのものを成立させられなかった責任は、徳保さんにあると思う。</p>
<h3>2003/10/27(Mon),唖然</h3>
<p>僕の母校である高校をぐぐったらかなりでてきた。つーか、「ほーむぺーじ」までいつのまにかできているし。というか、お前ら、色んな意味でやりすぎ。</p>
<h3>2003/10/27(Mon),悩みどころ</h3>
<p>秀丸のマクロを検索していて発見。<a href="http://hide.maruo.co.jp/lib/macro/nikkimac104.html">日記書きマクロ Version 1.04</a>は、読んでみると中々いいなあと思った。<a href="http://www14.cds.ne.jp/~not/product/ndiary/">nDiary</a>は僕にはアレすぎてアレです。</p>
<p>まあ一からHTML文章を書くのはちょっと勘弁というか、本当は過去ログの整理や永続的なアンカーの処理をスクリプトでやりたいところなんだけれど。</p>
<p>と、いうか、そういう日記プロジェクトが<a href="http://www.domperi.net/bbs/peri.cgi?i=res&amp;no=18">僕の我侭で進行中</a>です。相変わらず人に頼ってばっかりですが。</p>
<h3>2003/10/25(Sat),れぽーと</h3>
<p>そういえば大学で、レポートに「小一時間問い詰めたい」なんて書いて提出した奴がいた。先生が優秀なレポートとしてそれを読み上げた時は思わずふきだしてしまった。</p>
<p>最近周りで2ちゃんねら率が上がってきているような気がするのですが、どうでしょう。というか、「小一時間〜」のフレーズは2ちゃんに限らないわけだけれど、それでも。</p>
<h3>2003/10/25(Sat),装飾と論理についての見解メモ</h3>
<ul><li>HTML 4.01やXHTMLにおいてはscript要素が使えるからいいのだけれど、HTML文章を論理構造のみの文章と規定した場合、ISO-HTMLのように「動作」するscript要素を禁じることになるわけで、そうなるとCSSで文字サイズを固定することによってもたらされる不利益はscriptによってカバーできなくなるので、ユーザーの自発的な改善が期待されるわけですね。</li><li>徳保さんのCSSに関する記事には半分同意。</li><li>ただ、インターネットってただの情報のやり取りだけではないわけで、そこにおいて相互の努力なり誠意があるのは当然だと考える。「勝手に見ればいいじゃないか、俺のサイトなんだから俺の好きなようにさせろ」というのはよく分かるし僕も殆どそんな気持ちなんだけど、「見てくれてありがとう」という気持ちもある。閲覧者だって「俺には見る権利があるんだ」とふんぞり返るより、「こんな情報があるのか、制作者さんありがとう」という気持ちを持ってくれたほうが、お互い気持ちがいいと思う。どんな場であっても人間同士の付き合いなのだから、社交の感覚は忘れたくないですね。</li><li>えっと何の話だっけ。それでだ。CSSコミュニティー(僕はよく分からないのだけれど、<a href="http://najo.cc.sakura.ne.jp/~alimika/satomican/">さとみかん</a>周辺のサイトだということにとりあえずしておいて)が目指すところは制作者自らが厳格になることだとするならば、話の筋は通るわけで、というのは、他人に対して何か要求をするのであれば自分から最初に行動するというのが礼儀で、必然、厳格にならざるを得ないものだと思うからだ。そういう意味で、<a href="http://members.jcom.home.ne.jp/jintrick/Personal/">Personnel</a>さんのところの記事は制作者と閲覧者双方の啓蒙に一役も二役も買っていて素晴らしいと思うわけです。</li></ul><p>これをもうちょっとましな文章で、もう少し突っ込んだ書き方をしたいのだけれど、時間がないのでアレです。</p>
<h3>2003/10/25(Sat),ちょっと待ってくれと。</h3>
<blockquote cite="http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/MATSUBARA/UrayamashikiHoshushugi.html" title="松原正「羨ましき保守主義」"><p>人はまづニイチェの、例へば『善惡の彼岸』を讀むべきである。が、それだけでは足りない、ニイチェの毒氣に充分あてられてから、チェスタトンを讀まねばならない。</p>
</blockquote><p>というのは半ば賛成だけれど、</p>
<blockquote cite="http://d.hatena.ne.jp/hazuma/20031022#1066834097" title="考える・２"><p>要は、村社会というのは、決して「おれたち村を作りたい」というストレートな（動物的な？）欲望で作られるものではなく、「村ってキモいよね」とかいうシニカルな連中こそが実はいちばん村社会を作りやすくて、日本ではそういうシニカルさが妙に発達している、という話なんだけど。まあ、それはそれで、日本社会独特の個人主義というか懐疑主義や反権威主義の基盤になっているのでいちがいに否定できないんだけど、シニカルさの発達がある世代の生産性をかなり奪ってしまったことも事実。</p>
</blockquote><p>という文章を汲んで考えれば、シニカルなものを前提とした社会において、ニーチェをとりあえず読むというのは順番が違うんじゃないか。むしろ今は、チェスタトンからはじめるべきだと思う。</p>
<p>まあ、僕もニーチェから入ったくちですが。</p>
<h3>2003/10/24(Fri),雑記の書き方</h3>
<p>最近はあまり気にしなくなったのだけれど、最初雑記を書く上で気にかけていたのは、「薬にはならないが毒になる文章」というものだった。こんな糞文章を読んで「薬」だなんて思う奴はたかが知れているし、そもそも何かを読んで「そうだ!そうしなきゃならない!」なんて云いだす奴は元から才能がないのだ。</p>
<p>つまり、こういうのが僕の「毒」ということなんだけれど、最近は影を潜めていますね。なんだかなー。</p>
<h3>2003/10/24(Fri),それにしても</h3>
<p>徳保さんの<q cite="http://deztec.jp/mtr/06/conservative.shtml" title="保守をめぐるやりとり(平成15年10月6日)">次回の更新</q>っていつになるんだろう。<a href="http://casa.s20.xrea.com/weblogs/tradition.html">伝統論争</a>をアップしていて思い出したのだけれど。徳保さんは色々と急がしそうだからまったりゆっくり気長に待てばいいと思った。終わり。</p>
<h3>2003/10/24(Fri),それは狂人ということである</h3>
<p>数年前から「何故人を殺してはいけないのか」といった馬鹿げた議論があって、そんなことを云う奴はさっさと脳病院にでも入れろと云う人を見たことがない。これは実に驚くべきことである。</p>
<p><a href="http://amrita.s14.xrea.com/d/?date=20031022#p04">損得と善悪とオープンソースと殺人</a>には色々と突っ込みたいけれど、とりあえず一つの論点を持ち出すならば、essa氏の<q>説得</q>は結局のところそのような疑問を持つ人にとって、<em>本質的な</em>回答にはならないという点だ。</p>
<p><q title="『正統とは何か』「脳病院からの出発」G.K.チェスタトン 安西徹雄訳 (春秋社)">狂人とは理性を失った人ではない。狂人とは理性以外のあらゆる物を失った人である。</q>とチェスタトンは云ったが、まさにその通りなのであって、一般に狂人とは非論理的であるがゆえに説得が不可能であると思われているが、実のところそうではなくて、狂人は極めて論理的であるから説得が不可能なのだ。たとえば狂人氏は世人が自分に陰謀を企てていると考えているとしよう。しかしそれを説得することは困難で、いくら「みんな君には無関心なんだ」と諭したとしても、狂人氏はそれは陰謀を洩らさぬためだと云うであろうからだ。つまり彼には<q title="『正統とは何か』「脳病院からの出発」G.K.チェスタトン 安西徹雄訳 (春秋社)">正気の人間の感情や愛憎を失っているから、それだけ論理的でありうるのである。</q></p>
<p>冒頭の問いもそうであって、それを問いかける彼彼女には、人を殺すことへの<q title="『正統とは何か』「脳病院からの出発」G.K.チェスタトン 安西徹雄訳 (春秋社)">感情や愛憎</q>すら失っているから(そうであるからあのような問いが生まれるのだ)、そこに<q>損得</q>を持ち出してもなんら説得の意義がないというのは、道理である。</p>
<p>もちろん、説得の方法がないというわけではない。それもチェスタトンがうまく書いている。が、引用するととてつもなく長文になるので、みなさん買うなり借りるなりして、読んでみるといいでしょう。</p>
<h3>2003/10/24(Fri),嫌煙論者への嫌悪</h3>
<p>権利という言葉を日常会話で俎上に載せる時は、殆どの場合冗談であるはずで、嫌煙権なる珍妙極まる言葉も元々は冗談であった。それが今日立派な市民権を得、しかも<a href="http://www.mainichi.co.jp/news/selection/archive/200310/21/20031021k0000e040035004c.html">煙草会社へ訴訟を起こす</a>という段までくれば、世も末という感慨を覚える。</p>
<p>訴訟を起こした彼らは、自らの不精を煙草会社に押し付けているだけなのだが。</p>
<p>最近バイトの後輩で、イギリスからの帰国子女と話をする機会があった。彼女の話によると、イギリスでは十六歳以上になると煙草を吸うことが出来るらしい。禁煙主義が蔓延しているヨーロッパのことだから、煙草の吸える年齢も日本よりは高いのだろうと思っていたが、そうではないらしい。もともと僕はヨーロッパでの禁煙主義というのは眉唾ものだと思っていた。そんなものはどこかの国と同じように、一部の熱狂的な運動家の所産を、マスコミが大々的に報じているのだと思っていたわけだが、どうもその予想はあまり外れていなかったようだ。</p>
<p>で。</p>
<p>西部邁氏が、嫌煙家についてかなり正鵠を得た発言をしている。</p>
<blockquote title="『西部邁の論争の手引き』 (日刊工業新聞社)"><p>しかし、人を招待しておいて、うちは禁煙主義でやっていますので、煙草をやりたければ台所の換気扇の前でどうぞ、というような人間とは付き合いたくない。一度そういう仕打ちを受けて、私は、いえ、外で吸ってきますといったまま、帰ってしまった。今後ともそうするつもりでいる。</p>
<p>自分の友人なり客人なりが煙草を吸うことによってリラックスし、そのおかげで自分も面白い会話を楽しむことができるかもしれない。その可能性を封じてまで空気の清浄を願うとはいったいどういう神経なのか、「健康な肉体には病気の精神が宿る」と皮肉をとばしたくなる。</p>
</blockquote>
<p>嫌煙家の嫌うものは煙草の煙ではなく、実は煙を吸うという行動なのだということを、この挿話は示している。なぜならもし仮に彼が煙を吸うことになっても<q>面白い会話を楽しむことができる</q>可能性を思うならば、決してあのような扱いをすることはないからだ。彼はほとんど反射的に、その行為に反対しているのだ。それはたしかに、病気の精神である。</p>
<h3>2003/10/23(Thu),というかそもそもの話</h3>
<p>この世が不公平である以上そこに区別ができ、そこから差別が生じるのは当然で――差別をどう扱うかという問題はまったく別の話で――一先ず人間は差別をするものだと考えるならば、万人に開かれたインターネットなどというものは虚妄だということに気づくはずである。ある人は盲目であるし、またある人は難聴である。五感全て働かぬ人もいる。最善を尽くすなどという言葉は欺瞞だ。なぜなら、最善の結果、そこから漏れる人がいれば彼らはやはり差別者なのだから。</p>
<p>我々ができるのは、「最善」ではなく「最低限」のことであるはずだ。「最低限」できることをした上で、僕達は差別者にならなければならない。</p>
<h3>2003/10/23(Thu),ユーザーなんとかとかアクセスなんとかについてのアレ</h3>
<p>僕は閲覧者のことを考えてサイト作成をなんとかというのは、かなり欺瞞だし偽善に聞こえてしようがない。自らの精神をいかに表すかという点において、レガシーマークアップだってありえる。彼はきっとレガシー(遺物)に惚れこんでいるのだ。彼の精神はすでに遺物化しているのだ。そんな彼にとって、アクセスビリティーだユーザービリティーだといった単語は空虚な記号に過ぎないのだ。さらに言えば、彼は狂人なのだ。誰にも理解されない彼の論理を壁に向け、または世人に向けて絶叫しているのだ。</p>
<p>我々は彼の論理に一抹の魅力を感じることもあるだろう。狂人は彼自身において極めて論理に忠実であるからだ。</p>
<p>しかし、狂人の魅力を知るには、こちらが正気でなければならない。我々が正気を失えば、狂人は狂人足りえない。だから、僕達は正しくマークアップする必要がある。</p>
<h3>2003/10/23(Thu),勢い</h3>
<p>酔った勢いで友人に電話をかけて午前二時半。起きているはずがないわな。</p>
<h3>2003/10/23(Thu),徒然と</h3>
<p>最近ガリガリと本を読んでいる。昔のペースが戻ってきたようだ。前に読んだものもそうでないものも一緒くたにして、とにかく読んでいる。大学の図書館では、書店では入手しづらい書物を中心に借りている。一昨日は松原正氏の『文學と政治主義』(地球社)、昨日は福田和也氏の『奇妙な廃墟 フランスにおける反近代主義の系譜とコラボラトゥール』(国書刊行会)を借り、今日は(確か実家にあったはずの)ギルバート・キース・チェスタトン(安西徹雄訳)の『正統とは何か』(春秋社)を借りて読み、心が躍るような論理の明快さ、逆説に再び魅了されている。</p>
<p>僕はここ一年、サイトを通じてアウトプットばかりをしてきた。けれども、良質で大量のアウトプットには、良質で大量のインプットが必要なのだ。</p>
<p>そういえばチェスタトンで思い出したけれども、先の本には「新装版のための序」として西部邁氏が書いていて、悪くはないのだけれども、どうも松原氏の視点の方が日本の保守を考える上で重要であるように思う。僕はこの文章を直接読んだことがないので、引用の引用(いわゆる孫引き)になるのだけれど、とても参考になるので無理にでも引いておきたい。</p>
<blockquote cite="http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/MATSUBARA/UrayamashikiHoshushugi.html" title="松原正「羨ましき保守主義」"><blockquote title="羨ましき保守主義"><p>だが、矛楯した事を言ふやうだが、本書を讀んで私は、正統思想に支へられた保守主義の逞しさを羨ましく思ふと同時に、正統とは何かについての一般的了解の無い我國における保守主義のありやう、あるいはその難しさについての日頃の信念は搖がなかつたのである。チェスタトンは書いてゐる。「あらゆる保守主義の基礎となつてゐる觀念は、物事は放つておけばそのままになつてゐるといふ考へかたである。ところがこれが誤りなのだ。物事を放つておけば、まるで奔流のやうな變化に巻きこまれるに決つてゐる。たとへば白い杭を放つておけばたちまち黒くなる。どうしても白くしておきたいといふのなら、いつでも何度でも塗り變へてゐなければならない――いふことはつまり、いつでも革命をしてゐなければならぬといふことなのである」</p>
<p>そのとほりである。だが、杭の色は白に限ると誰がきめるのか。また、いかなる根據にもとづいてきめるのか。チェスタトンにとつてはそれは自明の理である。が、我々にとつてはさうではない。日本の保守主義者は進歩主義者と民衆に諂ひ、白い杭を次第に赤に近づけようとしてゐる、もうずゐぶん桃色になつて來てゐる。そして白い杭を白いままに残さうとしてゐる者は頑迷固陋の右翼として憫笑されるだけの存在となつてゐるのである。</p>
</blockquote></blockquote><p>日本にとっての「正統」とは何かという問題は、極めて重要である。それをないものとすることも、できなくはない。しかし、松原氏がそうであるように、「正」字「正」かなを日本語の「正統」とするように、括弧つきの正統を我々は論理的に導き出さなければならない。そのような努力を強いる日本人のいわば弱点を正直に<q>羨まし</q>いと書く松原氏は、知のレベルにおいて誠実な人である、ということは銘記すべきだ。</p>
<p>それはそうと、松原氏が西部氏を批判するとなると、必ず失敗しているのはなぜだろう。どこが失敗しているかはコンテンツの一つ二つは作成しなければならないので詳述は避けたいのだけれど、言葉に対してあれほど誠実でありながらあれほどの誤読をするというのは、何かの妄念にとらわれているのではないかという感慨を抱く。</p>
<h3>2003/10/20(Mon),更新情報</h3>
<p><a href="http://casa.s20.xrea.com/weblogs/">Weblogs</a>に<a href="http://casa.s20.xrea.com/weblogs/sincerity.html">誠実なる馬鹿の時代</a>と<a href="http://casa.s20.xrea.com/weblogs/tradition.html">伝統論争</a>を追加。<a href="http://casa.s20.xrea.com/weblogs/sincerity.html">誠実なる馬鹿の時代</a>はNotebookに書いたのだけれど、長くなりすぎたのでコンテンツに。</p>
<h3>2003/10/18(Sat),連続再生で巫女みこナース</h3>
<p>6連勤が終わって、明日からまた6連勤があり、しかもかなり落ち込んでいるときに巫女みこナースを連続再生していたら適度に壊れてきた。鬱気味な貴方に是非。</p>
<p>ttp://www.tactics.ne.jp/download/mikoop_short.mp3</p>
<h3>2003/10/18(Sat),1・2・3ナース!!!</h3>
<p><a href="http://pc.2ch.net/test/read.cgi/prog/1053860856/">巫女みこナースでコーディング</a></p>
<p><q cite="http://pc.2ch.net/test/read.cgi/prog/1053860856/28/">ｽｷｽｷｽｷ (ﾟ∀ﾟ)　ｷｭﾝｷｭﾝ</q></p>
<h3>2003/10/18(Sat),言い方の問題かも</h3>
<p><a href="http://members.at.infoseek.co.jp/ktdm17s/news.html">L.L.L＠online pn</a>で紹介されていた記事なんですが。</p>
<blockquote><blockquote><p><em>しかしながら、単なる字下げテキストの機構として<samp class="einst">BLOCKQUOTE</samp>を用いてきた著者もいるため、そのような著者の意図を守るため、ユーザエージェントは、デフォルトのスタイルとしては引用符を挿入<strong>しない</strong>必要がある。 </em></p>
</blockquote><p><cite><a href="http://www.asahi-net.or.jp/~sd5a-ucd/rec-html401j/struct/text.html#h-9.2.2">HTML 4.01仕様書　9.2.2 引用: BLOCKQUOTE要素とQ要素</a></cite></p>
<p>とあるように、見栄えのためにblockquote要素を用いる意図を仕様書は容認している部分はあります。</p>
</blockquote><p><cite><a href="http://www.rju666.com/web/mistakable.html#indent_supplement">やってしまいがちなテクニック</a></cite></p>
<p><q>blockquote要素を用いる意図を仕様書は容認している</q>ことはないと思う。だって、文章の<q>意図</q>とはすなわち要素であって、ここでの要素とはblockquote(ブロックレベルでの引用)ということなんだから、容認するはずがない。</p>
<p>仕様書が述べているのは、好ましくない要素の用い方をする人もいるようだから、User Agentは引用符を付けないであげてください、ということでしかないと思う。なんたって、引用された仕様書の下には、こういう記述があるんですから。</p>
<blockquote cite="http://www.w3.org/TR/html401/struct/text.html#h-9.2.2" lang="en" ><p><em>The usage of <a href="http://www.w3.org/TR/html401/struct/text.html#edef-BLOCKQUOTE" class="noxref"><samp class="einst">BLOCKQUOTE</samp></a> to indent text is <a href="http://www.w3.org/TR/html401/conform.html#deprecated">deprecated</a> in favor of style sheets.</em></p>
</blockquote><blockquote cite="http://www.asahi-net.or.jp/~sd5a-ucd/rec-html401j/struct/text.html#h-9.2.2" lang="ja"><p><em><a href="http://www.asahi-net.or.jp/~sd5a-ucd/rec-html401j/struct/text.html#edef-BLOCKQUOTE" class="noxref"><samp class="einst">BLOCKQUOTE</samp></a>をテキストの字下げに用いることは<a href="http://www.asahi-net.or.jp/~sd5a-ucd/rec-html401j/conform.html#deprecated">推奨しない</a>。代わりにスタイルシートを使うことが望ましい。</em></p>
</blockquote><div class="section"><p><a href="http://www.rju666.com/about.html">アバウト</a>に<q>&lt;cite&gt;で引用元を明記したりして下さい</q>とあったので多少修正。</p>
</div>
<h3>2003/10/17(Fri),嘘も方便</h3>
<blockquote title="イエスタデイをうたって vol.2 「ゆらゆら scene5」 冬目景著"><p>嘘も方便って言葉知らないのか ちょっとは気ィ遣えバカモノッ</p>
</blockquote><p>どっちもどっちだな(独り言)</p>
<h3>2003/10/17(Fri),だから嫌だったんだ</h3>
<p>現実の生活上僕と付き合いのある人が、このサイトの文章を読むことによる障害を、考えなかったわけではなく、むしろそれをかなり危惧していたのであって、当初の予測通りになったことは喜ばしいことでは当然ないわけで、かなり当惑している。</p>
<p>そもそも個人サイトでの「お願い」とは屡々<q cite="http://members.jcom.home.ne.jp/pctips/parody/monkiri/aa.html" title="あ行/インターネット紋切型辭典">『命令』の意</q>であるけれども、それが必ずしも守られるとは殆どの運営者が思うはずもないのだから、読んでも知らぬふりをしていようというものが人情ってものじゃないんですか。</p>
<p>いや、勿論、教えた張本人である僕が一番悪いのだけれど。</p>
<p>人間関係のしがらみによって書きたいものが書けないくらいなら、さっさとサイトなんてやめてしまえ&gt;&gt;自分</p>
<h3>2003/10/16(Thu),寝る直前に2ちゃんなんて見るもんじゃない</h3>
<p><a href="http://that.2ch.net/test/read.cgi/nanmin/1060592903/l50">功罪スレ</a>を何の気なしに覗いていたら、<a href="http://wow.bbspink.com/test/read.cgi/hneta/1060848117/318-356n">http://wow.bbspink.com/test/read.cgi/hneta/1060848117/318-356n</a>のリンクが張られていて、碌にURIも見ないでクリックしたら、あの文章。</p>
<p>はっきり言って俺のことをリアルで知っている人は以下の文章は読まないで欲しいんだけれど、俺もこれと似た経験(これほど酷くはない)をしたことがあって、当時は本気で精神的に参った。ID:ZJpn9HJc氏の気持ちが痛いほど分かる。昔、道徳規範が守れず不貞を働いた女性は尼になったが、その心境が分かるというか、坊さんにでもなってこの世の迷いや煩悩を捨て去りたいと思ったこともあるし、もっと酷く落ち込んだときはまあよくあるアレも考えたけれど、でもよくよく考えれば、自分のそれまでしてきたことに比べれば、俺のされた仕打ちなんて大したことではないということに気づいて猛省したのだけれど、今こうやって振り返ってみても心が痛む。その辺の経験もあって、俺は迷いとか救いのなさというものに、逆に惹かれてしまうということもある。</p>
<p>あ、さっきのリンク先の文章は途中からエロ小説になっているけれど、それは場所柄っていうことで。</p>
<h3>2003/10/16(Thu),Gunslinger Girl</h3>
<p><a href="http://www.gunslingergirl.com/">Gunslinger Girl</a>をはじめてみた。ヤバイ。きた。自分の中では久々のヒット。これでラストで救われるようなことがあってはならない。あくまでこれは救いのない話でなければならない。</p>
<p>いや、決してヘンリエッタ萌えとかそういうのではないですよ。いや、萌えるんだけど、そうじゃなくて、あの、その。</p>
<h3>2003/10/16(Thu),R.O.D</h3>
<p><a href="http://www.sonymusic.co.jp/Animation/ROD/">R.O.D -THE TV-</a>を見た。紙使いっていうのが格好いい。それだけ。</p>
<h3>2003/10/16(Thu),作家ってのは</h3>
<p><q cite="http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/omake/diary.html" title="闇黒日記(平成十五年十月十三日)">例へば大江健三郎のやうにろくでもない小説しか書かうとしない作家がゐて</q>と言うけれど、いや、僕自身今の大江健三郎にはかなり否定的だけれど、初期作品の描写力や『万延元年のフットボール』に見られるグロテスクなイメージ(それが後期大江の自意識の肥大化に繋がっているわけだが、この時点では作品としての均衡を保っている)はやはり称揚したいと思う。そして、志の点を見れば、今の凡百の小説家よりも視点はずっと高いところにあり、『燃え上がる緑の木』に見られる西洋の古典と対峙しようとした姿勢だけは評価できるのではないか。まあ云われるまでもなく、ノーベル賞を受賞できるほどの作品は生み出していないというのは、誰しもが納得することで。</p>
<p>というか、作家のする「ろくでもないこと」は即否定されるものではない、というのは有名な話で。むしろ人間はろくでもないということを書こうとしたときに、作家自らもろくでもなしになることは屡々ある。</p>
<h3>2003/10/13(Mon),さくら</h3>
<p>サクラ3をやっとクリア。ロべりアのラストは途中から予測できたので以下省略。究極型の「黒髪の貴公子」は花火とロべりアの時になった。そのほかはその存在を知らなかったのです、はい。</p>
<h3>2003/10/12(Sun),メモ2</h3>
<p><a href="http://www.geocities.co.jp/SiliconValley/2191/">厨房のためのBBSマナー</a></p>
<!--読んでくださいという切実な願い。-->
<h3>2003/10/12(Sun),メモ</h3><p><a href="http://www.vector.co.jp/magazine/softnews/031008/n0310084.html">Win高速化 XP+</a></p>
<h3>2003/10/12(Sun),分かっていない</h3>
<p>最近CSSをまったく弄っていなかったので、なにか理解の仕方にズレが生じているようで、なんかこう、ヘンな違和を感じます。</p>
<p>例えば、heightで高さを指定して、その中にpaddingを指定すると、高さは可変になるんでしたっけ?Mozillaだと思いっきり変わっているんですよね。あれー、へんだなー。</p>
<p>まあアレです。とっぷぺーじから嘘ばっかり書いているので、(掲示板はstrictだとか大嘘)あまり信用ならないサイトかもしれない。うちは。</p>
<h3>2003/10/12(Sun),一種の不安</h3>
<p>自らの精神のありようを決定付けた文章は、その文章の作者に関心を移させることになり、その作者の精神を糧に自らの主張を繰り広げるという光景はなにも珍しいことではなく、むしろ我々の独自の意見などは殆どないに等しいと言ってよいくらいで、どこかしら自らの思想に束縛を伴うことは必然である。で、あるから、自分の支持する作者に対して批判的な文章に遭遇した時、屡々病的なほどの拒絶反応を示すものだ。ここで病的というのは、その拒否の根拠が論理によって導かれるものではなく、殆ど生理的に、文章すら読めなくなるということである。</p>
<p>これはひとえに知的怠慢と切って捨てることは可能で、一度ならずとも自意識について考えたことのある者ならば、そこに止まることを自ら許しはしない。</p>
<p>しかし、もちろんそれはそれで正しいのだけれど、たった一つの思想がその人に与える影響の大きさというものの凄まじさを、身をもって体験することができるという点において、実に興味深いと思うのだ。例えば19世紀から20世紀にかけて、世界を席巻し、今もなお残存するマルクス主義は、顕著にその症状が見られる。その「残存」という現状が、まさにそうではないか。</p>
<p>人間が不安を覚える時というのは、自らを支えている、あるいは妄信しているものの仮面を一気に引っ剥がされた時、自立および自律を促さざるを得ない状況に直面した時にも起こるものだ。それは逆に、物語や歴史、伝統など、妄信の対象がいかに精神の安定に一役買っているかの証左でもあるとも言える。</p>
<h3>2003/10/11(Sat),絶望的な南進</h3>
<p>町田康氏の『供花』(新潮文庫)をこの間買って、やっと読み終えたのだけれど、すごい衝撃を覚えた。圧倒的な情景を喚起する文章は、ある種ドラック体験下の幻覚にも似ているだろうと思った。僕はやったことはないけれど。</p>
<blockquote title="『供花』「下りみち」(新潮文庫)"><p>夢も希望も無い者どうしで商店街へゴー</p>
<p>最後の金を握りしめて爆笑しながらゴー</p>
<p>手を取りあって足を踏みならして</p>
<p>我々の怒りと喜びを道行く人に浴みせかけて</p>
<p>肥りまくって食いまくれ</p>
<p>おいしい豆を買いにゴー</p>
<p>最上のエイズ女を買いにゴー</p>
<p>俺らの為だけに用意された快楽をゴー</p>
<p>幸福な気分を確認しあってゴー</p>
<p>諸君　同じ場所であがいているより</p>
<p>前々から決まってきたその場所へ</p>
<p>我々と一緒に行ってみんかね?</p>
</blockquote><blockquote title="『供花』「蓄財のうた」(新潮文庫)"><p>誰と話しても殺されるときに</p>
<p>誰と遊んでも狂わされるときに</p>
<p>ただ一人の熱いおまえらと</p>
<p>ただ一人憎いおまえらと</p>
<p>何もかもを呪いつくそう</p>
<p>恥の中で焼け死んでしまおう</p>
<p>銭をもうけて遊び呆けよう</p>
<p>嬉しさをかみしめてはしゃぎまくろう</p>
</blockquote><blockquote title="『供花』「絶望的な南進1」(新潮文庫)"><p>明るくてじめじめした場所で</p>
<p>低脳女の白い脚を舐めた</p>
<p>もう少し南へ行けば</p>
<p>何とかなるやろ</p>
</blockquote><p>凄い。そごすぎ。あ、関係ない話だけど、一行空きの文章は段落扱いなのかな?ということは改行はbr要素が適当なんだろうか。このへんの扱いは、非常に慎重にしたいのだけれど。</p>
<h3>2003/10/11(Sat),誹謗文</h3>
<p><a href="http://nitiroku.hp.infoseek.co.jp/">西尾幹二のインターネット日録</a></p>
<p>驚いたのは、<a href="http://hpcgi1.nifty.com/bellwoods/i-nikki.cgi">インターネット日録</a>において、野嵜氏の松原正氏を紹介するコンテンツをリンクし、言及していることだった。</p>
<p>これから述べることは全く論理的な話ではないというのを一応留保して読んでもらいたいのだけれど、西尾氏が松原氏に対して抱く感情というものを、僕はなんとなくわかる気がする。そこに<q>エピゴーネン</q>があるという感じも分かる。しかし、それはあくまで主観の問題であって、そこに何ら論理的な説明はされていなく、ただの誹謗文に堕している点において、西尾氏が批判する<q>稚気満々たる文章</q>と何ら変わりのない代物である。例えばそこに、西尾氏が松原氏を論理的に批判するための言葉の切れ端でも用意されていれば、いくらかの読者なり閲覧者なりが、西尾氏の主張を汲み取れるかもしれないが、それすらもないのだから子供の喧嘩と同じレベルの文章だと言える。</p>
<p>というかそもそもの話し、「子供の喧嘩と同じレベルの文章」は内容だけではなくて、その文法も酷いのであって、例えば<q>いぜんとしてしばしば独りよがりな文章である</q>という結びは、西尾氏が<q>独りよがりな文章</q>を書いているということなのかと一瞬誤読しそうになったがそうではなく、人の文章を評しての言葉だが、<q>しばしば</q>と書くなら「見受けられる」等の文尾でなければおかしくて、僕は決して正しい文法のみに拘る愚かさには賛同しないものの、文章を論ずるならばまず自身の文章を正確に書かなくてはならないというのは、至極当たり前のことであるように思う。</p>
<div class="section"><ul><li>本当は松原氏と西部氏の問題についても触れたいのだけれど、これはかなり込み入った話になるし、こちらも準備が必要なのでまた後で。</li><li>やっとねちっこい自分の文体が戻ってきたと思う。</li></ul></div>
<h3>2003/10/07(Tue),ほめる</h3>
<p>前にも書いたけれど、徳保さんはとても面白い人物だし、僕よりもずっと誠実な人だと思うけれど、時々、人がよさ過ぎるんじゃないかと思う節がある。webデザイン関連のサイトに言及している記事はとても興味深いけれど、そこまで指摘してあげる親切さは生半可なものじゃない。僕なら放置してしまう。</p>
<p>でも、こういうのこそ僕の人の見方の価値観なんだと思う。価値観というのを、ただ相対主義の一言で片付けるのはもったいないというか、個々人の価値観は爆発的に大きなものであるほど面白く、人間がダイナミックである証左だと思う。時にその価値観は、価値という枠を超えて、真実になったりもするのだから。</p>
<!--というのは表向きで、実は徳保氏流の価値の扱いへの反論だったりする。-->
<h3>2003/10/06(Mon),あげあし</h3>
<p><q cite="http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/omake/diary.html" title="闇黒日記(平成十五年十月六日)">論戰を戰つてゐる</q></p>
<p>机上の上に(以下省略)</p>
<h3>2003/10/06(Mon),余談</h3>
<p>伝統というものに種類とか、あるいは、「何々専用の伝統」なんてものがあると考えている輩もいるらしい。多くの法律が慣行・慣習によって規定されていることも、知らないのだろう。そこに一貫してある先人の智恵があることも、分からないのだろう。</p>
<h3>2003/10/06(Mon),疑問</h3>
<p>徳保氏は何故正しいHTMLを書くべきなのか、説明できるのだろうか。</p>
<h3>2003/10/06(Mon),徳保氏を斬る2</h3>
<h4>とりあえず</h4>
<p>今日は忙しくて長文が書けないので、とりあえず引用しておく。詳しい反論は後で。</p>
<p><q cite="http://noz.hp.infoseek.co.jp/diary/20021006.html" title="闇黒日記(平成14年10月27日)">『相対主義者』はただ、『疑問を持つのは良い事だ』と言つて、何もしない不精を正當化してゐるだけなのである。</q></p>
<p>追加。<a href="http://www.google.co.jp/search?as_q=%E5%BE%B3%E4%BF%9D&amp;num=10&amp;hl=ja&amp;ie=UTF-8&amp;oe=UTF-8&amp;c2coff=1&amp;btnG=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&amp;as_epq=&amp;as_oq=&amp;as_eq=&amp;lr=&amp;as_ft=i&amp;as_filetype=&amp;as_qdr=all&amp;as_occt=any&amp;as_dt=i&amp;as_sitesearch=noz.hp.infoseek.co.jp">徳保氏は一貫性があるという証拠</a>を発見しました。<em title="皮肉強調">本当に変わっていませんね</em>。</p>
<h4>怒ってみる</h4>
<p>徳保氏よ、引用は<em>正しく</em>行いなさい。ブロックレベル要素で引用したならば、文中ではインライン要素で、そのまま引用しなさい。自分の都合のいいように言葉を置き換えて論理をはぐらかすくらいなら、さっさと敗北宣言でもするがいい。なぜといって、相手の意見はその相手の文章に必ずあり、それを知るには相手の文をそのまま参照することが<em>最も確か</em>だからだ。私が<q>誤解</q>していると主張するならば、最低限<q>誤解</q>させないように(HTML)文章にするというのが、書き手の責務である。まさか徳保氏がq要素をご存知ないわけがないのだから、使わないのはわざとだと判断せざるを得ない。</p>
<p>私が怒っているのは、私は少なくともそれらの手順を踏んでい、その上で徳保氏が誤読していると言っているにも関わらず、徳保氏はそれを一切無視しているからだ。</p>
<h4>価値相対主義ということ</h4>
<p>で、徳保氏は、上の文章を否定してみるがいい。「<em>正しい</em>引用なんてあるのか」、と云ってみるがいい。「<em>最も確か</em>ではない、<q>五十歩百歩</q>だ」、と云ってみるがいい。</p>
<p><em>正しい</em>引用方法だって昔から読者に誤解を与えないようにと、ある程度原則化されている。それは<em>伝統・慣習</em>によってである。</p>
<h4>保守ということ</h4>
<blockquote cite="http://deztec.jp/design/index.html" title="趣味のWebデザイン(平成15年10月4日)"><p>小林さんが保守派知識人をポチ保守と呼ぶのは、単に小林さんの保守の定義に当てはまらないからそう呼んでいるだけだ。ポチ保守は「我こそ保守本流であって、小林さんの立場は単なる蛮勇じゃないのか」という。同じ保守という言葉に、いろいろな立場の人がいろいろな意味を込めているから、「自分の解釈だけを正解と認めろ」というと喧嘩になる。でも、これは単に保守Aと保守Bのように分類できれば済む話でしかないから、あまり意味がないと私は思う。</p>
</blockquote>
<p>単に無知なのか無視しているのかは知らないが、徳保氏、一度イギリス保守主義から勉強し直すことをお勧めする。少なくともエドマンド・バーク以来綿々と続く伝統を顧みる姿勢は、若造国家アメリカに脅されて<q>国民の生命・財産</q>を保守するという所謂保守主義よりも本流であると思いますがね。</p>
<h3>2003/10/04(Sat),徳保氏を斬る</h3>
<h4>誤読</h4>
<p>引用中の強調は全て徳保氏本人の記述。</p>
<blockquote cite="http://deztec.jp/design/index.html" title="趣味のWebデザイン(平成15年10月4日)"><blockquote cite="http://casa.s20.xrea.com/notebook/index.cgi" title="徳保氏への再反論2003/10/04(Sat)"><p>人間は不完全であるという前提に立つならば、急進的に作り出された産物に対して期待を抱くことはできない。より正確であるためには時間の経過によってなにほどかの秩序が与えられた伝統という精神をよすがにするほかないと考える。</p>
</blockquote><p>私はそうは考えません。<q>人間は不完全であるという前提に立つならば、急進的に作り出された産物に対して期待を抱くこと</q>は<em>十分ありえる話</em>ではないのですか。長年にわたる人智の蓄積を軽視して思いつきのアイデアに飛びつくのは、人間がいかにダメかということの証左でしょう。</p>
</blockquote><p>徳保氏は何を云っているのか。私は<q><em>十分ありえる話</em></q>ではなく、「より正確であるために」どうするかという話をしている。以下の徳保氏の議論はこの誤読に基づいているのだからまったく話にならないのだが、一応指摘しておく。</p>
<blockquote cite="http://deztec.jp/design/index.html" title="趣味のWebデザイン(平成15年10月4日)"><p>……とはいうものの、ここで注意すべきは、幸せ・成功といったものは多様性を持っていて、<em>過去を顧みず新しいやり方に飛びついた結果、新しい幸せ・成功に出会うことがしばしばある</em>ということです。つまり、<em>伝統に従っていれば、伝統的な幸せ・成功には都合がよい</em>かもしれないが、それだけが正解ではないわけです。</p>
</blockquote><p><q><em>過去を顧みず新しいやり方に飛びついた結果、新しい幸せ・成功に出会うことがしばしばある</em>ということ</q>なんて、云われなくても分かっている。私が言っているのはそうではない。徳保氏が一番に保守するという<q>国民の生命・財産</q>を、最も正確に守るには伝統を顧みる必要があると言っているのだ。その方が「なにほどかの秩序」が与えられている分安全であると。それとも徳保氏は一番大事なものをギャンブルでもするかのように賭けろと云うのか。<q>それだけが正解ではない</q>などと逃げてはいけない。私は「より正確であるために」という話をしているのだから。</p>
<blockquote cite="http://deztec.jp/design/index.html" title="趣味のWebデザイン(平成15年10月4日)"><p>戦後の日本人は、戦前の価値観の少なからずを捨ててしまいました。その結果、とくに礼節の多くを失いました。そのために悲しい世の中になっているというのは一面の事実でしょう。しかしながら、では戦前の価値観を復活させることを多くの人が望むでしょうか?　現代人は、あれこれ不満ばかりいっているけれども、それでも自分たちは過去のいずれの時代の人々よりも幸せであると思っているのです。その幸せの内実は、かつての幸せとは大きく異なっているでしょう。しかし、それでも幸せには違いないのです。だから、人々は元に戻ろうとしていない。</p>
</blockquote><p>徳保氏はまったく私の文章を読んでいない。私は伝統を顧みることが<q>元に戻ろうと</q>することではないと言っている。歴史によって蓄えられた人智を参照することで、現在や未来に対する展望を考えることができ、急進的な事象よりも安全であり確かであると言っている。</p>
<blockquote cite="http://deztec.jp/design/index.html" title="趣味のWebデザイン(平成15年10月4日)"><p>保守というのは、いくつかの点で、行き過ぎを改めようという勢力だと認識しています。その取捨選択の基準は、「国民の生命・財産を守る」ことです。革新も同じです。ただ、保守と革新では方法論が異なっている。保守は、自由・民主の増進と少々の伝統回帰が正解だといいます。革新は、反戦・平和の推進と伝統破壊が正解だといいます。</p>
</blockquote><p>徳保氏の保守に対する<q>行き過ぎを改めようという勢力だと認識</q>という認識が誤っている。むしろ保守は、未知の領域へ挑戦するために、伝統という智恵を参照すべきだと言うのが本当である。そもそも、私に<q>あなたのいう当たり前のことは、私にとってはちっとも当たり前ではないので、きちんと説明をいただきたい</q>と云ったにもかかわらず、なんら論証もせずに<q>認識</q>の一言で片付けるのは、言行不一致にもほどがあるのではないか。</p>
<blockquote cite="http://deztec.jp/design/index.html" title="趣味のWebデザイン(平成15年10月4日)"><p>私が書いたのは、この3者が、論理的にひとつの結論に導かれることはありえないという話です。私は、人間は無秩序で刹那的な判断を、あろうことか希望を持って行うものだと考えるので、Kei Kanouさんとは根本的に人間観が異なっていると思う。価値観の違いに根ざす路線対立は、論理で決着しない。共感するかどうか以外に、判断の根拠がない。</p>
</blockquote><p>まず、私のことは加納でいいです。</p>
<p>で。<q>人間は無秩序で刹那的な判断を、あろうことか希望を持って行うものだと考える</q>と徳保氏は云うが、一番大切だという<q>国民の生命・財産</q>を<q>無秩序で刹那的な判断</q>で守ろうなどとは、おこがましいと思いませんか。大切なものを守ろうとするのに、より確かなものにすがろうとするのをどうして誤りだと云えるのですか。私は<q>無秩序で刹那的な判断</q>それ自身はとても興味深く面白いものだと思うけれど、それを根拠に据えて大切なもの、それも国家大の問題を語ろうとは思わない。</p>
<blockquote cite="http://deztec.jp/design/index.html" title="趣味のWebデザイン(平成15年10月4日)"><blockquote cite="http://casa.s20.xrea.com/notebook/index.cgi" title="徳保氏への再反論2003/10/04(Sat)"><p>何を伝統として残し、何を因襲として排除するのかについても同じである。なぜといって、やはり「人間の不完全性」という前提に立つならば、その場で決定された取捨に疑念を抱かざるを得ないからだ。そうであるならば、取捨選択の基準もまた慣習によって行われるべきである。</p>
</blockquote><p>既に述べた通り、伝統によって築かれた秩序と離れたところで、人は判断をすることがあります。そしてその判断に、人はしばしば自信を持っているものです。なぜ人間の判断は、そのように不安定な立場で行われるのか?　その答えは、「人間の不完全性」に求められるのではありませんか。</p>
<p>そもそも、人間が不完全なら、その人間の歩みもまた不完全であり、したがって伝統も不完全です。どこかに完全なものがあるとすれば、それが伝統の中に存在しない可能性は決して低くない。そう考えることに、私は疑問を感じません。</p>
</blockquote><p>何度も言うが、徳保氏は私の文章を読めていない。<q>どこかに完全なものがあるとすれば</q>などと一言も言っていない。私は伝統は「<em>なにほどかの</em>秩序が与えられ」ていると言っていて、完全だとは言っていない。人間が不完全であるから、少しでも秩序が保てるであろう、過去に秩序を保った智恵(伝統)を参照すべきだと言っているのである。</p>
<h3>2003/10/04(Sat),徳保氏への再反論</h3>
<h4>仮定の否定</h4>
<blockquote cite="http://deztec.jp/design/index.html" title="趣味のWebデザイン(平成15年10月4日)"><p>絶対量はあってもなくてもよいのではなかろうか。私は、伝統は適当に分解して取捨選択できるものと考えている。本来、それぞれは何らかの有機的なつながりを持っているのだけれども、現実問題としては全体を一気に扱うことは不可能だ。そこで仮に、個々の要素についてあれこれ対処法を決めていくことになる。私は「仮に」と書いたけれども、それ以上のことはできないのだから、実質的にはそれがすべてだ。</p>
</blockquote><p><q>それ以上のことはできないのだから、実質的にはそれがすべてだ</q>というのは、結局のところ、私が「伝統を重視するという構えに絶対量があると仮定」していると指摘しているのと同義だ。まあ徳保氏は<q>あってもなくてもよい</q>と云っているのだから、どうでもいいのだろうが、私はこだわる。なぜといって、ここに徳保氏の伝統に対する認識の誤りがあると考えるからである。仮定が誤りならば結論も誤りなのだ。</p>
<h4>伝統とは何か</h4><blockquote cite="http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%C5%C1%C5%FD&kind=jn" title="goo 辞書(大辞林 第二版)"><p><em>でんとう 0 【伝統】</em></p>
<p>ある集団・社会において、歴史的に形成・蓄積され、世代をこえて受け継がれた精神的・文化的遺産や慣習。</p>
<p>「民族の―」「―を守る」</p>
</blockquote>
<h4>なぜ伝統を重視するのか</h4>
<p>人間は不完全であるという前提に立つならば、急進的に作り出された産物に対して期待を抱くことはできない。より正確であるためには時間の経過によってなにほどかの秩序が与えられた伝統という精神をよすがにするほかないと考える。</p>
<h4>伝統は意図的に取捨選択できるのか</h4>
<p>何を伝統として残し、何を因襲として排除するのかについても同じである。なぜといって、やはり「人間の不完全性」という前提に立つならば、その場で決定された取捨に疑念を抱かざるを得ないからだ。そうであるならば、取捨選択の基準もまた慣習によって行われるべきである。</p>
<h4>結論</h4>
<p>よって、徳保氏の主張は間違っている。</p>
<h4>付言</h4><p><q>あなたのいう当たり前のことは、私にとってはちっとも当たり前ではないので、きちんと説明をいただきたいところである。</q>と徳保氏は云うが、これを論理的思考の問題において当然の帰結と考えるならば、それを「当たり前」と言っても良いのではないですか。</p>
<h3>2003/10/03(Fri),はてなを使うことにした</h3>
<p>東さんを引き合いにしてまで否定していた、はてなダイアリーを使うことにしました。かといって、このNOTEBOOKを廃止にするわけではなく、それこそ日記とか、買い物とか、読書とか、とりとめのない日常を綴ろうと思います。僕の日常なんて、本当につまらない(食う、寝る、バイト、ネットだけ)ものなので、表立ってCASA.netのコンテンツとしては扱いません。NOTEBOOKの上部にでもちょこっとリンクしておきます。</p>
<p>で、こちらの方は、小難しい話とか、そういうものを扱う予定です。</p>
<p>というか、本当のところ、そういう目的ならはてなを使ったほうが、情報の整理の点から言えば数段よいわけですが、どうしてもあの中途半端なHTML文章が許せなくて。潔癖症は辛いですね。</p>
<p>いや、そんなことより、早く寝ろ、俺(現在午前5時55分)</p>
<h3>2003/10/03(Fri),伝統に関して極めて一面的な論及</h3>
<blockquote cite="http://deztec.jp/design/index.html" title="趣味のWebデザイン(平成15年9月29日)"><p>国民の生命・財産を守るためなら、伝統・礼節などは少々犠牲にしてもよい。ただ、現状はあまりにも伝統・礼節がないがしろにされすぎているために問題が生じている。だから、伝統・礼節をもう少し復興した方がいいと考える。</p>
</blockquote><p>どのくらいかは知らないが、伝統を重視するという構えに絶対量があると仮定しないかぎり、この文章の論理は破綻している。これは大抵の中立的な、あるいは相対的な文章にも云えることだ。</p>
<p>そもそも破綻しているのだから話を進めるのも愚かなのだが、少しだけ、いわばポチ保守に関して論及しておきたい。</p>
<p>徳保氏がまとめている通りに、「保守」というものを解釈するならば、それはちゃんちゃらおかしな、支点なき立場に過ぎない。なぜといって、<q>国民の生命・財産</q>を「保守」するというのが保守派ならば、<q>国民の生命・財産</q>を支えているものは何かということに必然考えざるを得ず、それは伝統であるという回答に行き着くはずだからである。そんな至極当たり前であることを、無視しているのか考えられないのかは知らないが、論及すらしないから小林よしのり氏に「ポチ保守」と呼ばれているのだ。</p>
<h3>2003/10/03(Fri),悩む</h3>
<p>IEで、幅を指定した時のli要素のマージンの取り方ってヘンだ、なんだこれはと思って、調べてみた。</p>
<blockquote cite="http://members.at.infoseek.co.jp/cssbug/detail/winie/b074.html" title="Internet Explorer (Windows) CSSバグリスト"><p>幅（widthプロパティ）が明示されたul&#44; ol&#44; dlの各要素に設定した上・左・右のマージンが無視される。下マージンは、リスト要素の終了タグの直後に親要素の終了タグがある場合に親要素の下マージンとして表示されてしまう。</p>
</blockquote><p>そう、これこれ。IEがデフォルトブラウザ(本当はLunascapeだけどレンダリングはIE)な僕が言うのもアレだけど、<em>やっぱIEは糞だな</em>。</p>
<h3>2003/10/02(Thu),では双方向性を持った物書きはどうなのか</h3>
<p>いますね。ネット特有の双方向性とやらを存分に味わっている哲学者が。しかし、それも彼の戦略のうちだし、それもそれで面白く、やはり才能のある人には敵わないということが、そのうち分かると思いますよ。</p>
<p>インターネットの特性を今更ながらに驚いていた方もいるようだけれど、本質的な能力差まで埋める道具ではないようです。</p>
<h3>2003/10/02(Thu),作家</h3>
<blockquote cite="http://www2.odn.ne.jp/cbr37550/indexl.htm" title="花村萬月公式ホームページ　ブビヲの部屋"><p>世の中に嫌がらせは数々あれど、子供の写真入り賀状を送りつけるとか、愛玩犬、愛玩猫等々の写真を持ち歩き、いきなり見せつけられることほど対処に困るものはございません。そこで私も愛犬ブビヲ（パグ・♀）をメインに据えたホームページを立ちあげることにいたしました。<br></p>
</blockquote><blockquote cite="http://www2.odn.ne.jp/cbr37550/syousetu.htm" title="小説を書いてみよう現在進行"><p>ネットの双方向性を拒絶いたします。あなたにできることは、読むこと、そこから取捨選択することだけなのです。</p>
<p>いずれ、なんらかの手立てで才能ある者を掬いあげるつもりではありますが、とりあえずは一方通行ですませます。これを読んでいるあなたに、私はなんの義理もありません。勘違いをしないように。</p>
</blockquote><p>プロの作家としての自負があるから、こういうことが書ける。そして、僕達は黙って首を縦に振らざるを得ない。それだけの力が、花村氏の文書にはある。</p>
<p>力ずくで相手をねじ伏せるほどの文章を書ける才能のある物書きは、ネットにはいない。だから、花村氏と<q>双方向性</q>なんぞ持てるはずがない。花村氏は<em title="勿論、一般的な正さではない">正しい</em>。</p>
<h3>2003/10/01(Wed),書く、予定。</h3>
<p>バイトから帰ったら、花村萬月氏について書く。</p>
<p>もともと純文学人間の僕であるけれど、花村氏は面白いと思う。その理由と何かを、書く。</p>
<h3>2003/10/01(Wed),avant-garde</h3>
<p><a href="http://finalsrv.lolipop.jp/">Hoopla</a>のデザインを見ていたら、なんか自分もアバンギャルドなデザインにしてきたくなった。次回リニューアルはあんな感じだな。</p>
<p>OperaやMozillaだと横スクロールでてますが。</p>
<h3>2003/10/01(Wed),ふーん( ﾟωﾟ)</h3>
<p>link要素のmedia属性に、screen&#44;tvを指定するとNC系にはCSSが適用されない云々というのは前から知っていて、今回導入したのですが、さっきMac OS9のNC4で確認したら、本当に論理構造のみの表示になっていた。こういうのって感動しますよね。しませんか。そうですか。</p>
<h3>2003/10/01(Wed),Opera7.2</h3>
<p><a href="http://www.jp.opera.com/">Opera7.2</a>がちょっと前に出ていたそうですね。起動がますます遅くなった気がしますが、世界最速だそうです。</p>
<p>Operaは嫌いじゃないのだけれど、半角英数字がちょっと下がってレンダリングされるのは、こっちのフォント指定のせいなんでしょうか。結構気になります。</p>
<h3>2003/10/01(Wed),今年で何度目になるのか。風邪。</h3>
<p>ちょうどバイトが一日だけ休みの日だったから良かったものの、また風邪を引いてしまった。一日で治したのは今日からまたバイトだから。</p>
<p>でも久々にいい朝だった。晴れっていいもんですね。謎ですね。</p>


	<h2 id="FOOTER">この文書について</h2>
	<dl id="STATUS">
		<dt>公開</dt>
		<dd>2003-10-01</dd>
		<dt>最終改定</dt>
		<dd><!--#config timefmt="%Y-%m-%d" --><!--#flastmod file="200310.html" --></dd>
		<dt>制作者</dt>
		<dd>加納　景 &lt;<a href="mailto:%77%65%62%6D%61%73%74%65%72%40%70%6F%65%73%69%61%2E%6A%70">webmaster&#64;poesia.jp</a>&gt;</dd>
	</dl>


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</html>

