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	<meta http-equiv="content-type" content="text/html; charset=shift_jis">
	<meta name="author" content="加納　景">
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	<title>反復（2005年09月）</title>
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<ol id="NAVI">
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</ol>
<h1>反復（2005年09月）</h1>
		<p><ins datetime="2005-10-03T03:50:52+09:00" class="addition">そふぃあさんへの反論については、<a href="./200510.html">次月</a>以降で採り挙げてゐます。それが終了し次第、更新停止。</ins></p>
		<h2 id="DATE20050930"><span class="date">2005-09-30</span></h2>
		<h3 id="DOC20050930042705">最後の日の更新から、ネット上の「日記」や「ブログ」について</h3>
		<p>前から予告していたとおり、この日記のようなリソースの更新は、今月いっぱい、つまり今日で終わりです。なぜ私がここの更新をやめるに至ったのか、ということを、メモとして（後あとまとめるつもりなので）三つほど書いておきます。</p>
		<p>まず第一に、軽いニヒリズム、という理由があります。たとえば、ここで何ほどかのことを言ったとしましょう。しかしそれは、むろん世の中を変えることはなく、誰かの考えを変えることはありません。幾人かの奇特な方が、私の文章を読んでくださって、多少の感慨や思考を深めることがあった、ということは、知っているつもりです。では、その人たちのために書き続けるのか、ということになると思いますが、それは無理な話です。</p>
		<p>ここから第二の（そして一番重要な）理由になるのですが、常々言っているとおり、ウェブなるものにはほとんど価値はありません。ウェブ上で議論をする、ということは、有益どころか、無益、いやむしろ有害であると私は思うようになったのです。これが、呑み屋（別にコンビニでビールを買って家でやってもいいのですが）での議論ならば、有益である、と私は思います。それは、以下のような理由でです。</p>
		<p>議論において使われるのは言葉でありますが、その言葉も、相手の表情や仕草、その場の雰囲気や時で、変わってくるものであり、そのような言葉遣いの洗練の場こそが議論の場である、という考えがあるからです。むろんウェブにはそのような場は存在しません。しかしそれが決定的な問題点で、ウェブでの言葉はしばしば、言葉のもつ論理性が一人歩きして、しまいには暴走するという事態が生じます。なぜなら、やはり、ウェブには言葉や論理、理性を制御する「伝統」が存在しないからです。「伝統」がなくとも言葉を制御できる、という人を、私は信用しません。それは甚だしい思い上がりに他ありませんし、その人はいつか、言葉をうまく扱うことができなくなる、一種の精神病めいた症状に陥ることになるでしょう。自分の論理や言葉を支えているのが「伝統」であると知ればこそ、人は安定した言葉を得ることができるのです。「伝統」という言葉がいささか大仰にすぎるというならば、「常識」と言ってもいい。縦の軸としての歴史と横の軸としての世間や家庭の交わるところに自分が存在すると考えるならば、そして、それらの支柱が空虚であれば、自分すらも空虚になってしまう、というわけです。その果てにあるものは、狂気しかありません。</p>
		<p>最後の第三に、これもやはり二つ目の理由と重なるのですが、私自身が「一種の精神病めいた症状に陥」ったということが、実はあったのです。言葉がうまく出てこない、出てきても言おうとしたことと違う、というジレンマにはじまって、最後は、思考すらも覚束ない、という事態にまでなりました。それもそのはず、思考は言葉によってなされるからです。それは去年の暮れからでした。最初は体調が悪かっただけなのですが、最終的にはそのような具合になってしまったようです。</p>
		<p>で、ありますから、今後は、ウェブ上でのやり取り、出来事には一切関心をもたず、素晴らしい作品の紹介に徹することにします。ウェブが唯一有益であるのは、そのような「情報」の取得という点に尽きるわけですから。</p>
		<p></p>
		<h3 id="DOC20050930033837">再批判</h3>
		<blockquote cite="http://d.hatena.ne.jp/jintrick/20050930">
			<blockquote>
			<p><q>加納さんはCの表現方法を改めてC'とした</q>といふのは、そふぃあさんの「C」が過てるものであるから「D」といつたのだ。「C = C'」といふイコールは存在しない。</p>
			</blockquote>
		<p>「AならばBである」の「Bである」を否定する為に、Aの代わりにCを挙げたのだから、CがC'になろうとDになろうと「Bである」が否定されていれば問題ない。ゆえに反論する必要もない。</p>
		</blockquote>
		<p>論理が不成立である。「B」の假定は「D」なのだから、「D」を否定しなくてはならない。といふか、私の舉げた「D」は、イコール「A」であり、その假定の正しきことを証明したわけ（つまり「C」の否定）だが、その邊は例によつて素つ飛ばしてゐる。そふぃあさんは「私は正しい」と言ふが、なぜ「正しい」のかを説明しない。それは、論理なんてものではないし、議論や話合ひは成り立たない。もつとも、「私が納得すればいい」といふやり方でらしいので、すべて自己滿足なのだから、成立しないのは必然なのだが。</p>
		<p>そふぃあさんは論理的に考へるふりをして、その實、自分を護るための「論理」をデッチ擧げてゐるにすぎない。或いは、そふぃあさんは、都合の惡いところは無視すれば「勝てる」と思つてゐる。私の豫言は當つたわけだが、多分また反應しないだらう。「頭のいい」そふぃあさんは、それが自分を護る最善手だと分かつてゐるからだ。或いはまた、雙方の論理が檢討されるためには、それぞれにそれなりの態度が必要であるといふ前提を、そふぃあさんは分からない。論理は論理として成立してゐると思つてゐる。だから文脈を無視して上記のやうな引用の仕方をする。總じて、そふぃあさんは、誰かを批判すべきではない、誰にも見られることのない私的な日記にでも書いてゐればいい、といふことになる。</p>
		<p>むろん、そふぃあさんにだつて、きちんとした言ひ分があり、私のこのやうな半ば挑發的な文章に腸が煮えくり返つてゐるだらうと思ふ。だが、多分、それをそのまゝ公表するわけにはいかない、といふ自意識があるのだらうと、私は（實は）好意的に解釋してゐる。このことは、一應付け加へておくべきだらう。</p>
		<h3 id="DOC20050930041700">論理と偏見（再掲）</h3>
		<p>私が私自身の文章に對して、「論理的」と言つたところ、思ひあがりにもほどがあると責められたことがある。さらに、私が、議論において紛糾しない最良の方法は論理的であることだと言つたところ、「論理主義者」だと極め付けてレッテルを貼つた人もゐた。どちらも言葉の定義を自分の側でしか認めてゐないのだが、誤解させたはうも惡いことは惡いので、差し當たり非難することはないのだが、いづれにしても私なりの論理の意味を定義しておかななければなるまい。</p>
		<p>私が論理と言ふばあひ、それは常に相對的なものである。或る假定を定め、論證し、結論付けるといふ一連の作業の過程が論理といふことであり、さういふ形態をもつた文章のことを論理的な文章と呼ぶ。よつて、自らの文章を論理的と評することに、傲慢も思ひあがりもないのである。</p>
		<p>また、それゆゑに論理はひとつではあり得ない。樣々な論理がありうる。その一樣ならぬ論理と論理の検討が議論なのである。逆に言へば、議論において論理的ならざるものを用ゐれば、必然議論は成立しないといふことになる。論理が議論に必要不可缺であるゆゑんである。</p>
		<p>だが、重要であるのは、論理において、どうしてその假定をおかなければならなかつたのかといふことだ。それはあつさりと言つてしまへば、偏見によつてでしかない。どんな假定も正當な合理性などはない。あるわけがない。もしあれば、議論をはじめとする對話（ダイアレクティック）が存在するはずがない。あるのは、その假定がどれほど妥當であるかといふことしかない。合理的（論理的）な廣がりは、その非合理が前提にある。G・K・チェスタトンの有名なレトリック、「狂人とは理性を失つた人のことではない、理性以外のあらゆるものを失つた人のことだ」とは、つまりかういふことであるし、或いはエドマンド・バークが「偏見の擁護」と言つたのもそのことなのである。</p>

	<h2 id="DATE20050929"><span class="date">2005-09-29</span></h2>
		<h3 id="DOC20050929021258">jintrick さんの價値相對主義を批判する</h3>
		<p>そふぃあさん（= jintrick さん）は、徳保さん流の價値相對主義者なのではないか。少なくとも、この議論なり話合ひなりでは、さうである。</p>
		<blockquote cite="http://d.hatena.ne.jp/jintrick/20050928">
		<p>加納さんがそう主張したと私は言っていません。私のゴールを述べただけですが、訳が分からなくてもそれほど問題はありません。</p>
		</blockquote>
		<p><q>加納さんがそう主張したと私は言っていません</q>といはれてムカッとするのは私が短氣だからなのだらうが、それだけでなく、論理的にをかしいのである。そふぃあさんは<q cite="http://d.hatena.ne.jp/jintrick/20050927">私の反論の目的は</q>といつてゐる。一體誰に對しての<q>反論</q>なのか? 當然私に對してである。といふことは、私の論理に對して<q>反論</q>したといふことなのだから、私の文脈や言葉を無視して語ることができる道理なんぞありはしない。<q>加納さんがそう主張したと私は言っていません</q>といふのは、單なる「とぼけ」だし、甚だしい不誠實だ。さらに、さういふ不誠實は、徳保さんの得意とするところなのだが、そふぃあさんは意識してゐるのかどうか。</p>
		<blockquote>
		<p>加納さんのサイトです。一般論等々と混ざっていてもそういうスタイルなのなら構いません。私は私で検討すべきところだけ検討していますから大丈夫です。</p>
		</blockquote>
		<p>誰のサイトであらうが、守るべき最低限のルールは存在するし、そのルールを無視して議論できる道理なんぞありはしない。あるいは、そふぃあさんは、そふぃあさんのサイトにおいて屡々、他のサイトを批判してゐるが、サイトによつてスタイルが違ふから<q>構</q>はない、といふならば、批判なんぞしなければ良いではないか。私はルールから考へて誤つたやり方をして、そふぃあさんに限らず、どのくらゐかは知らないが讀者に對して混亂させたのだから、私の文章は惡いのである。</p>
		<p>さて、以下から本論に入るわけだが、そふぃあさんはどうやら、面倒だからか見下してゐるからか、或いは議論における蛇足と思つてゐるからなのか判然としないものゝ、上記のやうな態度の問題をあつさりと素つ飛ばすので、きつとここから檢討するだらう。しかし、議論を續けるには雙方の態度がそれなりのものでなければならないのは当たり前だなのだから云々。</p>
		<blockquote>
		<dl>
		<dt>妥当</dt>
		<dd><q>その判断（や処置）が、その場合だけでなく、同類のすべてにも当てはまる正しいものであること。</q>（<cite>岩波国語辞典</cite>）</dd>
		<dd><q>物事の実情などによくあてはまっていること。考え方や処理の仕方に無理なところがなく適切であること。また、そのさま。</q>（<cite><a href="http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%C2%C5%C5%F6&kind=jn&amp;mode=0&amp;base=1&amp;row=0">だとう　―たう 0 【妥当】 - goo 辞書</a></cite>）</dd>
			</dl>
		</blockquote>
		<p>goo 辭書は兔も角、岩波国語辞典の定義は變ぢやないか? <q>その場合だけでなく、同類のすべてにも当てはまる正しいものであること</q>といふ箇所が變だ。大辞泉では、</p>
		<blockquote cite="http://dic.yahoo.co.jp/bin/dsearch?index=11557300&amp;p=%C2%C5%C5%F6&amp;dtype=0&amp;stype=0&amp;dname=0na&amp;pagenum=1">
		<p>実情によくあてはまっていること。適切であること。また、そのさま。「―な方法をとる」「現実社会に―する政策」</p>
		</blockquote>
		<p>大辞林では、</p>
		<blockquote cite="http://dic.yahoo.co.jp/bin/dsearch?p=%C2%C5%C5%F6&stype=0&amp;dtype=0&amp;dname=0ss">
		<p>物事の実情などによくあてはまっていること。考え方や処理の仕方に無理なところがなく適切であること。また、そのさま。</p>
		</blockquote>
		<p>とあり、岩波以外は「正しい」といふ表現はないし、普段もさういふ解釋が普通であるはずで、勿論私もその意で使つてゐる。「その意」とは、つまり、ある場合において<q>適切</q>ではあるが、本來志向すべきものの「正しさ」とは違ふ、といふ差別化のことである。具體例をだせば、政治的に親米が「妥當」であつても思想的には反米が「正しい」といふふうに。政治は相對的だから、「正しい」といふ觀念は存在しない。少なくとも宗教や哲學がもとめた「眞善美」とは對應しない。よつて、そふぃあさんのまとめも成立しない。<q>加納さんはCの表現方法を改めてC'とした</q>といふのは、そふぃあさんの「C」が過てるものであるから「D」といつたのだ。「C = C'」といふイコールは存在しない。</p>

	<h2 id="DATE20050928"><span class="date">2005-09-28</span></h2>
		<h3 id="DOC20050928084858">jintrick さんへの返信 3</h3>
		<p>野嵜さんがうまいことまとめてくれてゐる。といふか、本當にぐだぐだになつた。私も惡い。</p>
		<blockquote>
			<blockquote>
			<p>だから、さういふ政治的な文章は、あつても良いけれど、本質的に下らないものだ、と構へておくべきなのです。</p>
			</blockquote>
			<p>そうなのですか。しかし私は政治的な文章が高貴なものだと書いたつもりはありません。私の反論の目的は、稚拙で粗雑な人間が政治的人間ではありえないと主張することです。加えて彼らが抱くべき苦悩は文学的だということも主張したい。加納さんは文章を観ている。だが私はその裏の人間を観ている。</p>
		</blockquote>
		<p><q>私の反論の目的は、稚拙で粗雑な人間が政治的人間ではありえないと主張すること</q>とは譯が分からない。一體いつ私が「政治的人間 = 稚拙で粗雑」と主張したのだらうか。私はかう書いてゐる。</p>
		<blockquote>
		<p>ウェブだから「公」の話<strong>しか</strong>してはいけないだとか、「私心」を垂れ流してはいけないだとか、そもそもそういう二分法自体が非常に粗雑で稚拙である。</p>
		</blockquote>
		<p>簡單にいへば、「時・場・場合」によつて存在する文脈を、原則論だけで顧みない「言い<em>方</em>」や文章、文體（style）が「稚拙で粗雑」だと批判してゐる。jintrick さんは、的外れな批判をしてゐる。</p>
		<p>といふか、<q>加納さんは文章を観ている。だが私はその裏の人間を観ている</q>といふのは逆だと私は思ふ。私はかう書いた。</p>
		<blockquote>
		<p>私は、G_ONE さんとは別の意味で「日本から逃げたい」と思っている。というか、今の日本を見て「まともである」、と考えるろばQさんのほうが、私は異常だと思う。だが、「逃げたい」と思う心情と、「それでも日本が好きである」という矛盾した感情を同時に持つことは、ありうるし、それこそが人間の真の姿である。そのようなアンビバレントを、<q>道徳的</q>とか<q>権利と義務</q>とかをもって一方を切り捨てる文章は、よくない文章である。私が言う文章における平衡とは、そのアンビバレンスを表現する法のことに他ならない。</p>
		</blockquote>
		<p>人間の本來のすがたを見てゐるからこそ、それを文章に表現できなくては駄目だといつてゐるわけです。</p>
		<blockquote>
			<blockquote>
			<p>といふか、jintrick さんは、文章が極端に政治的になれば、アジテーションに變るといふことを、多分念頭にない。</p>
			</blockquote>
			<p>当然ありません。だって私は<q>「正確に物事を傳えること」を言葉の役割だと考へるならば</q>という仮定を否定するという基礎的な反論をしただけですから。努めて簡素に。そういったファシズムを経験した国の優等生的心配は学生がやっていれば良いことです。</p>
			</blockquote>
			<p>取り敢へず瑣末な點を舉げれば、<q>そういったファシズムを経験した国の優等生的心配</q>とはなんだらうか。日本はいつ<q>ファシズム</q>なんか<q>経験</q>したんですか? 太平洋―大東亞戰爭ですか? しかしあの戰爭は、全体主義ではあつてもファシズムなんていふ高級な思想はありません。そもそも jintrick さんはファシズムがなんたるかを分かつてゐてこんなことをいつてゐるのだらうか。私は、文章を書いたり何かを形づくるとき、必然人はファシズム的にならざるをえないと思つてゐるが、どうやら jintrick さんの中では「ファシズム = 惡」のやうな分かりやすい圖式があるやうだ。</p>
			<p>閑話休題。<q>当然ありません。だって私は<q>「正確に物事を傳えること」を言葉の役割だと考へるならば</q>という仮定を否定するという基礎的な反論をしただけ</q>なることを仰つてゐて、これは私も惡いので謝ります。すみません。私の意圖は、「わざわざ<q>正しい</q>と表現する必要はない。ある場面において妥當である、といへばいいだけです」といふ反論で集約されてゐます。あとの文章は jintrick さんへの反論としては不適格（一般論とごつちやになつてゐる）なので、議論から除けます。なので、jintrick さんはその點について反論を下さると助かります。</p>
	<h2 id="DATE20050927"><span class="date">2005-09-27</span></h2>
		<h3 id="DOC20050927012147">jintrick さんへの返信 2</h3>
		<blockquote cite="http://d.hatena.ne.jp/jintrick/20050926">
		<p>政治的人間にとっては「正確に物事を伝えること」が言葉の役割であるとは限らない。「正しく物事を伝えること」が言葉の役割である。<q>勸善懲惡な、或いは片一方だけを採り挙げるやり方</q>だって、或る教育家にとって正しい方法である。</p>
		</blockquote>
		<p>だから、さういふ政治的な文章は、あつても良いけれど、本質的に下らないものだ、と構へておくべきなのです。それを、わざわざ<q>正しい</q>と表現する必要はない。ある場面において妥當である、といへばいいだけです。</p>
		<p>といふか、jintrick さんは、文章が極端に政治的になれば、アジテーションに變るといふことを、多分念頭にない。アジテーションは<q>「正しく物事を伝えること」</q>か? それは、彼ら（政治<em>屋</em>）にとつての「善」ではあるかもしれない。しかし、それが一般的・普遍的な「善」とは決していへない。</p>
		<p>逆をいへば、極端に「文學」的な文章も、物事の眞意を隠すためによろしくない。むろんここでの「文學」は、ある特定の駄目な文學作品のことをいふのだが、その手の「文學」は屡々、「行間」に頼りすぎる。語らずに傳へることが「恰好いい」と思つてゐる。よつて、失語症的な文章になり果せて、ただ獨り善がりなナルシズムに醉ふこととなる。</p>
		<p>「政治」的な文章は多辯に陷り、「文學」的な文章は無口になる。それでは駄目なのだ。</p>
	<h2 id="DATE20050923"><span class="date">2005-09-23</span></h2>
		<h3 id="DOC20050923130114">jintrick さんへの返信</h3>
		<ul>
			<li><a href="http://d.hatena.ne.jp/jintrick/20050922#d2005-09-22T23-48-37">Hatena::agenda</a></li>
		</ul>
		<blockquote cite="http://d.hatena.ne.jp/jintrick/20050922#d2005-09-22T23-48-37">
		<p>「ウェブだから」というのがなんだか良く分からないが、例えば正しいマークアップのしかたを理解してもらうという明確な目的を持った「政治的」活動をするとして「私心」などそのまま公開するわけもなし。また論争相手がいたとして彼の「私心」を土俵にあげるのを許すわけもなく。誰も芸術活動をしているわけではない（と思う）から、別に粗雑だとも稚拙だとも思わないな。全てゴールに依存する。そもそも「よく使う論法」の一例が知りたかった。どういう状況でどう使ったのか。</p>
		</blockquote>
		<p>かういふ反論はありうると豫想してゐました。つまり、<q>誰も芸術活動をしているわけではない（と思う）から、別に粗雑だとも稚拙だとも思わないな。全てゴールに依存する</q>といふ考へ。</p>
		<p>しかし、それはいささか、文章といふよりも言葉や言葉遣ひに關して、無自覺だといはざるを得ない。「正確に物事を<del datetime="2005-09-27T01:41:33+09:00">傳える</del><ins datetime="2005-09-27T01:41:33+09:00">傳へる</ins>こと」を言葉の役割だと考へるならば、そしてその物事が、單純に割り切れるやうな性格のものではないならば（それが現實であるはず）、必然、勸善懲惡な、或いは片一方だけを採り挙げるやり方は、「惡い言葉の遣ひ方」といふことになる。雙方に一部の眞理が認められるならば、それぞれの眞理に見あふやり方で、昇華する必要があるわけです。</p>
		<p>といふか（引用が前後して申し譯ないですが）、<q>正しいマークアップのしかたを理解してもらうという明確な目的を持った「政治的」活動をするとして「私心」などそのまま公開するわけもなし</q>といふのはまつたく仰るとほりなのですが、では、「政治的」ではない文章ならば、「私心」の吐露も、いくらかは（<span class="note">その「私心」によつて言葉が正しく傳はるならばといふことなのだが、その可能性は極めて低いと見るべきだ。なぜなら、エゴイズムが言葉に作用したところで、表はれるのは嫉妬心や怨望といつたものにしかならないためである</span>）認められなければならない、といふことになるはずです。<q>また論争相手がいたとして彼の「私心」を土俵にあげるのを許すわけもなく</q>といふのは、私の定義における「私心」であれば（<span class="note"><q cite="http://www.poesia.jp/notebook/200509.html#DOC20050905011218"><q>正直な所</q>を語る自分（「私［<span lang="en">private</span>］」）にも、それだけではなく確固とした意見をもった自分（「個［<span lang="en">individual</span>］」）もある</q></span>）、そのとほりだと思ひます。</p>
		<p>あと、<q>そもそも「よく使う論法」の一例が知りたかった。どういう状況でどう使ったのか</q>とのことですか、「リンクをしてほしくない」という人に對して、「公開しておいて何事か」と原則論だけで槍玉に舉げたのは、<a href="http://d.hatena.ne.jp/jintrick/20050714">2005-07-14</a>で紹介されてゐる「モヒカン」な彼らでした。定義によれば、彼らはおもにウェブ技術方面に生息してゐるやうです。</p>
		<h3 id="DOC20050923143105">そもそも藝術的な文章とは何か</h3>
		<p>jintrick さんが、私の、「文章は平衡を目指すべき」といふ主張に對して、<q>誰も芸術活動をしているわけではない</q>と仰つたことを、もう少し檢討してみる。</p>
		<p>小説を讀めば一目瞭然だが、そこにあるものすべてを書けばよい作品が書けるといふことはない。作者の思念や恣意によつて、登場人物や情景の描寫には必ず濃淡が出來る。しかし、これはむしろ賞贊にあたひすべき手法だ。河野多惠子氏が、『小説の秘密をめぐる十二章』において、「紐は横端で縛ること」といふ比喩を使つたのもこのためである。つまり、複數の事物を均等にあつかふよりも、いづれかに偏つたはうが、文章の構造が緊密になるといふことである。ではなぜ緊密になるのか。それは、讀者が「その場」を想像しやすいからだ。いづれかに焦點をあてることで、「その場」の雰圍氣や状態が、竝列的に書くよりも、くつきりとしてくる。</p>
		<p>むろん、ヌーヴォー・ロマンの前衞を知らないわけではない。彼らは、物が「存在すること」に賭けた。そこにこそ眞に驚くべき事柄があると。よつて、彼らの作品は、屡々、そこにある物を逐一描寫することによつてゆうに一ページ以上の文章が續いた。しかし、そこにも描寫の濃淡が存在してゐたことは、いふまでもないだらう。</p>
		<p>ゆゑに、jintrick さんの言葉は逆轉しなければならない。藝術的であればあるほど、平衡的な文章は失はれてゆくのである。或いは、それだからこそ、「藝術」は屡々、政治的な文章に墮すことがあるのだ。</p>


	<h2 id="DATE20050919"><span class="date">2005-09-19</span></h2>
		<h3 id="DOC20050919150138">JavaScript で link 要素からナヴィゲーションを作成したい件</h3>
		<p>私の記憶によると、QUIA の平野さんがサイトで使つてゐたと思ふのだけれども、今は閉鎖されて仕舞つて、參考にすることもパクリのお願ひをすることもあたはず、さてどうしたものか、と。もちろん、今の文書型宣言（ISO/IEC 15445:2000）では出來ませんが。まあ、たまには自分でやつてみろといふことですね。あと、關係ありませんが、このやうな日記形式の更新は、九月一杯で終了します。今後はコンテンツ作成だけの更新に。</p>

		<h3 id="DOC20050919130551">アニメが日本の文化だといふ恥づかしさ</h3>
		<p>良くも惡くも日本の文化として漫畫やアニメーションが取り沙汰されて久しいが、そもそも漫畫は輸入されたもので、それを手塚治が……といふどこかで必ず聞く話はどうでもよくて、それよりも、「日本文化」化されたアニメが、現状、「萌え」に一元化されてゐるのは、「日本文化」の底の淺さを示してゐると看做すに充分な現象である。</p>
		<p>資本の構造やらなにやらといふ理屈はいくらでもつけられるが、では、文化とは資本なのか。これを否定するならば、アニメを文化と呼ぶのは相應しくないといへる。</p>
		<p>といふか、私には、アニメは淫してゐるとしか思へない。八十年代の發展と九十年代の一般化と稱揚を經て、二千年は過去の囘想（反復ではない）に淫してゐる。それは、決して譽めそやすべきことではないし、ましてや文化などと稱するのはトンデモないことだ。もちろん、私だってメイン・カルチャーの沒落といふ事態を知らないわけではないが、そんなものは、メイン・カルチャーも文化ではなかつたのだ、といつて仕舞へば良いだけの話である。そして、そのときに、私たちにはなにもないのだ、と氣づくべきなのである。私たちは、文化も文明もまつさらに燒き盡くされた地平から歩み始めたのだし、今でもその状況は變つてゐないとみるべきなのだ。坂口安吾は「墮ちよ」といつた。だが、戰後六十年を過ぎてもまだ、私たちは「墮ち」てゐるのだ。</p>

	<h2 id="DATE20050918"><span class="date">2005-09-18</span></h2>
		<h3 id="DOC20050918020157">なにに對して反應し、或いはしないか</h3>
		<p>なんでもかんでも反應すりやあいいといふ貧乏根性はなんとかならんのか、某界隈。なにも反應をしない、といふのも、一つの批評的な態度である。</p>

	<h2 id="DATE20050917"><span class="date">2005-09-17</span></h2>
		<h3 id="DOC20050917095703">中庸</h3>
		<ul>
			<li><a href="http://d.hatena.ne.jp/kahusi/comment?date=20050916#c">kahusiの日記擬き</a></li>
		</ul>
		<p>概念上の仕分けの問題として政治と思想を切り離した場合、思想の中庸にあたる言葉を、政治的にはなんと表現するのが適切かを考へてみる集ひ（謎）。</p>
		<p>karpa さんが<q>中庸はアリストテレスの著作の名前でもありますから、儒教的といひきるには一般的に過ぎる気も</q>と仰つてゐて、「あら、アリストテレスは&quot;Golden Mean&quot;（中道）ぢやなかつたかしら」と思ひ（<span class="note">まあ中道でも中庸でもほぼ同じ意味ですが</span>）調べてみると、やつぱり<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/アリストテレス">中庸が正しい</a>やうです。</p>
		<p>ただ、儒教にしろアリストテレスにしろ、やはり思想的な用語として使ふの本當だと思ふので、どうも表現法として適切ではないかもしれない。まあ、概念上の仕分けですから、むろん重なる部分もあるわけで、仕方がないといへばさうなのかもしれません。</p>
		<h3 id="DOC20050917080152">Opera 次期リリースは來週末?</h3>
		<p><a href="http://d.hatena.ne.jp/saiton/20050917/1126911328">A blog? with Σαιτω - Merlin</a> 經由で。<q><a href="http://operawatch.blogspot.com/2005/09/major-overhaul-to-opera-browser.html">OperaWatch によると</a>、UI を大幅に簡素化した 8.5 が来週末までに公開される予定だそうだ。コメント欄にいろいろな憶測（<span class="note">Google と提携して完全無料化されるとか。確証はない。</span>）が書かれている。</q></p>
		<blockquote cite="http://operawatch.blogspot.com/2005/09/major-overhaul-to-opera-browser.html" title="Opera Watch: Major Overhaul to the Opera Browser">
		<p>The new version number will likely be either Opera 8.5 or Opera 9, code named "Merlin".</p>
		<p>It is expected to be released by the end of next week.</p>
		</blockquote>
		<p><q>UI を大幅に簡素化した</q>といふところが極めて魅力的。</p>

	<h2 id="DATE20050916"><span class="date">2005-09-16</span></h2>
		<h3 id="DOC20050916002515">偉さうな「ブロガー」たち</h3>
		<p>いつも思ふのだが、「ブログ」で「〜の方がいいよ」とかさういふ言ひ囘しをする人間は、人を莫迦にしてゐる。<q cite="http://www.poesia.jp/notebook/200508.html#ID20050807080226">自分をけっこうな存在と見立てる人間礼賛の思想の一つの帰結とみるべきだろう。</q></p>

	<h2 id="DATE20050914"><span class="date">2005-09-14</span></h2>
		<h3 id="DOC20050914022626">Opera Affiliates</h3>
		<ul>
			<li><a href="http://my.opera.com/community/affiliates/">Opera Community - Affiliates</a></li>
		</ul>
		<p>リニューアルしてから 404 Not Found だつた Affiliate が復活。前囘の、それぞれの「ページ」の選擇ができないやうな不便はなくなり、そこそこ見られるやうになつた。</p>

	<h2 id="DATE20050911"><span class="date">2005-09-11</span></h2>
		<h3 id="DOC20050911100128">有權者とは何か?</h3>
		<p>選擧においての「有權者」、すなはち「權利を有する者」の「權利」とは、およそ「投票する權利」のことだと思はれてゐる。もちろんさうであることに違ひはないものの、では、一體何に投票する權利なのか、といふことについては、單純な逆算で答へられるほど簡單ではない。つまり、候補者に票を入れることといふ以外にも、その候補者の何について票を入れるのか、といふことは、定かではないのである。</p>
		<p>何を言つてゐるのだ御前さん、といふ聲が今にも聞こえてきさうだ。さういふ人はかう仰るに違ひない。「その候補者の政策で判斷するのだよ」。なるほど仰るとほりだが、それでも私は、小聲でかう呟かざるを得ない。</p>
		<p>日本において採られてゐる民主主義の形態は、間接民主制である。間接であれ直接であれ、民主主義において重要であるのは「民（有權者）」だが、直接にあつて間接にないものは、その「民」の政治的能力（<strong>議</strong>會で議論できる能力）を期待することなのである。もつと分かりやすく言へば、間接民主制の國家では、「民」に政治的な能力がない、とする暗默の前提があるのである。その代はり、政治的能力を有するものを擇ぶ能力はある、といふ前提がある。つまり、私たち「有權者」は、「政策」よりもまづ、そのことについて議論する能力のある候補者に票を入れねばならない、といふことになり、偉さうに「政策」を論じて票を振りかざす「權利」は存在しないのだ、と構へるべきではないか。</p>
		<p>さらに小聲で言へば、現在間接民主制よりも直接民主制を望む人々が多いのは、一體どういつた料簡なのかと、それらの人々に問ひ質したい。それらの人々は、つまり、自分には政治的な能力があると自負してゐるから直接民主制を支持出來るのである。しかしながら、それはいささか思ひ上つた言ひ草だと私なんかは思つてしまふ。端的に示す例としてウェブをあげれば分かりやすい。ウェブは、實生活においてよりも「議論」が多いが、一體どれだけ「議論する能力のある」人がゐたと言ふのだらうか。また、「現在の政治家には碌なものがゐない、ましな候補者に入れるだけだ」と嘯く「有權者」たちが多いのも、直接民主制においてや不適格な人材であると看做す根據になりうる。なぜなら、それは、それらの人々が候補者の政治的能力の有無すら判斷できなかつたといふことでもあるからだ。その能力さへないのに、どうして政治的能力なんぞを期待できるだうか。</p>
		<p>だが、かうしてぶつくさと言つても、己れに政治的能力があると自負する立派な御仁たちは、選擧に行つて仕舞つてゐるに違ひないし、私のやうな、住所を移動してから三ヶ月未滿である「無權者」は、こんなことを言ふ資格はないのかもしれない。</p>

	<h2 id="DATE20050910"><span class="date">2005-09-10</span></h2>
		<h3 id="DOC20050910062506">坂本龍一のソロ・ピアノコンサートツアー</h3>
		<p><a href="https://www.sitesakamoto.com/newsletter/">JOURNALSAKAMOTO+</a> は前から購讀してゐたのだけれど、この度のツアーの先行予約はこの購讀者に案内されてゐます。サカモトファンでまだ登録してゐない人は、すぐに登録したはうがいいでせう。</p>
		<p>ちなみに、僕は、目指せ初日 S 席、です。</p>
		<h3 id="DOC20050910071959">言葉の原風景</h3>
		<p>現實の風景を、僕たちはそのまゝ文章にすることはできません。けれども、現實をそのまゝうつさうとする試みのなかにこそ、言葉の役割があるのです。出來ることと出來ぬことのジレンマには、現實との對應を迫る眞摯な願望が存在します。だからこそ、私たちは、その言葉を信頼することができるのです。</p>

	<h2 id="DATE20050909"><span class="date">2005-09-09</span></h2>
		<h3 id="DOC20050909192904">iPod 20GB</h3>
		<p><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/redirect?path=ASIN/B0007YT8VG&amp;link_code=as2&amp;camp=247&amp;tag=poesia-22&amp;creative=1211"><img src="http://images-jp.amazon.com/images/P/B0007YT8VG.01._PE_SCMZZZZZZZ_.jpg" alt="Apple iPod 20GB [MA079J/A]" class="illust"></a></p>
		<p>世間は <a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/redirect?path=ASIN/B0007YT8XY&amp;link_code=as2&amp;camp=247&amp;tag=poesia-22&amp;creative=1211">iPod nano</a> で賑はつてゐるやうですが、僕は今月の二日に誕生日でして、とある人に iPod 20GB を貰つて、大變喜んでゐました。しかし、申し譯ないことに、まだ本格的に弄つてゐません。といふか、本體についてゐる外裝フィルムもはがしてゐません。なぜなら遠出して音樂を聽くといふ機會があまりないためです。Amazon のカスタマー・レビューによれば、「15 時間ももたないよ」といふ意見が大半ですが、そもそも15時間も聽くのかと。</p>
		<h3 id="DOC20050909022219">ウェブは大したものではないのだから</h3>
		<p>たとへば、小説の新人賞は千單位で應募されるわけですが、一次選考二次選考、三次、最終とだんだん振り落としがかかり、受賞するのは多くて二人くらいゐのものです。そうした審査を經て、やうやうく職業的な物書きとして食つていける。見方をかへれば、そのやうな厳しい淘汰の果てに、人に讀ませられる文章が書けるといふことでもあるのです。</p>
		<p>しかし、もちろん私も含めていふのですが、ことウェブにおいては、そのやうな淘汰は存在しないどころか、人樣のまへに出すのも恥づかしい代物が跋扈してゐる。有益な文章よりも無益な文章が、無益だけならばまなしも、有害な文章のはうが多い。玉石混交といつても、むしろ石の中に爪先ほどの光があるのを「玉」と取り違へてゐるはうが多いのが實際です。</p>
		<p>してみれば、ウェブにかうして毎日文章を載せることは、狂気じみてゐるとまではいひませんが、いささか常軌を逸してゐる行爲だといはざるを得ません。恥を他人に晒しつづける行爲がまともだとは、とてもいひ難いはずです。</p>
		<p>また、そのやうな文章ばかりのウェブを、過大に評価したり、或いは大したものだと思ふのも、同樣の過ちを含んでゐると考へれば、畢竟ウェブに求めるものも考へなほさねばなりません。</p>
		<p>ウェブが身近なものになつた現在、もつとも基本的なこれらの事柄は、忘れ去られるばかりか、よりウェブに對する過信が大きくなつてゐます。それもそのはず、ウェブとは、そのやうな精査や淘汰が、良くも惡くも御座なりにされるところに特徴があつたからです。</p>
		<h3 id="DOC20050909072445">見沢さんが自殺</h3>
		<ul>
			<li><a href="http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20050908i507.htm">作家の見沢知廉さん自殺 : 文化 : 社会 : YOMIURI ONLINE（読売新聞）</a></li>
		</ul>
		<p>予測していた人は多いはず。自分としては、見沢さんの作品はあまり評価していないけれども。</p>


	<h2 id="DATE20050907"><span class="date">2005-09-07</span></h2>
		<h3 id="DOC20050907000442">台風</h3>
		<ul>
			<li><a href="http://www.jma.go.jp/jp/typh/">気象庁 | 台風情報</a></li>
		</ul>
		<p>いったん通過した台風がまた舞い戻ってくる、ということがあれば、本当に酷いことになりそうだが、そういう可能性はいまのところどうなんだろうか。</p>

	<h2 id="DATE20050906"><span class="date">2005-09-06</span></h2>
		<h3 id="DOC20050906212117">平衡感覚</h3>
		<ul>
			<li><a href="http://www.netlaputa.ne.jp/~robaq/200509.xhtml#d20050906_1">RobaQ's Memo 2005-09</a></li>
		</ul>
		<blockquote>
		<dl>
		<dt>要約</dt>
		<dd>そもそも<q cite="http://www.poesia.jp/notebook/200509.html#DOC20050905011218" title="文章における平衡"><em>公</em>という原則にばかり拘って、<em>私</em>の側面を閑却してしまっている</q>のであれば、最初の文章の題名が<em>痩せ我慢の奨め</em>などと成るでしょうか。寧ろ<q cite="http://www.poesia.jp/notebook/200509.html#DOC20050905011218" title="文章における平衡"><em>公</em>と<em>私</em>を両方を書いて、それらの葛藤のうちにどのような選択をするのか</q>と言う事を強く意識したからこそ<em>痩せ我慢</em>と言う単語が出てくるとご理解頂きたい所。</dd>
		</dl>
		</blockquote>
		<p>理解しているから「この文章が<strong>優れている</strong>のは、『公』と『私』を両方を書いて、それらの葛藤のうちにどのような選択をするのか、ということを書いているからだ」と書いたわけですが。しかし、そういう文章を書きながら、片一方では駄目な文章を書いていて、それが「ウェブ技術方面に知悉した人がよく使う論法」ゆえに一般化して批判した、という文章です。</p>
		<blockquote>
		<p>そもそもろばＱが G_ONE さんに要求しているのは、民主主義国家の国民が政治を批判し斯く有るべしと言う<em>権利</em>を主張するのであれば、それに応じた<em>責任</em>ある態度を取らねば成らない、と言う<em>権利と責任</em>に関する話であり、にも関わらず<q>私の偽らざる本音であり、それをネット上で公開する事になんら不都合は生じない</q>と言うお返事を頂いたので、<q>例えそれが偽らざる本音であろうとも、ネット上で公開する以上は、それは公の発言であり、そこに私心を垂れ流すというのは道義上大いに問題があり、批難に値します</q>と述べて G_ONE さんの無責任な態度を批判し、続けて<q>政治を語るときに同時に同列に<em>いざとなったら逃げる</em>とは<em>言ってはいけない</em>です</q>と、その批判の理由が<em>政治を語る者の立場として相応しくないからである事</em>を再度説明しているのです。</p>
		</blockquote>
		<p><q><em>権利と責任</em>に関する話</q>といういのは、嘘、後付の方便、もしくは論理のすり替えです。ろばQさんは、以下のように述べていました。</p>
		<blockquote>
		<p>結果として日本人である以上、同じ会社の会社員と言う以上に、同じ政治結社の構成員という以上に、同じ日本の国民であり、運命共同体なのです。</p>
		<p>例えそれが偽らざる本音であろうとも、ネット上で<em>公</em>開する以上は、それは公の発言であり、そこに私心を垂れ流すというのは道義上大いに問題があり、批難に値します。</p>
		<p>（中略）</p>
		<q>自分だけ逃げ出す</q>などと言ってはいけません。価値がある、ない、と言う評価以前に、<em>発言すべきではない</em>事です。</p>
		<p>勿論、本邦には思想の自由があります。言論の自由があります。思った事を意見表明する自由があります。しかし、例えば道義的に、道徳的に、<em>言ってはいけない</em>事があります。そして、政治を語るときに同時に同列に<em>いざとなったら逃げる</em>とは<em>言ってはいけない</em>です。</p>
		</blockquote>
		<p>ろばQさんは、「〜をしては<em>いけない</em>」というけれども、なぜしてはいけないのか、ということについて、何も語っていないにひとしい。せいぜい<q>運命共同体</q>だから、というものが理由として読み取れますが、まさか「権利と義務の話」に飛ぶとは誰も想像できないはずです。</p>
		<p>そもそも、<q>政治を語る者の立場として相応しくないから</q>というのはおかしな話です。日本が「自由主義」の国である、ということを前提にすれば、「日本なんか捨てて外国に逃げたい」と語る「自由」もあるはずです。その「自由」がよくないという理由に、ろばQさんは<q>道義的</q>という言葉を持ち出すけれども、一体どこにそんな道徳があるというのですか。そして、道徳的に「してはならない」話のはずが、なぜ「権利と義務」という政治的・法律的な話になるのですか? それは、ろばQさんが論理をすり替えたからである、と読み取るのは妥当であるはずです。</p>
		<p>閑話休題。私は、G_ONE さんとは別の意味で「日本から逃げたい」と思っている。というか、今の日本を見て「まともである」、と考えるろばQさんのほうが、私は異常だと思う。だが、「逃げたい」と思う心情と、「それでも日本が好きである」という矛盾した感情を同時に持つことは、ありうるし、それこそが人間の真の姿である。そのようなアンビバレントを、<q>道徳的</q>とか<q>権利と義務</q>とかをもって一方を切り捨てる文章は、よくない文章である。私が言う文章における平衡とは、そのアンビバレンスを表現する法のことに他ならない。</p>
		<h3 id="DOC20050906035000">Opera Community</h3>
		<p><a href="../images/operacom_b.png" title="拡大画像（50KB）"><img src="../images/operacom.png" alt="Opera Community" class="illust"></a></p>
		<p>なんかやっている模様。</p>
		<ul>
			<li><a href="http://www.opera.com/comingsoon/">Opera Community : Coming Soon</a></li>
		</ul>
		<h3 id="DOC20050906051938">期日前投票と不在者投票の違い</h3>
		<p>ぼくの知識が足りなく、選挙日の前に投票する制度は「不在者投票」だけだと思っていたのだが、「期日前投票」というのもあるらしい。</p>
		<ul>
			<li><a href="http://www.soumu.go.jp/senkyo/kijitsu_gaiyo.html">期日前投票制度の概要･メリット</a></li>
			<li><a href="http://www.city.kyoto.jp/senkyo/kaisei/kijitsu.html">期日前投票・不在者投票</a></li>
		</ul>
		<p>基本的に、従来の不在者投票は期日前投票に切り替わっているようだが、期日前投票の場合、<strong>選挙期日には20歳を迎えるが、投票の日は19歳</strong>という人は利用できず、不在者投票を利用しなければならない、ということらしい。</p>

	<h2 id="DATE20050905"><span class="date">2005-09-05</span></h2>
		<h3 id="DOC20050905011218">文章における平衡</h3>
		<ul>
			<li><a href="http://www.netlaputa.ne.jp/~robaq/200508.xhtml#d20050831_1">RobaQ's Memo 2005-08</a></li>
			<li><a href="http://www.netlaputa.ne.jp/~robaq/200509.xhtml#d20050902_1">RobaQ's Memo 2005-09</a></li>
		</ul>
		<p>ろばQさんの立場は正当か否か。</p>
		<blockquote cite="http://www.netlaputa.ne.jp/~robaq/200509.xhtml#d20050902_1_2">
		<p>ネット上の個人の意見であり、私の偽らざる本音であり、それをネット上で公開する事になんら不都合は生じないと思っています。もちろん、これを公開する事で不愉快な思いをされる方が、少なからず、いやほとんどの人がそう思われるかもしれません。それにより、私の意見が<em>いつでも自分だけ逃げ出す奴</em>の言う事なので取り上げる価値は無いと無視されても、それはそれで一向に構いません。</p>
		</blockquote>
		<p>これを、公的なものとしてのウェブを前提におくろばQさんは、以下のように答えざるを得ない。</p>
		<blockquote cite="http://www.netlaputa.ne.jp/~robaq/200509.xhtml#d20050902_1_3">
		<p>確かに、G_ONEさんにとっての国は、G_ONEさんが属する物ではなく、G_ONEさんに属する物なのでしょう。しかし、その国は同時にろばＱの国でもあり、全ての日本人にとって、自分の国なのです。G_ONEさんが<em>自分の国は駄目だ</em>と言う時、それは全ての日本人に対して<em>お前の国は駄目だ</em>と言う事を意味しています。</p>
		<p>（中略）</p>
		<p>例えそれが偽らざる本音であろうとも、ネット上で<em>公</em>開する以上は、それは公の発言であり、そこに私心を垂れ流すというのは道義上大いに問題があり、批難に値します。</p>
		</blockquote>
		<p>石原慎太郎都知事が、靖国神社に参拝し、マスコミのリポーターに「私人か公人か」と聞かれ、「私人も公人もあるか、俺は俺だ」と答えたことがある。つまり、人間にはパブリックな面とプライベートな面が同居していて、その人間が行動をするときも、それら二つが同居しているのは当然である、ということだ。</p>
		<p>ろばQさんの話に戻すと、ろばQさんは「公」という原則にばかり拘って、「私」の側面を閑却してしまっている。しかしそれならば、以下のように書くことは許されない。</p>
		<blockquote cite="http://www.netlaputa.ne.jp/~robaq/200508.xhtml#d20050831_1">
		<p>ろばＱは民主主義者です。日本には更なる民主主義国家に成って欲しいと思っています。しかし、その結果、衆愚に陥ったり、ロベス・ピエールみたいな奴が現れてろばＱ自身が死刑を宣告されるかもしれません。そうなったらどうするのか、と問われた時、<em>駄目だったら駄目で国を捨てて自分だけ安全な所に逃げますよ</em>とは言えません。しかし、迷わずに<em>思想に殉じて死にます</em>とも言えません。正直な所、死にたくないです。命惜しいです。</p>
		</blockquote>
		<p>この文章が優れているのは、「公」と「私」を両方を書いて、それらの葛藤のうちにどのような選択をするのか、ということを書いているからだ。けれども、<q>ネット上で<em>公</em>開する以上は、それは公の発言であり、そこに私心を垂れ流すというのは道義上大いに問題があ</q>ると考えるならば、<q>正直な所、死にたくないです。命惜しいです</q>と書くことも、<q>道義上大いに問題があ</q>ると言わなければならない。</p>
		<p>これは、何もろばQさんだけに限った話ではなく、ウェブ技術方面に知悉した人がよく使う論法なので、ここでまとめて批判するが、ウェブだから「公」の話<strong>しか</strong>してはいけないだとか、「私心」を垂れ流してはいけないだとか、そもそもそういう二分法自体が非常に粗雑で稚拙である。たとえば、ろばQさんが持ち出した比喩（<q>会社の会議</q>）は、「公（<span lang="en">public</span>）」の話ではなく、「集団（<span lang="en">group</span>）」の話のはずであるし、<q>正直な所</q>を語る自分（「私［<span lang="en">private</span>］」）にも、それだけではなく確固とした意見をもった自分（「個［<span lang="en">individual</span>］」）もあるはずである。そうならば、自分（「私」もしくは「個」）のおかれた状況（「公」もしくは「集団」）において、如何に語るべきか、が最も重要であり、表現の本質でなければならない。</p>
		<p>ゆえに、それら四つのどれかに<strong>だけ</strong>与することは、対立する概念の矛盾を乗り越えようとしない怠惰であり、捨て去られるべき表現法だと言えよう。少しでも文章について意識的であるならば、それらの矛盾を昇華し、それらの平衡をとる表現を志向することになるはずだ。</p>


	<h2 id="DATE20050902"><span class="date">2005-09-02</span></h2>
		<h3 id="DOC20050902004734">近代以降の小説論を知らない人へ</h3>
		<p>まったくびっくりするのだが、小説は、「社会的」なものを表現しなければならないとか、「哲学・思想的」な事柄を扱わなければならないとか、そういうことを小説の「読み」とする人が意外に多い。その手の人は、情緒や感性で構築された小説を、当然、味気なく物足りない、もっと悪くいう人は「大事なものが欠けている」なんていったりする。だが、小説とは、そもそも、そういうものではない。乱暴にまとめていえば、芸術、なかでも小説は、ぼくたちが日ごろ目にしたり感じたりするものを、言葉におきかえてもなお、いや、言葉におきかえたからこそリアルに感じさせるためにある。</p>
		<blockquote>
		<p>慣習化は仕事を、衣服を、家具を、妻を、そして戦争の恐怖を蝕む。……そして芸術は、人が生の感触を取り戻すために存在する。それは人にさまざまな事物をあるがままに、堅いものを「堅いもの」として感じさせるために存在する。芸術の目的は、事物を知識としてではなく、感触として伝えることにある。</p>
		</blockquote>
		<p>このヴィクトル・シクロフスキーの有名な論文は、「異化」という言葉を生み出した。ほかにも、芸術はイデアルなものが表れるとする現象論的な考えや、芸術は芸術家の特異な才能の表れであるとする表出論的な考えなど、さまざまにあるが、何れにしろ、それらが、芸術における人間と事物との関わりかたを考えたものであることにかわりはない。</p>
		<p>ばくたちが小説を読んで感心したり驚くのは、作者の思想が優れているからとは限らない。日常における、言葉以前のもの（感情であれ情緒であれ）を、はっきりと言葉にされたときに、ぼくたちは、あのときのことをリアルに感じ、ふたたび認識しなおす。ぼくは、新たに得た言葉に興奮する。そういう基本的な楽しみができない人は、小説ではなく、元から存在する言葉ばかりを集めた新聞の時評なり、ライト・ノベルなりを読んでいればいい。文学は、そういう安全な読書の場ではないのだ。</p>
		<h3 id="DOC20050902010419">正字正かな辞書</h3>
		<p>というかね、PC をリカバリしたときに、正字正かな辞書をバックアップし忘れて、まっさらになってしまったわけですが。現在 MS-IME でまともに使える辞書って少ないですからねえ。また無理矢理ほかの形式の辞書を MS-IME 用に置換してやってもいいけれど、エラー頻発で登録ミスが多くなる上に、なぜか IME から単語が消失してゆくというミステリーがおきるものですから、考え中。ところで、ぼくは、「思へ」を「おもえ」と打って変換する形式の辞書は嫌いで、「おもへ」は「おもへ」と打たなければ気がすみません。</p>
	<h2 id="DATE20050901"><span class="date">2005-09-01</span></h2>
		<h3 id="DOC20050901003457">自作 PC への道 1</h3>
		<p><a href="./200508.html#DOC20050831034528">というわけで</a>、自作 PC の希望スペックなどを考えてみたいと思います。予算は大体五万円から八万円の間で。</p>
		<dl>
			<dt>CPU</dt>
			<dd>Pentium 4 503J(3.0GHZ),もしくは Athlon 64 3000+(1.8GHZ,L2 512KB)</dd>
			<dt>マザーボード</dt>
			<dd>Intel の CPU なら GA-81945GMF,AMD なら MSI RS480M2-IL</dd>
			<dt>メモリ</dt>
			<dd>PC4300-256MB 533MHz*2</dd>
			<dt>HDD</dt>
			<dd>Maxtor の 6B080P0(80GB,8MB)</dd>
			<dt>光学ドライブ</dt>
			<dd>詳しい製品は調べてないので未定。でも DVD スーパーマルチドライブ希望。</dd>
		</dl>
		<p>これに PC ケースとモニター、キーボードをつけると、余裕で八万円越すんですが……。</p>

	<h2 id="FOOTER">この文書について</h2>
	<dl id="STATUS">
		<dt>公開</dt>
		<dd>2005-09-01</dd>
		<dt>最終改定</dt>
		<dd><!--#config timefmt="%Y-%m-%d" --><!--#flastmod file="200509.html" --></dd>
		<dt>制作者</dt>
		<dd>加納　景 &lt;<a href="mailto:%77%65%62%6D%61%73%74%65%72%40%70%6F%65%73%69%61%2E%6A%70">webmaster&#64;poesia.jp</a>&gt;</dd>
	</dl>


</body>

</html>