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	<meta name="author" content="加納　景">
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	<title>誠実なる馬鹿の時代 -Poesia</title>
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	<li id="POINT">誠実なる馬鹿の時代</li>
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<h1>誠実なる馬鹿の時代</h1>
	<h2>二つの馬鹿＜過てるアカデミズム/誠実＞</h2>
	<p><img src="../images/fool.jpg" class="illust" alt="崖から落ちることを犬にとめられても聞かない馬鹿の意のタロットカード"></p>
	<p>馬鹿といふ言葉が肯定的に使はれる時は、その人が純粋であるとか、あるいはあることに一本気である人を指すときにつかつたりもするわけだが、それが悪口にならないのは単純さが人間の良いところだといふ世間の暗黙の了解があるからで、その了解はかなりの頻度で我々の生活に登場する。しかし良く考へてもらへれば分かるのだけれど、単純であるものをより複雑にしたのが社会だとするならば、そこに「単純馬鹿」の登場する幕はなく、仮に真実が単純であつても真実は我々の手には負へないものなのだから、結局複雑さの中で迷走せざるを得ないのが現実である。</p>
	<p>こんな当たり前なことを考へたのは<a href="http://www.t3.rim.or.jp/~hazuma/texts/karasawa.html">唐沢俊一氏の「悪口」について</a>といふ文章を読んだからで、東浩紀氏の文章を評して唐沢氏が<q>下手くそ</q>と言つたことに対し、東氏が<q>経験に基づいた誠実な反応</q>を期待する反論を書いてゐたからだ。</p>
	<p>僕は東氏の文章が<q>下手くそ</q>だとは思はない。難解であるはずのデリダ論を予備知識のない読者にも分かるやうに書ける力量は大したものであるし、逆に難しく書くだけならそれこそ馬鹿でもできるのだ。だからここでの唐沢氏の<q>悪口</q>には同調しないものの、唐沢氏のアカデミズム的心情はなんとなく了解できるやうな気がする。なぜならアカデミズムといふものが複雑さの中で一つの真実をめぐる格闘であると<em>だけ</em>定義するならば、そこに手段としての<q>誠実な対応</q>を求めることはできないからだ。真実を得るために手段を選ぶ必要がないのなら、誠実である必要はないからだ。</p>
	<p>アカデミックなものの発露として論壇や文壇を見た時に、かくも醜悪であるのはそのためである。これと似たことで、僕が指摘した西尾幹二氏の誹謗文(2003/10/11のNotebookの記事参照)があつて、反論ではなく誹謗に堕した文章はまさしくアカデミズムの産物である。</p>
	<p>もちろん、ここでのアカデミズムの定義は本来のそれとは違う。現在の日本の言論界は視野狭窄で、自分と意見の合はぬものには嫉妬心や敵愾心を燃やすやうな、福沢諭吉の言ふところの「怨望が言路を塞ぐ」状態であり、多くの場合アカデミック(<q cite="http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=academic&amp;kind=ej">学究的</q>)な姿勢によつて得られる結論を、自ら捨ててゐるといふ愚かしさを言つてゐるのだ。</p>
	<p>ここで閲覧者に断りを入れる方が親切だらうか。僕は冒頭で「単純馬鹿」の登場する幕はないと書いた。これは今述べたアカデミックな、純粋な学術的研究を否定してゐるうあうにも見える。しかしそれは僕の望むことではない。過てるアカデミズムと本来のアカデミズムという単純な二元論の話ではないのだ。それは「本来のアカデミズム」が「単純馬鹿」な思想ではない、といふことである。なぜといつて、「本来のアカデミズム」とはそれこそ、「複雑さの中で迷走せざるを得ない」ものであるからだ。</p>
	<p>しかし、現在、さういつた「本来のアカデミズム」によって議論なりなんなりが、されているだらうか。</p>
	<p>例へば2ちやんねるで行はれる様々な議論は、玉石混交でも「石」の方が多く、優良な情報なり議論は個人の判断に任せられわけだが、この視点を取つてみると、その「玉」とされるものも屡々「単純馬鹿」の様相を呈していることに気づく。一つのスレを取り上げて、しかも匿名氏を論ふのは好まないので、2ちやんねるに関係のあるサイトを例示しながら述べると、例えば<a href="http://www.monar.net/">モナー党</a>があつて、</p>
	<blockquote cite="http://www.monar.net/" title="はじめに">
		<ul>
			<li>国民の利益を考えている政治家ならば、選挙カーなんて走らせません。</li>
			<li>環境を考える政治家ならば、無駄なビラもポスターも作りません。</li>
			<li>世界平和を望んでいる政治家なら、まず日本を平和に、そして安全にしてほしい。</li>
			<li>モナー党はみなさまの切なる願いを叶える政党です。オープンで、そしてクリーンで、そしてダイナミックな政治をやっていきます。</li>
		</ul>
	</blockquote>
	<p class="note">(*マークアップの修正は引用者)</p>
	<p>どこかの良識派ニュース番組や野党のやうなことを平然と言つてのける。</p>
	<p>ここに書かれてゐることはどれも<em>正しい</em>。しかし我々は屡々、「正しさ」と「現実の利益」を比べた時、そして「正し」いことによつて「現実の利益」と対立する時、「現実の利益」を採るものだ。政治が<q>オープンで、そしてクリーン</q>であることは結構だが、それによつてもたらされる不利益に目を向けぬなど「単純馬鹿」以外の何者でもない。清潔で正しいことは人びとの印象に良いが、印象に良いものが本来の「正しい選択」とは限らない。</p>
	<p>一つの例をもつて社会全体を述べようとは思はないが、実際世論を作るマス・メディアはこれと殆ど大差のないものだ。これはマス・メディアへの対抗という単純な構図を採る一部の(あるいは多くの)2ちやんねらにとつて皮肉な事実である。</p>
	<p>「誠実」とは、手段や論理的思考において重要なのであつて、必ずしも結論が「誠実」である必要はない。そして、誠実な結論のみを求めるとき、人は「馬鹿」になる。その「馬鹿」が世論を作つてゐるといふのだから、目を覆ひたくなるほどの絶望を僕は感じる。</p>
	<h2 id="FOOTER">この文書について</h2>
	<dl id="STATUS">
		<dt>公開</dt>
		<dd>2003-10-20</dd>
		<dt>改定</dt>
		<dd><!--#config timefmt="%Y-%m-%d" --><!--#flastmod file="sincerity.html" --></dd>
		<dt>制作</dt>
		<dd>加納　景 &lt;<a href="mailto:%77%65%62%6D%61%73%74%65%72%40%70%6F%65%73%69%61%2E%6A%70">webmaster&#64;poesia.jp</a>&gt;</dd>
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