<!DOCTYPE HTML PUBLIC "ISO/IEC 15445:2000//DTD HyperText Markup Language//EN">

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	<meta http-equiv="content-type" content="text/html;charset=shift_jis">
	<meta name="author" content="加納　景">
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	<title>Other Voices（2004-07） -Poesia</title>
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</ol>
<h1 lang="en">Other Voices(2004-07)</h1>

	<h2 id="DATE040729">2004-07-27</h2>
		<h3 id="DOC040729_01">修行</h3>
		<p>ちよつと修行してきます。はてなのはうは更新します。</p>
		<p>普通に本を読みまくつて音楽聴きまくつて映画を見まくるだけですが。</p>

	<h2 id="DATE040727">2004-07-27</h2>
		<h3 id="DOC040727_01">福田和也著『悪の恋愛術』（講談社現代新書）</h3>
		<p><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061495631/qid=1090921021/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/250-0722210-9378667"><img src="../images/aku.jpg" alt="福田和也著『悪の恋愛術』（講談社現代新書）" class="illust"></a></p>
		<p>福田和也氏の啓蒙書は数多くあるが、その全てに、単なる「啓蒙」に収まりきらない、氏の批評精神が貫かれていることを念頭におけば、本書の性格も自ずと得心される。それはつまり、本質を抉り出す営為に他ならない。氏は『日本人の目玉』において小林秀雄を引き合いにし、「批評とは全体的、一般的、普遍的に事物を語るのではなく、自分という存在にとってどうしても否定できない『眞實』を、他者があまたもつ『眞實』の多様性と、その『眞實』の間での通分不可能性に脅かされながら、認識し、猶語ろうとする試みる事」と定義づけている。これが本書において、如何なるかたちで表れているのか。</p>
		<p>例えば福田氏は、なにより恋愛関係においても、相手が他者であることを忘れるべきではないと言う。しかしその上で猶、相手を知ろうとし、付きあうために手練手管を尽くす（そのための手法が氏の言う「悪」だ）べきだと主張する。つまり、「通分不可能性」の認識と、「認識し、猶語ろうとする試み」だ。では氏は、如何に「語」ったのか。本書の白眉はまさにこの点である。氏は映画『プリティ・ウーマン』を例にし、大富豪が娼婦に惚れ込む理由として、娼婦がオペラを鑑賞して泣くことを挙げる。「いいものを感じ取れる感性」を持っていることが、「きれいだとか、セックスの技術に長けている」というようなことよりも、男が惚れる最大の理由であると。これには多くの男性は頷くに違いないが、それだけでなく、男はこうも感じたであろうと言う。「彼女は『教育しがいのある人だ』」。</p>
		<p>我々は意識している/しないに関わらず、常にこのような支配と被支配の関係に引きずられている。男女に関わらず、相手を支配しようとする欲求が存在する。それをこの映画に見い出し、男が女と「結婚したいと願うにいたるストーリーに説得力をもたせている」と評価する口ぶりは、この気鋭の文芸批評家が、ずば抜けた人間観を持っている証左だろう。</p>
		<p class="note">（Amazonのレビュー用にしようとして書いたもの。原稿用紙換算八百字）</p>

	<h2 id="DATE040719">2004-07-19</h2>
		<h3 id="DOC040719_01">人物評といふタブー</h3>
		<p>今私が考へてゐるといふか、目論んでゐることに、人物評がある。しかし、ウェブ上においてのそれには限界があるといふのは誰しもが納得すると思ふ。なぜなら、オフ会でもしない限り、論ずる人物と直接接触できないからだ。或は、直接会つても分からないことが多いといふのが世の常である。</p>
		<p>しかし私は思ふのだけれど、確かに「限界がある」にはあるが、限界といふからには出来ることもあるといふことではないか。それ以上を望まぬことさへ胆に命じておけば、それほど大きな失敗はしないだらう。もちろん、己の眼力の才能を抜かして考へれば、であるが。</p>
		<p>私がこんなことを考へたのは、どうもウェブ上で、或る人物が正当に（良かれ悪しかれ）論じられたり取り上げられたりすることがないことに起因してゐる。それを最初に感じたのが、徳保さんを巡つての評価だつた。人物評といふのがウェブで見られる場合は、往々にしてネットヲチ板的なネガティブな側面が強調される。しかし、例へば徳保さんにしても、こんなに（良い意味で）面白く、魅力的な人物はゐないわけで、私は最近徳保さんと多少の（本当に多少の）接点があつたのだけれど、その感想は、当初の予想をはるかに超えた強烈な個性とダンディズムをもつた方だといふものだつた。その詳細は目論見を達成した成果としてお見せしたいので控へるが、さういふ人物評を踏まへて、Amazonでの徳保さんの活動や、批判の的となつたはてなでの質問などを見ると、私は納得するのである。徳保さん流のダンディズムが有機的に繋がつた結果と私は感ずるわけだ。だからここでの人物評とはつまり、その人が書いた文章が、その人の性格とどのやうな繋がりを持つてゐるのかといふ観点の模索に他ならない。それは批評といふ行為において、必要ではないのか。</p>
		<p>ところがそれは、先ほども言つたやうに、あまり行なはれてゐない。私流にこの現象を解釈すれば、以下の三点になる。</p>
		<ol>
			<li>皆個性個性といふがその個性の面白さに気づいてゐない</li>
			<li>人物評はエレガントではない（つかず離れずがよいのだ）と思つてゐる</li>
			<li>評価した人物に逆に斬られる</li>
		</ol>
		<p>といふことを考へてゐるのだらうと思ふのだが、私はさういふタブーは馬鹿げてゐると思ふし、そんなことを考へてゐながら批評だなんだといふのはちやんちやらをかしな話だと思ふ。口酸つぱくなるほど言ふが、観念と生活、観念と現象を切り離して考へるのはナンセンスである。さう考へれば、ウェブ上に数ある批評サイト（ブログなんかも含めてよいと思ふ）が、いかに的外れで人間性に欠いた言辞を弄してゐるかもお分かりになるかと思ふ。どこの誰だつたか失念したが、物を言ふときは原典にあたれだのソースをもつてこいだのを批評の第一義においてゐる人を見たことがあるが、これは彼乃至彼女の人間観の欠如を物語つてゐる最良の例だらう。人間は真実を求める傾向にあるが、その真実がかりそめのものであつても、真実であると信じられればよい生き物なのであつて、それは原典やらソースやらといふやうな「真実」ではなく、生き方を見定めた人間観から生まれる真実に他ならないのである。かつて福田恆存が、平和論者や進歩主義論者と論争した際、痛切に感じたこととして、彼らの人間観の欠如を挙げた。そしてその人間観の欠如ゆゑに己の人間観から語らねばならぬと思ひ、書かれたのが『人間・この劇的なるもの』だつた。私たちも、ここから出発しなければならないはずである。</p>
		<p>とは言へ、私がウェブで魅力を感じた書き手と言へば、野嵜氏、徳保氏、イソムラ氏くらゐで、あまりゐないのだけれど。</p>
		<h3 id="DOC040719_02">qを使はないといふ選択</h3>
		<p>すでに実行しつゝあるのだけれど、私は最近、q要素をあまり使つてゐない。この理由は、以下のqの仕様にある。</p>
		<blockquote cite="http://www.w3.org/TR/html4/struct/text.html#h-9.2.2.1" title="&quot;Rendering quotations&quot;Paragraphs, Lines, and Phrases">
			<p>Visual user agents must ensure that the content of the <a href= 
"http://www.w3.org/TR/html4/struct/text.html#edef-Q"><samp>Q</samp></a> element is rendered with delimiting quotation marks. Authors should not put quotation marks at the beginning and end of the content of a <a href="http://www.w3.org/TR/html4/struct/text.html#edef-Q"><samp>Q</samp></a> element.</p>
		</blockquote>
		<blockquote cite="http://www.asahi-net.or.jp/~sd5a-ucd/rec-html401j/struct/text.html#h-9.2.2.1" title="「引用のレンダリング」Paragraphs, Lines, and Phrases (ja)">
			<p>視覚系ユーザエージェントは、<a href="http://www.asahi-net.or.jp/~sd5a-ucd/rec-html401j/struct/text.html#edef-Q"><samp>Q</samp></a>要素の内容を、引用符で囲ってレンダリングするようにしなければならない。著者は、<a href="http://www.asahi-net.or.jp/~sd5a-ucd/rec-html401j/struct/text.html#edef-Q"><samp>Q</samp></a>要素の開始点と終了点に引用符を置かないようにする必要がある。</p>
		</blockquote>
		<p>例へば、原文にqが使はれてゐて、それを引用する（qの入れ子）となると、引用部分には通常の鉤括弧を、原文の引用には二重鉤括弧を使ふ。それはq要素を使つても、CSSで再現できる。それは以下のやうになる。</p>
		<div class="instance">
			<dl>
				<dt>HTML</dt>
				<dd>&lt;q&gt;例へば氏は&lt;q&gt;それはあり得ない&lt;/q&gt;と言ふが、そんなことはない。&lt;/q&gt;</dd>
				<dt>CSS</dt>
				<dd>q{ quotes: "「" "」" "『" "』"; }q:before{ content:open-quote; }q:after{ content:close-quote; }</dd>
				<dt>再現(*)</dt>
				<dd><q>例へば氏は<q>それはあり得ない</q>と言ふが、そんなことはない。</q></dd>
			</dl>
		</div>
		<p class="note">（*　確認したところ、Internet Explorer 6は無効、Firefox 0.9.2は入れ子部分に対応してゐない、Opera 7.52は対応。いづれもWindows環境。）</p>
		<p>しかし、原文に鉤括弧が使はれてゐたらどうだらう。それを引用した際、原文の鉤括弧はそのまゝである。また、「<a href="http://www.asahi-net.or.jp/~sd5a-ucd/rec-html401j/struct/text.html#edef-Q"><samp>Q</samp></a>要素の開始点と終了点に引用符を置かないようにする必要がある」とまでされてゐる。さらに、本来は自動で挿入される引用符は、大体「&quot;」である。CSS無効の環境では、たとへ原文の鉤括弧を二重にしても、前の鉤括弧と対応しないことになる。つまり、仕様上、自由度が極めて低い要素であると言へる。それならばいつそうのこと、使はずに直接記述したはうが、正確ではないだらうか。</p>

	<h2 id="DATE040716">2004-07-16</h2>
		<h3 id="DOC040716_01">かざきり羽問題と自意識</h3>
		<p>数年前から有名な騒動だから、誰か「俺は知つてゐるよ」とか言ふのかなと思つてゐたら、案外だれも言はなかつた。私もFolioで連載するにあたり、オンラインノベル界隈を少し勉強したのだけれど、創作する人間は自意識が足りてゐない人が本当に多くて、さも自分はプロであるかのやうな錯覚を起こし、自己肥大による倒錯が垣間見える。具体例をだせば波風が立つて大変なことになるので書かない、とは行かないのが私で、たとへば、初対面の相手に向かつていきなり「あなた」呼ばはりしたり（単なる二人称に過ぎないとか言ひわけしてゐたけれど、<a href="http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/kokugo/kotoba/Anata.html">「あなた」を無闇に使つてはならない</a>でも読みなさい、と）、ぶりっ子（死後ですねえ）言葉と過激な言葉を併用し、その落差によつて発言を際立たせるといふ安易かつ陳腐な手法を、恥づかしげもなく議論の場に持ち込んだりする。彼乃至彼女には、庶民が持つてゐるTPO（私はこの言葉嫌ひなんだけれど）がないのであつて、自分が現在如何なる場所で発言し、それゆゑどのやうな発言をするか、発言を構成するかといふ意識が、自分の文章に対する拘はりといふ似非プロ意識によつてなくなつてゐるのである。普通の社会人や常識のある人ならば、それは作品の中だけに出せばよいと割り切れるはずだ。</p>
		<p>この問題にしても、根本はまさにこの自意識の問題であるやうに思ふ。</p>
		<p>さて、このサイトは抹消されるでせうかね。一応お金はらつてゐるので、いきなり消されることはないと思ふけれど。</p>
		<h3 id="DOC040716_02">更新報告</h3>
		<p>CSSも少し弄つたけれど、<a href="../weblogs/kojin.html">個人主義に関する観測</a>と、前から不具合がでて利用できなかつた<a href="../about/mail.html#SENDMAIL">メールフォーム</a>を新しいスクリプトに切換へて利用できるやうにした。</p>
		<h3 id="DOC040716_03">更新報告2</h3>
		<p>h1がずつと気になつてゐたので、少し弄つた。8thスタイルの初期版に近くなりましたね。といふか、改悪もいいところといふ感じなのですが。CSSファイルを見れば一目瞭然で、position:absolute;で無理矢理上にもつてきて、しかも（h1だけでさらにIEだけ）文字サイズ固定。なぜrelativeではなくabsoluteにしたかと言へば、兄弟要素の配置関係で、relativeではh2がh1のボックス分とh2自身のmargin-topでmarginがあき過ぎるから。<span lang="en">elegant</span>なんぞと名づけてゐるわりに、全然<span lang="en">elegant</span>な方法ではないのですよ。</p>

	<h2 id="DATE040715">2004-07-15</h2>
		<h3 id="DOC040715_01">観念</h3>
		<p>私がこのリソースを「観念の遍歴」と言つてゐるのは、ウェブ上で実生活をありのまゝ書く事などそもそも期待できないからだ。期待できないからこそ、私は口癖のやうに観念と実生活は密接不離であると言つてゐるのであつて、私の観念を証明してみせろといふのなら、私と直接会つて、一年でも二年でも付き合つて見ればよい。私へ向かつてだけに限らず、ウェブで喧嘩腰の態度を見出せばすぐにネット番長だのネット弁慶だの言ふ輩がゐるが、ネットに比して現実がさうでないといふ確証を、彼らはもつてきた試しがない。それはつまり、彼らは思考、観念が全てだと信じて疑はないからである。それがいはゆるネット弁慶に最も近いことも、彼は気づかないのである。</p>
		<p>小林秀雄が、トルストイを巡つて正宗白鳥と論争した際、かう言つたものだ。<q title="小林秀雄「思想と実生活」『作家の顔』所収（新潮文庫）">「抽象的思想は幽霊の如し」と正宗氏は言ふ。幽霊を恐れる人も多すぎるし、幽霊と馴れ合ふ人も多過ぎるのである。</q></p>

	<h2 id="DATE040714">2004-07-14</h2>
		<h3 id="DOC040714_01">血尿</h3>
		<p>朝起きておしつこしたらドロドロと赤い液体がでるものだから、「ペプシブルーの尿版なのかなあ、なにか飲んだかな」などと寝ぼけたまま考へたが、二三秒後にこれは血尿だなとやつと納得した。最近風邪を引いてゐて、四十度ありながら昨日はバイトに行つたのだが、これとなにか関係あるのかしら。とりあへず今日はバイト休んだ。血尿ってどんなものなの？といふ人は、各自ぐぐること。</p>
		<ul>
			<li><a href="http://www.google.co.jp/search?q=%E8%A1%80%E5%B0%BF">Google 検索: 血尿</a></li>
		</ul>

	<h2 id="DATE040712">2004-07-12</h2>
		<h3 id="DOC040712_01">TVがそもそも糞なんであつて</h3>
		<p><a href="#DOC040711_01">昨日</a>の続き。<a href="http://404.junkwork.net/archives/000475.html#more">イソムラさんの追記</a>があつた。</p>
		<blockquote cite="http://404.junkwork.net/archives/000475.html#more" title="「7/11 23:49 追記」404 : エンターテイメント">
		<p><a href="http://www.poesia.jp/notebook/voices.html">加納さん</a> から<q cite="http://www.poesia.jp/notebook/voices.html">語られてゐる背景を知らないので何がなんだかわからな</q>いとの指摘を受けた（というか読み返してみれば明白なんですが）ので、ちょっと追記。</p>
		</blockquote>
		<p>いきなり謎文に思へました。<q cite="http://404.junkwork.net/archives/000475.html#more">というか読み返してみれば<em title="強調加納">明白なんですが</em></q>とあるけれど、この<q cite="http://404.junkwork.net/archives/000475.html#more">明白</q>は、<q cite="http://404.junkwork.net/archives/000475.html#more">指摘</q>の内容が<q cite="http://404.junkwork.net/archives/000475.html#more">明白</q>なのか、それとも、あとの<q cite="http://404.junkwork.net/archives/000475.html#more">ですが</q>の逆接をふまへて、元のイソムラさんの文章が<q cite="http://404.junkwork.net/archives/000475.html#more">明白</q>で私の<q cite="http://404.junkwork.net/archives/000475.html#more">指摘</q>が駄目だといふことなのか、どちらともとれるのです。私は決して正しい文法のみに拘るべきではないと思ふが、最低限意味を左右する言葉は省くべきではないと思ふ。</p>
		<p>本題。経緯を読むと、ますますカンニングを応援したくなつた。</p>
		<p>別にカンニングのネタが面白いと言つてゐるわけではなく、TV的な共通了解といふものに切り込んでゐるわけでせう、彼らは。観客が面白いと思はなくとも、自分たちの芸を貫き通すといふ覚悟があるわけです。後になつて謝罪するかもしれませんが、それが本心か否かは別の話で。イソムラさんは<q cite="http://404.junkwork.net/archives/000475.html#more">とにかく暴言を吐くことで強く印象を与える手段を選んだカンニングに対して「それはテレビ的に良くないことだよ」と教育的指導することも放棄していると考えられる</q>と書かれてゐるけれど、それはまあ分からなくもないが、ただ、その<q cite="http://404.junkwork.net/archives/000475.html#more">教育的指導</q>が<q cite="http://404.junkwork.net/archives/000475.html#more">PTA</q>的な価値観から発せられるものならば、そもそもろくでもないものであることは簡単に予想がつく。清潔で毒にも薬にもならないどうでもいい事を放映して、それが長命の秘訣であるなどと悟つた小市民的な人生観にはうんざりする。<q cite="http://404.junkwork.net/archives/000475.html#more">視聴者あるいはスタジオを訪れた観客を笑わせるために舞台に立っている芸人が、その対象者を不快にさせるようなことはプロとして恥ずべきことである</q>といふのは目先の結果論だ。ダウンタウンだつて、昔は相当視聴者を不快にさせてゐたが、それが今や彼らが創始した新しいギャグとして広く認知されてゐる。カンニングにその可能性がないとは言へない限り、あくまでTV的な道徳観によつて彼らを否定するにとどまるわけで、そんなものはどうでもいいことであるといふのは先ほど言つたとほりである。</p>
		<p>そのネタ面白くないよ、といふことだけならば、納得します。が、イソムラさんが彼らを否定しようとして持ち出した根拠に、斬新さを求めるがゆゑの行為をおいたのは、肯んずることはできない。</p>

	<h2 id="DATE040711">2004-07-11</h2>
		<h3 id="DOC040711_01">斬新さ、手法、内容、伝統</h3>
		<ul>
			<li><a href="http://404.junkwork.net/archives/000475.html">404 : エンターテイメント</a></li>
		</ul>
		<p>語られてゐる背景を知らないので何がなんだかわからなかつた。カンニングが<q cite="http://404.junkwork.net/archives/000475.html">破天荒なことだとか前代未聞であることだとか暗黙の了解を敢えて破ろうとすること</q>をしでかしたのかと思つたのだけれど、たぶんさうぢやなく、実績や実力のない芸人を、ただ目立たず埋もれてゐるといふ理由で出演させることへの批判なのだらうと勝手に脳内変換した。それが先の引用文へと繋がるのだらう(*)。</p>
		<p class="note">（* といふよりも、イソムラさんは<q cite="http://404.junkwork.net/archives/000475.html">暗黙の了解</q>が了解足りえてゐない文章をお書きになつてゐるといふ点でまづ批判が成立する。この文章は、カンニングが何の取り柄もない芸人であるが、取り柄があるから素晴らしいといふわけではないのだから、よいのだ、とも読めてしまふ。）</p>
		<p>しかしどうだらうか。私は既存のものに破壊を仕掛けずに安穏としてゐる醜態よりはマシだと思ふ。文学にしても何にしても、とにかくなにか「新しいもの」を作らうといふ気概は必要であるし、それが前衛作品と限らずとも読者を新しい世界に引きずり込む力であるはずだ。それが伝統的な正統性を持つてゐるか否かは結果論であつて（大抵はもつてゐる）、ここで論ずる対象とはひとまづ離して考へるべきである。たとへば町田康氏を見てみよう。氏は村上春樹氏以降の文学状況を一掃してしまつた。デビュー作の『くっすん大黒』や、それに所収されてゐる「河原のアパラ」において、落語の話芸のニュアンスを導入するといふ、つまりは<q cite="http://404.junkwork.net/archives/000475.html">破天荒なこと</q>をやつたわけである。しかし一方、日本近代文学の一翼であつた、ろくでもない自分を描いた私小説の――車谷長吉氏や佐伯一麦氏とはまた違ふ――雰囲気を濃厚にまとつた小説は、伝統的なものであるとも言へるのである。</p>
		<p>斬新さは必要である。それは表現に対しての意欲がどれだけあるか、といふことでもある。しかし同時に、それは手法の斬新さにとどまつてゐることを自覚すべきなのである。もちろん、このやうな諦観は、批評精神においてなされるものであるから、創作の際は徹底して斬新さを追ひもとめるべきだ。そして結果、変りばへのないものができあがつても、誰も責められないのである。</p>

	<h2 id="DATE040710">2004-07-10</h2>
		<h3 id="DOC040710_01">光学式イメージセンサマウス</h3>
		<ul>
			<li><a href="http://www2.elecom.co.jp/products/M-SUSVB.html">Swishマウス - M-SUSVB</a></li>
		</ul>
		<p>バイトの帰りに買つて来た。今まであの「コロコロ」とする旧式のマウスを使つてゐたのだけれど、感度が悪くなつて駄目だつたので、買ひ換へた。「光学式」ならそんなことないのだらうなと思つて。</p>

	<h2 id="DATE040708">2004-07-08</h2>
		<h3 id="DOC040708_01">何故書くのか</h3>
		<p><a href="../weblogs/text01.html">不愉快なテクスト 第一回</a>で書きわすれたこと。</p>
		<p>今書いてゐるものは、書かなければならないものですか？書くことによつて、どういふ作用を周りに、或は自分に与へますか？</p>
		<p>実生活で突発的な事件に遭遇したり、インターネットの環境から遠ざかつてたりしても、それでも文章を書き続けますか。</p>

	<h2 id="DATE040707">2004-07-07</h2>
		<h3 id="DOC040707_01">デフォルトスタイル礼讃の理由</h3>
		<ul>
			<li><a href="http://theme.g.hatena.ne.jp/kamioka/20040706#1089051253">はてなグループ - themeグループ - ::Kamioka</a></li>
		</ul>
		<blockquote cite="http://theme.g.hatena.ne.jp/kamioka/20040706#1089051253">
		<p>あんまり細かいところまで手を入れるとかえってフォローしきれなくなって表示が崩れてしまうものだよなぁと思います。触らぬ神に祟りなしというか、CSSってそういうものですよね（これが、UAのデフォルトのスタイルが一番美しいという意見の人を生む理由なのだろうなぁと思う）。</p>
		</blockquote>
		<p>最近<q cite="http://theme.g.hatena.ne.jp/kamioka/20040706#1089051253">UAのデフォルトのスタイル</q>云々といふことを言つてゐるのは<a href="http://d.hatena.ne.jp/kanou/20040616#1087316377">私くらゐ</a>だから、私のことだと認める（しかし「美しい」とは言つてゐないのだが）。</p>
		<p>UAのデフォルトスタイルがよいのは――もちろんIEのやうなデフォルトスタイルでは少々心もとないが――要素の判別がし易い、ウィンドウサイズに左右されない、フォントの大きさが見やすい、などの理由。</p>
		<p>といふか、そもそも神岡氏と私とではCSSの見方が全く違ふので、そこから話をおこさなければならないのだが、そもそも仕様書には</p>
		<blockquote cite="http://www.w3.org/TR/REC-CSS2/intro.html#q6" lang="en">
		<ul>
			<li><p><strong>Complementary to structured documents</strong>.Style sheets complement structured documents (e.g., HTML and XML applications), providing stylistic information for the marked-up text. It should be easy to change the style sheet with little or no impact on the markup.</p></li>
		</ul>
		</blockquote>
		<blockquote cite="http://www.swlab.csce.kyushu-u.ac.jp/man/rec-css2/intro.html#q6">
		<ul>
			<li><p><strong>構造化文書の補足としての位置付け</strong><br>
スタイルシートは、マーク付けテキストに体裁情報を与えることで、HTMLやXML応用などの構造化文書を補足する。
スタイルシートの変更は、マーク付けに殆ど影響を与えないで容易に行われるべきである。</p></li>
		</ul>
		</blockquote>
		<p>とだけ記されてゐて、<em>素直に読めば</em><q cite="http://www.swlab.csce.kyushu-u.ac.jp/man/rec-css2/intro.html#q6">構造化文書を補足する</q>ことがすなはちCSSの役割であるといふことがわかる。さうであるならば、段組をして格好のよさを整へることは二の次で、なにより優れたUAのデフォルトスタイルシートが果たしてゐる<q cite="http://www.swlab.csce.kyushu-u.ac.jp/man/rec-css2/intro.html#q6">構造化文書を補足する</q>役割こそが、CSSの第一義だといふことになる。ゆゑに、デフォルトスタイルは、変に弄られたスタイルよりも優れてゐる、といふのが、私の主張。もちろん、ここにはユーザビリティ的な概念も多大に含まれてゐるのだけれど。</p>
		<h3 id="DOC040706_02">追記</h3>
		<ul>
			<li><a href="http://d.hatena.ne.jp/kamioka/20040707#p1">http://d.hatena.ne.jp/kamioka/20040707#p1</a></li>
		</ul>
		<p>なにかあつたのでせうか。私はなにも見てゐません。</p>
	<h2 id="DATE040706">2004-07-06</h2>
		<h3 id="DOC040706_01">milky way</h3>
		<ul>
			<li><a href="http://d.hatena.ne.jp/jintrick/20040705#d2004-07-05T23-51-44">「milky way」Hatena::agenda</a></li>
		</ul>
		<blockquote cite="http://d.hatena.ne.jp/jintrick/20040705#d2004-07-05T23-51-44" title="「milky way」Hatena::agenda">
		<dl>
			<dt>milky way</dt>
			<dd>夢を見た。壮絶な美しさだった。前日にこの言葉をどこかで見たからだと思う。だから他の人も見れるように書いておく。ミルキーウェイ。</dd>
		</dl>
		</blockquote>
		<p>milky way（天の川）で私が思ひ出すのは『雪国』の描写。</p>
		<blockquote title="川端康成『雪国』（新潮文庫）">
		<p>「天の河。きれいねえ。」</p>
		<p>駒子はつぶやくと、その空を見上げたまま、また走り出した。</p>
		<p>ああ、天の河と、島村も振り仰いだとたんに、天の河のなかへ体がふうと浮き上がってゆくようだった。天の河の明るさが島村を掬い上げそうに近かった。旅の芭蕉が荒海の上に見たのは、このようにあざやかな天の河の大きさであったか。裸の天の河は夜の大地を素肌で巻こうとして、直ぐそこに降りて来ている。恐ろしい艶めかしさだ。島村は自分の小さい影が地上から逆に天の河へ写っていそうに感じた。天の河にいっぱいの星が一つ一つ見えるばかりでなく、ところどころ光雲の銀砂子も一粒一粒見えるほど澄み渡り、しかも天の河の底なしの深さが視線を吸い込んで行った。</p>
		<p>（中略）</p>
		<p>その火の子は天の河のなかにひろがり散って、島村はまた天の河へ掬い上げられてゆくようだった。煙が天の河を流れるのと逆に天の河がさあっと流れ下りて来た。屋根を外れたポンプの水先が揺れて、水煙となって薄白いのも、天の河の光が映るかのようだった。</p>
		</blockquote>
		<p>想像すると鳥肌が立つくらゐ美しい。が、すきとほつた明るいイノセントではない。夜の闇に映える光は、どこかしら非情なものがある。それはたしかに、<q cite="http://d.hatena.ne.jp/jintrick/20040705#d2004-07-05T23-51-44">壮絶な美しさ</q>や<q title="川端康成『雪国』（新潮文庫）">恐ろしい艶めかしさ</q>と形容するしかないものだらう。</p>
	<h2 id="FOOTER">この文書について</h2>
	<dl id="STATUS">
		<dt>公開</dt>
		<dd>2004-07-06</dd>
		<dt>最終改定</dt>
		<dd><!--#config timefmt="%Y-%m-%d" --><!--#flastmod file="200407.html" --></dd>
		<dt>制作者</dt>
		<dd>加納　景 &lt;<a href="mailto:%77%65%62%6D%61%73%74%65%72%40%70%6F%65%73%69%61%2E%6A%70">webmaster&#64;poesia.jp</a>&gt;</dd>
	</dl>
</body>

</html>