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	<meta name="author" content="加納　景">
	<meta name="keywords" content="個人主義,イギリス,日本">
	<meta name="description" content="個人主義に関する極めて不正確な比較文化論。">
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	<title>個人主義に関する観測</title>
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	<li id="POINT">個人主義に関する観測</li>
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<h1>個人主義に関する観測</h1>
<p>独り善がりな行動をとることを屡個人主義とか私人主義とか言ふやうです。また、日本には本当の個人主義はないといふこともよく言はれるものです。本当の個人主義は西欧にあつて、その理由は西欧のキリスト教文化が根底にあるからだといふことです。しかし、さひはひ、私にはイギリスに留学中の友がをりまして、その友いはく、イギリス人の個人主義ほど強烈なものはない、といふことであります。これはその友だけが言つてゐるわけではなく、違ふ帰国子女も同様の見解を私のまへで披露したものです。この個人主義とは、「本当の個人主義」なる、キリスト教的な共同体思考が前提となつた個人主義のことではなく、それこそ他人の迷惑も顧みないといふほどの墮落したものでありませうか。</p>
<p>イギリスも日本と同様、長い歴史と伝統の栄光を今に引く国家であります。この両国家が、同じく墮落しきつた個人なるものへの妄信を抱いてゐるといふのは、中々興味深い事象に思へます。おそらくイギリスも、アメリカ的な合理主義、道具主義と、フランス革命以来西側諸国が採りつづけてきた「自由・平等・博愛」の御旗とが、混合一体となり、過度な個人尊重の志向に傾いていつたのであらうことは、我が日本国の犯してきた過ちの歴史を見ればだいたい予想がつきます。</p>
<p>しかし、さうであるならば、キリスト教的なるものが、その歯止めにならなかつたのではないかといふ疑念も、出てきてしかるべきでせう。私はそれを認めるのは吝かではないし、ニーチェ以降西欧が進んで神を殺してきたといふことからも、それは証明されるかもしれません。しかし一方、私はかういふ可能性も考へてゐるのです。それは、以下のリソースをご覧になつていただければお分かりになると思ひます。</p>
	<ul>
		<li><a href="http://www9.ocn.ne.jp/~uji/ryokouki/hartfield.htm">ハートフィールド村</a>
			<ul>
				<li><a href="http://deztec.jp/site/uji/text122.html">徳保さんによる転載記事</a></li>
			</ul>
		</li>
	</ul>
	<p>筆者の宇治氏は、世界各国を旅し、その都度困難な場面に遭遇しながらも、なんとかやり過ごすのですが、これはイギリスの、日本では熊のプーさんで知られるハートフィールド村を訪れた際の話です（村に着くまでに一騒動あるのですが、それは兔も角）。村はやはり日本人観光客で溢れてゐて、氏はいささかうんざりしながら、一時間ほど歩いてゆくと、城が見えてくる。誰でも入つて良いといふ看板をそのまゝ信じ込んで、いざ入つてみると、どこか気品があり、「日本円にして、一杯2000円するフォーテュンアップルティーとスコーン」があるやうな高級さもある。そこでゆつくりお茶を飲んでゐると、騒がしい子供が、店内を走りまはつてゐるので、子供を何度か注意する。しかし子供は聞く耳をもたず、「知らないよ。ばーか」などと言ふものだから、氏は「一発ほどぶん殴」る。ところが、その後、店員の子供に対する言葉遣ひから、その子供が貴族の位を持つてゐて、しかもその場所は貴族専用であることに気づくことになる。しかも悪いことに、ちやうど後ろの席に、その子供の祖父であらう人物が座り、老人は、ただ一人の東洋人、宇治氏に興味をもつ。そこで氏は、自分の身分を偽つて、その月に着任した小早川大使の名を騙る。が、子供はさきほど殴られたことを祖父に話してしまふ。その危機を氏は、口八丁手八丁でなんとか乗りこえる。「よーし、何とか、丸め込めた」。ところが、さすがの氏も、以下の老人の発言にはやられてしまつた。</p>
	<blockquote cite="http://deztec.jp/site/uji/text122.html">
	<p>「あ、ちょっと待たれなさい。」</p>
	<p>席を立った私をじいさん、呼び止めます。</p>
	<p>「本物の小早川大使に会われたら、よろしくお伝え下さいな」</p>
	<p>「……」</p>
	<p>ばれてた……。</p>
	<p>「はっ、はっ、は。気になさるな。貴族に最もふさわしい条件というのは貴族にとって、ふさわしい行動が出来ることじゃ。あなたは「貴族としてふさわしい行動」が出来た様子。だから、ここにいることは問題なかろうて」</p>
	<p>「お褒めいただいて、光栄です」</p>
	<p>「わしも、息子のそういうことが出来たら良かったがなぁ」</p>
	</blockquote>
	<p>この後宇治氏はさらに驚くやうなことを半ば謎のまゝ放りだす形で終へてゐるのですが、それは原典を読んで頂くとして、なにより、この<span lang="en">Majesty</span>、つまり老人がとつた行動が如何にエレガントなものであることか、私は感嘆してしまふのです。相手を咎めたてることは簡単ですが、それよりも、自分の度量の広さを見せ付け、尚且つ相手を完膚なきほど叩く。しかも、相手をなだめることを忘れない。この超絶した社交技術、意識は、並々ならぬものがある。そして、このやうなエレガントな態度をとることができる、或は、さういふ態度を生み出せる環境があることは、対人関係における意識を洗練する場が存在するといふことを意味します。イギリスにおいて、その場が貴族社会にあることは疑ひやうがありません。つまり、共同体意識を失はず個人を押し通せるといふ、俗悪的な個人主義とは違ふものが、やはりきちんとイギリスには存在するわけです。</p>
	<p>ところが、日本においてはどうでせうか。今、日本において階級があるとすれば、天皇家くらゐのものです。そして実際、天皇陛下は、御一家の不信疑惑を海外で報道された際、反論せずとも国民は納得してくれるだらうと仰つて、なにも反応なさらないといふ、優美なところを御見せになられた。俗人ならば、躍起になつて言ひ逃れするであらうところを。このやうな態度で斥ける洗練の極みにも、やはり感動するものですが、それが世間一般、或は天皇家以外の特定の階級がさうであるといふことですらない事に、私は厭世の感を禁じえないのです。</p>
<h2 id="FOOTER">この文書について</h2>
	<dl id="STATUS">
		<dt>公開</dt>
		<dd>2004-07-15</dd>
		<dt>改定</dt>
		<dd><!--#config timefmt="%Y-%m-%d" --><!--#flastmod file="kojin.html" --></dd>
		<dt>制作</dt>
		<dd>加納　景 &lt;<a href="mailto:%77%65%62%6D%61%73%74%65%72%40%70%6F%65%73%69%61%2E%6A%70">webmaster&#64;poesia.jp</a>&gt;</dd>
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