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	<meta name="author" content="加納　景">
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	<title>反復（2005年10月）</title>
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</ol>
<h1>反復（2005年10月）</h1>
	<h2 id="DATE20051014"><span class="date">2005-10-14</span></h2>
		<h3 id="DOC20051014131013">たぶんつづき</h3>
		<ul>
			<li><a href="http://d.hatena.ne.jp/jintrick/20051012">Hatena::agenda</a></li>
		</ul>
		<blockquote>
		<p>目的と条件が与えられれば、そこから演繹される道理に適った方法、即ち正しい方法に接近することができるだろう。ある方法を採用したとき目的から遠のいていくなら、それを間違った方法と呼ぶ。価値判断が入り込む余地は無い。</p>
		<p>対象が正しい方法であっても、目的を批判することは可能であり、ここで価値判断が必要になる。条件を批判することも可能で、このとき事実の検討が必要になる。</p>
		</blockquote>
		<p>この人、どうしてこうやつて<q>サービス</q>とか人を馬鹿にしたやうな態度をとるのだらうか。まあ、相對主義者にありがちな對應だからもう慣れてゐるし、さういふ態度でこられたら私も同じやうにするのが常だから云々。</p>
		<dl>
		<dt>ヒント</dt>
		<dd>「正しい」を「妥當な」に代へて讀んでみよ。</dd>
		<dt>答へ</dt>
		<dd>つまり、そふぃあさんが言つてゐるのは私の言ふ「妥當」な文章の解説で、反論にはなつてゐない。私が價値判斷を云々したのは「正確な言葉/文章を述べる/書く」といふ<q>目的</q>（X）について論じてゐたからだ。そこは<q>価値判断が必要</q>なのだ。そふぃあさんの言ふとほり。それをそふぃあさんは「<q>目的</q>は X とは限らない、Y も同等の價値を持ち、そればかりか Z 等樣々にあり、つまりそれらは<q>ゴールに依存する</q>」、と言つたから價値相對主義者だと指摘したのだ。それに對し私は、言葉の正しい（本質的・普遍的な）役割はあるだらうと言つた。さう措定しなければ、一體何が惡い言葉遣ひで、何がよい（<span class="note">善い/良い</span>）言葉遣ひなのか判斷出來ないのだと。</dd>
		<dd>さうして「よい言葉遣ひ」を得たとして、さて「惡い言葉遣ひ」は惡なのか言へば、必ずしもさうではなく、正しくはないが妥當な言葉遣ひもある。その點についてはそふぃあさんも同意してゐるはずである。</dd>
		<dd>つまりこのやり取りにおける、加納とそふぃあさんの主張の根本的な相違點は、言葉の役割に正しい（本質的・普遍的な）ものがあるか否かといふ點である。</dd>
		<dd>といふか、私が「正しさ」といふとき、それは哲學的思想的な意味での「正しさ」をさしてゐて、それゆゑに「哲學がもとめた『眞善美』」といつた言ひ囘しをしてゐるのだが、そふぃあさんの場合、それは單に論理的な意味合ひでの「正しさ」でしかない。だからこそ「正しさ」の亂立を認める價値相對志向が出てくる。なぜなら論理それ自體はいくらでも作り上げることができるからだ。それらの論理はそれぞれ「正しい」といふわけだ。むろん私はチェスタトンの言葉を用ゐて、その主張を當初から斥けてゐるから何ら問題はない。</dd>
		</dl>
	<h2 id="DATE20051003"><span class="date">2005-10-03</span></h2>
		<h3 id="DOC20051003023910">頭が惡いなら默れ</h3>
		<p>豫定變更。そふぃあさんに對する反論で更新停止。</p>
		<ul>
			<li><a href="http://d.hatena.ne.jp/jintrick/20051002">Hatena::agenda</a></li>
		</ul>
		<blockquote>
			<p>Dは「物事を状況に応じて妥当に伝えるのが言葉の役割」、Aは「物事を正確に伝えるのが言葉の役割」。イコールではない。</p>
		</blockquote>
		<p>高校生レベルの讀解力もない人間を私は「文盲」と蔑むのだが、今囘も例によつて「文盲」呼ばはりさせてもらふ。それが嫌なら、以下の文章を讀んで己れの馬鹿さ加減を反省すること。</p>
		<p>引用部によると、私は<q>Dは「物事を状況に応じて妥当に伝えるのが言葉の役割」</q>と言つてゐるらしい。それは本當だらうか? では當（假定「D」）の文章を讀んでみよう。</p>
		<blockquote>
		<p>だから、さういふ政治的な文章は、あつても良いけれど、本質的に下らないものだ、と構へておくべきなのです。それを、わざわざ<q>正しい</q>と表現する必要はない。ある場面において妥當である、といへばいいだけです。</p>
		</blockquote>
		<p>政治的な言葉は、ありうる（<strong>妥當</strong>）が、それが<strong>正しい</strong>わけではない、と主張してゐる。それは、「D」（<span class="note">假定「A」への反論の反論、或いは「A」を補強する形での假定、ゆゑに「D」は「A」とイコールである、もしくは≒で繋いでもいい</span>）が<q>物事を状況に応じて妥当に伝える</q>こと = <q>言葉の役割</q>といふ等式を否定するものである。それゆゑに、そふぃあさんは、言つてもゐないことを「言つた」と既成事實化することによつて、人の意見を捻じ曲げ、自分に都合の良いはうに議論を進めようとしてゐる、と斷じて差支へないのである。</p>
		<blockquote>
		<p>さて、複雑な物事の一面だけ伝えることは時に必要であり、そのことで心の葛藤を生み、大いに悩んでいる人もいる。「悪い言葉の使い方」などと単純に割り切れないだろう。</p>
		</blockquote>
		<p>「惡い言葉の使ひ方」といふのが<q>単純</q>だと言ひたいらしい。馬鹿馬鹿しいが指摘しておくと、「正しくない言葉の使ひ方」は、ある場面では<strong>妥當</strong>だが、それは<strong>正し</strong>くないのだから<strong>惡い</strong>のである。私は何も、いつも正しい言葉を吐かなければならぬと言つた覺えはない。だから「妥當」といふ言葉で表現したのであつて、「惡い言葉の使ひ方」が直接その人の人格や性格を「惡」だと決定附けるものではない。そんなことは文章をきちんと讀めば分かることだ。讀めないから私はそふぃあさんを「文盲」と斷ずる。</p>
		<blockquote>
			<blockquote>
			<p>そふぃあさんは、都合の惡いところは無視すれば「勝てる」と思つてゐる。</p>
			</blockquote>
			<p>この人一体どれだけ天狗なのかは知らないが、こういう滅茶苦茶な断定が多すぎる。都合が悪いから無視したんじゃあなくて、とりあえず最初の論点を議論してからでないと収拾がつかなくなるから後回しにしただけに決まっているじゃあないか。まあそうでなくても採り上げる価値もない論点ばかりだが。例えば加納さんは私が不誠実だという。しかし誤解だと主張するのに時間を割いて、それが言い訳以外の何になるというのか。「頭のいい」そふぃあさんだのなんだの散々嫌味な言い方をされた。しかし嫌味だ無礼だ議論にならぬと反駁したところで、それが私にとって、読者にとって、議論にとって何か意味があるのか? 少しでも考えられる人間なら無視する。</p>
		</blockquote>
		<p><q>こういう滅茶苦茶な断定</q>とか言つてゐるし。引用部（<span class="note">「都合の惡いところは」云々</span>）は、<q cite="http://www.poesia.jp/notebook/200509.html#DOC20050930033837">といふか、私の舉げた「D」は、イコール「A」であり、その假定の正しきことを証明したわけ（つまり「C」の否定）だが、その邊は例によつて素つ飛ばしてゐる</q>といふ具體例から導いた結論であつて、文句があるならば<q>素つ飛ばしてゐ</q>ないと反論すればよいのである。或いは、その具體例が論ずるにあたひしないと論證すればよい。だが、誰の目から見ても明らかのやうに、ここを論證せずに結論に辿りつけるわけはない。で、あれば、<q>そふぃあさんは、都合の惡いところは無視すれば「勝てる」と思つてゐる</q>と斷じてもよいのである。</p>
		<blockquote>
		<p><q>野嵜さんがうまいことまとめてくれてゐる。といふか、本當にぐだぐだになつた。私も惡い。</q>などと反省したふりをしつつ、<q>取り敢へず瑣末な點を舉げれば</q>などと言って全く関係のないファシズム定義の問題に引っ張ろうとする。当然選択肢としては「無視」一本だ。もちろん、採り上げるべき副次的論点もある。あるにはあるが、後回しにしないと読者は何が何だかわからなくなる。読者というのは主に加納さんだが。わらい。</p>
		</blockquote>
		<p><q><q>取り敢へず瑣末な點を舉げれば</q>などと言って全く関係のないファシズム定義の問題に引っ張ろうとする</q>だつて。だーかーらー、「瑣末」と斷つた上に本論に戻る際に「閑話休題」と言つてゐるぢやないか。どこが<q>引っ張ろうと</q>してゐるんだ? そもそも、これ以降ファシズムに關する突込みをしたか? それとも「閑話休題」の意味も分からないの? <q>「無視」一本</q>であるのは別にどうでもいい。ファシズムに關しては本當の餘談なのだから。だがさうではないところを無視するから不誠實だと言つてゐる。それが嫌ならば態度を改めるなり別項にわけて反論すればよい。さうすれば讀者も混亂しないだらう。讀者といふのは主にそふぃあさんだが。わらひ。</p>
		<h3 id="DOC20051003161213">まとめ</h3>
		<p>できるだけ簡潔に兩者の主張の違ひを檢討してみる。</p>
			<h4>加納の考へ</h4>
			<ol>
				<li>言葉の<strong>本質的</strong>な役割は「正確に物事を傳へること」である</li>
				<li>ゆゑに、「正確に物事を傳へない」言葉や文章は、惡い文章である</li>
				<li>ただし、時・處・場合において、惡い言葉遣ひをせねばならぬ時があり、それは妥當である</li>
			</ol>
			<p>注意しなければならないのは、言葉には「正しい」ものがあるといふ前提をおくからこそ、妥當であるといふ判斷もできるといふことだ。一體何が正しく、或いは正しくないのか、といふ軸があればこそ「時・處・場合」における言葉遣ひが妥當であると判斷できる。</p>
			<h4>そふぃあさんの考へ</h4>
			<ol>
				<li>言葉の役割は個々人の<q cite="http://d.hatena.ne.jp/jintrick/20050922">ゴールに依存する</q></li>
				<li>ゆゑに、「正確に物事を傳へない」言葉や文章は、<q>或る教育家にとって<strong title="強調加納">正しい</strong>方法である</q></li>
			</ol>
			<h4>爭點</h4>
			<p>私が言葉には普遍的・本質的な正しい遣ひ方があるはずだ、といふ前提から出發するのに對し、そふぃあさんは、人それぞれによつて言葉の役割は違ふ、といふ前提から出發する。では、どちらの考へが正當なのか。</p>
			<h4>檢討</h4>
			<p>では、私の、「言葉や言葉遣ひに普遍的・本質的な正しさがある」といふ前提を否定するとどうなるのか。二つほど考へられる。</p>
			<p>まづ第一に、誰もが「正義」であり、ゆゑに議論をする餘地はない。なぜなら、議論とは「普遍的・本質的な正しさ」があるはずだと仮構すればこそ互ひの意見をぶつけあへるからだ。どちらも「正しい」のならば、議論する必要はない。だから、なぜそふぃあさんが、私の考へを否定したいのか、さつぱり分からない。私の意見もそふぃあさんの意見も「正しい」ならば、一々突つ掛らなければよいものを、なぜかそふぃあさんは論難するのである。これは明かに矛盾である。</p>
			<p>第二に考へられるのは、カオスである。誰もが「正義」であるといふことは、誰もが「惡」ではないといふことである。あるいは、そのやうな状況においては「正義」や「惡」などといふ概念は消え失せ、あらゆる價値判斷が成立せず、ただそれぞれの「立場」が存在し、しかしその「立場」を保障する眞僞・善惡・美醜の概念もとうに溶解してゐるとなつては、「何も信じず誰も信じぬこの男が、自分自身の惡夢のなかにたつたひとり立ちつくす時がやつてきた」（チェスタトン）となるのは必定である。</p>
			<p>かうしてみても、やはり私の立場のはうが正しいと思はれるのだが、そふぃあさんは如何に考へてをられるのか。</p>
		<h3 id="DOC20051003182200">そふぃあさんの立場からそふぃあさんを批判する</h3>
		<p>そふぃあさんと言へば取り敢へず W3C に肯定的な人である、といふのは、議論すべくもないだらう。で、そのそふぃあさんの素晴らしいコンテンツ（<span class="note">皮肉ではない</span>）<a href="http://members.jcom.home.ne.jp/jintrick/Personal/markup.html">初心者のためのホームページ作成講座 - Personnel</a>は、ウェブサイトを作る上で極めて有益なリソースである、といふことも私は認める。</p>
		<p>さて、當の文書においてそふぃあさんは、<q>ホームページ</q>といふ言葉を用ゐてゐる。これは WWW 上に存在する文書の俗稱として廣く知られてゐるわけだが、むろん間違つた用法である。そのことについてそふぃあさんが知らぬわけはなく、<a href="http://members.jcom.home.ne.jp/jintrick/Personal/markup_readme.html#icatch">「ホームページは見栄えが不定」『重要事項と用語 - Personnel』</a>において、<q>尚、以下では正確を期す為、これ以降は<a href="http://members.jcom.home.ne.jp/jintrick/Personal/glossary.html#term_homepage">ホームページ</a>ではなく<a href="http://members.jcom.home.ne.jp/jintrick/Personal/glossary.html#term_webpage">ウェブページ</a>、あるいは<a href="http://members.jcom.home.ne.jp/jintrick/Personal/glossary.html#term_website">ウェブサイト</a>と表現します</q>と書き、讀者を啓蒙する<q>教育家</q>として妥當であるのみならず、言葉遣ひとしても文章としても正確で正しく紹介してゐる。</p>
		<p>しかし、問題は <q>2003-03-31T00:18:50+09:00</q> の頃のそふぃあさんではなく、現在のそふぃあさんの立場だらう。</p>
		<p>そふぃあさんは、「ホームページ = ウェブサイト」が間違ひで不正確であることを、知つてゐたから上記のやうに書くことができたのである。だが、あらゆる言葉は個々人のゴールに依存すると考へる現在のそふぃあさんは、「ホームページ = ウェブサイト」が（<q>或る教育家にとっては</q>）正しいと言はなければならない。</p>

	<h2 id="FOOTER">この文書について</h2>
	<dl id="STATUS">
		<dt>公開</dt>
		<dd>2005-10-02</dd>
		<dt>最終改定</dt>
		<dd><!--#config timefmt="%Y-%m-%d" --><!--#flastmod file="200510.html" --></dd>
		<dt>制作者</dt>
		<dd>加納　景 &lt;<a href="mailto:%77%65%62%6D%61%73%74%65%72%40%70%6F%65%73%69%61%2E%6A%70">webmaster&#64;poesia.jp</a>&gt;</dd>
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