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<title>Other Voices(2004-01) -Poesia</title>
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<h1 lang="en">Other Voices(2004-01)</h1>

<h2>idea</h2>

<h3>2004/01/31(Sat)</h3>
<h4>ナウシカ</h4>
<p><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/419210010X/ref=sr_aps_b_/250-0419646-9216254"><img src="http://www.poesia.jp/images/naushikaa.jpg" class="illust" alt="ワイド版 風の谷のナウシカ7巻セット「トルメキア戦役バージョン」"></a></p>
<p>友人に注文を頼んでアマゾンで買つた。かなり前に讀んだ記憶があるのだけれども、改めて讀んでみて、驚いた。まあ讀んでみてくださいよ。</p>
<blockquote><dl><dt>墓の主</dt><dd>人類はわたしなしには亡びる お前達はその朝をこえることはできない</dd><dt>ナウシカ</dt><dd>それはこの星がきめること……</dd><dt>墓の主</dt><dd>虚無だ!!それは虚無だ!!</dd><dt>ナウシカ</dt><dd>王蟲のいたわりと友愛は虚無の深淵から生まれた</dd><dt>墓の主</dt><dd>お前は危険な闇だ 生命は光だ!!</dd><dt>ナウシカ</dt><dd>ちがう いのちは闇の中のまたたく光だ!!</dd></dl></blockquote><p>人間をよく觀察してゐますねー。一讀して凄いとしか言ひやうがありませんでした。</p>


<h3>2004/01/31(Sat)</h3>
<h4>調布へ</h4>
<p><img src="http://www.poesia.jp/images/doutor.jpg" class="illust" alt="ドトールにて"></p>
<p>本當は店内撮影禁止だつたかもしれない。一應、店名は隱してゐるけれど、殆ど意味なし。けれども、ここは時間か潰せて中々役に立つ。</p>


<h3>2004/01/29(Thu)</h3>
<h4>嗚呼</h4>
<p>まだ具合が惡いです。それで機嫌が惡いと。他人にあたることはないのですが、日記にはあたります。私はそんなに良い人ではないですから、當たり前。</p>


<h3>2004/01/29(Thu)</h3>
<h4>正字正かな派ッてなんですか</h4>
<p>手法をもつて「〜派」といふ分類をする人はどうかしてゐる。ぢやあHTML派なんてのはあるのか。HTMLも正字正かなも手法の問題であつて、内容の問題ではない。現代かなだらうがレガシーマークアップだらうが、正しいことが書かれてゐれば正しいのであつて、できれば手法も正當性のあるものにしたはうが良いといふ話でしかない。手法に分類を付けて喜んでゐるのは暇人のすることである。それを進んで採入れ自慢するのは莫迦の所業である。何度も言ふが、手法を第一義におくのはやめろ。</p>


<h3>2004/01/29(Thu)</h3>
<h4>政治と道徳、或は觀念</h4>
<p>政治と道徳は異り、そう考へなければ保守ではないと言ふ人たちは、チェスタトンが普通選挙法に盡力したといふ事實をどう考へているんですかねえ。チェスタトンの言ふ民主主義とは「死者の民主主義」であり、即政治ではなく、しかし政治とは無關係ではない、觀念と一體となつたものである。簡單な二分法でしか物事を見ない、或は見れない人は、そのことに氣づかない。確かに、政治には政治でしか解決できぬ事柄が多數あることは事實だが、しかしまた、觀念なき政治といふものがないことも事實である。人は人であり、ロボットではない限り、觀念といふものはどこにでも付いてまはるものだ。そして觀念がある限り、人は歩むべき道を模索し、政治の場でも屡々道徳的であらうと考へるものだ。また、宗教と道徳も密接不可分のものである。歐洲ではキリスト教といふ道徳が、政治の世界に多大な影響を及ぼしていゐるし、韓国や中国、或は日本でも、儒教や仏教、神道を基とする道徳觀が政治の場に登場する。イスラム圏ではイスラムの經典が政治の基本となつてゐるのは、プリミティブな段階での、政祭一致の典型のやうなものである。人はbといふものをあらゆる場所で必要としてゐる存在であるならば、宗教、道徳、思想、哲學、政治、とあらゆる場面で同樣の困難に遭遇し、また同樣の恩惠を得てゐると言へよう。單純な二分法をもつて物事を断定する行爲は、思考停止と同義である。そして、そのやうな思考停止を是とする限り、その人は惡しき相對主義のもたらす怠惰と常軌を一つにしてゐる。</p>


<h3>2004/01/28(Wed)</h3>
<h4>ウィルス注意</h4>
<ul>
	<li><a href="http://japan.cnet.com/news/ent/story/0&#44;2000047623&#44;20063965&#44;00.htm?ref=rss">史上最速で広まったMyDoomウイルス、数年後まで影響の可能性も - CNET Japan</a></li><li><a href="http://www.trendmicro.co.jp/vinfo/virusencyclo/default5.asp?VName=WORM_MIMAIL.R">WORM_MIMAIL.R - 概　要</a></li>
</ul>

<h3>2004/01/28(Wed)</h3>
<h4>文章の妙</h4>
<p>友達にある本を薦め、自分でも再讀してゐる本がある。永井荷風の『墨東綺譚』(*1)であるが、わたくしは川端が好きでそれを廣言してもきたが、實のところ、荷風のやうな文章の魅力もまた捨て得ない。たとへば以下のやうな文章がさうである。</p>
<blockquote title="『墨東綺譚』">
<p>わたくしは若い時から脂粉の巷に入り込み、今にその非を悟らない。或時は事情に捉はれて、彼女(*2)たちの望むがまま家に納れて箕帚を把らせたこともあつたが、しかしそれは皆失敗に終つた。彼女たちは一たびその境遇を替へ、その身を卑しいものではないと思ふやうになれば、一變して教ふべからざる懶婦となるか、しからざれば制御しがたい悍婦になつてしまふからであつた。</p>
</blockquote><p>本當はここで、名文の譽れ高い『雨瀟瀟』を引くべきであらうが、荷風の文語調の妙はこれだけでも充分味はへると思ふ。「わたしは」とはせず「わたくしは」とする處や、「今にその非を悟らない」「教ふべからざる」「しからざれば」などの用語面からも明らかだが、それだけではなく、對句的な言ひ囘しが樣式美として感ぜられ、樣式美は日本人の古來得意とするところであるから、それをもつて文語的な響きを感ずるのだらう。近代から今に至るまで、多くの人びとは文語就中その言ひ囘しにとんと興味を失つたかのやうに見える。しかし一たびその魅力に氣附きさへすれば、己れの日本人たるゆゑんを感じずにはいられない。荷風の文章は、まさにさういふ文章である。</p>
<p class="note">(*1 <q><img src="http://www.poesia.jp/images/boku.gif" alt="墨">の字は林述齊が墨田川を言現すために濫に作つたもので、その詩集には『<img src="http://casa.s20.xrea.com/images/boku.gif" alt="墨">上漁謠』と題されたものがある。文化年代のことである。</q>と荷風の述べてゐるとほり、造語である爲變換できない。)</p>
<p class="note">(*2 「かのをんな」と讀む。)</p>


<h3>2004/01/28(Wed)</h3>
<h4>アジアン・カンフー・ジェネレーション</h4>
<p><img src="http://www.poesia.jp/images/asian.jpg" class="illust" alt="君繋ファイブエム"></p>
<p>借り物なのですが、今アジアン・カンフー・ジェネレーションの『君繋ファイブエム』を聽いてをります。すごくをしいと思つた。本當にもう少し歌詞やボーカルがなんとななれば、人にお勧めできる。變な癖があるのはしようがないのでせうね。</p>


<h3>2004/01/27(Tue)</h3>
<h4>浮氣2</h4>
<p>人を騙したり貶めたりする人は、本質的に惡人だからするのではない。ただ、想像力があまりに缺いてゐるだけなのだ。自分がそれをされたらどのやうに思ふかなどと考へない。考へないから、平氣で人を裏切ることが出來る。例へば、日ごろ相方の浮氣を氣にしつゝ、事あるごとに相方に牽制の言葉を投げかけてゐるやうな人が、浮氣をしないかと言へば、さうではない。あることがきつかけで、ころッと浮氣をするものだ。それを知つた相方は、「いつも俺（私）を注意してゐたお前のすることか」と憤るといふことは、よくあることである。だから、「浮氣をしたから元の相方を嫌ひになつたといふわけではない」と多くの浮氣者が述べるが、これは本當で、大した思考や想像力を働かせてゐないからこそ、嫌ひになることもなく、簡單に他の異性と付き合ふことができるのである。</p>
<p>と言ふか、こんなことを書いてゐると、ますます知人からの風當たりが強くなりさうで怖い。<em>俺は</em>そんなことをしません。昔はどうか知りませんが、少なくとも<em>今は</em>、そして<em>俺は</em>しません。</p>


<h3>2004/01/27(Tue)</h3>
<h4>贈り物</h4>
<p><q cite="http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/omake/diary.html">高橋氏の住所がわかつたら、福田恆存の本とか、どんどん送り附けてみようかな。</q></p>
<p>微妙に罠の匂ひが。</p>


<h3>2004/01/26(Mon)</h3>
<h4>電車内讀書</h4>
<p>昨日、京王線の電車内で阿部和重氏の『インディビジュアル・プロダクション』を讀んでゐる人を見た。良い趣味をしてゐると思ふ。だが、電車内でそれを讀むのに適してゐるかは疑問。新聞や經營學の本を讀むよりはましだが、どうせなら古典の隨筆を讀んでゐるはうがよろしいと思ふ。このやうに、公での讀書は人となりをも見られるから要注意。</p>


<h3>2004/01/26(Mon)</h3>
<h4>社會</h4>
<p>時々、お店の會計で、店員の日本語がをかしいと憤つてゐる人がゐるが、その人がをかしいのではないかと思ふ。別に、店員の日本語が正しいといふわけではない。普通の店ならば、<em>その店の</em>言葉遣ひを店員に叩き込んでゐるから、店員はそれ以外の言葉をつかつてはいけないのである。にも關はらず、店員に非難を浴びせるといふのはをかしい。なんで大の大人にもなつて、そんなことにも氣づかないのだらう。一度ならずとも社會に出て働いたことがあれば、わかることではないか。わたくしも一度、同樣の非難をされたことがあるが、キャッシャー用語ををかしいと言はれたつて、わたくしにはどうすることもできないのですよ。あんたら莫迦ですか？</p>


<h3>2004/01/26(Mon)</h3>
<h4>「説明責任」といふ妄言</h4>
<p>政府がイラクに自衞隊を派遣するにあたつて、「説明責任」を果たしてゐないとマスコミを始め國民が擧つて言ふ。彼らは心の機微を感ぜられぬ非道の人間であるとわたくしは思つてゐる。小泉總理にしろ、アキレス腱にはやはり觸れたくはないであらうが、しかしさうもいかず、仕方無く派遣といふ手段を選んだのではないか。さうであれば、突込まれれば答えられないのはわかりきつてゐるのだから、わざわざそれを詰問するやうな眞似をすべきではない。</p>
<p>そもそも、この「説明責任」といふ言葉が日本で流行りだしたのは、藥害エイズの件で、ウォルフレンが官僚を批判する時に使つた言葉だと思ふが、この文脈において使ふのは誤りである。政治においては説明ができぬことがあるのは當然である。何もかもを説明出來ると思ふのは傲慢の極みといふもので、説明をしないといふ政治があることを、彼らはわからない。政治家において、説明責任は常には存在しない。我々庶民が人に説明をする、といふ場合のみ生ずることである。その邊は<a href="http://www.poesia.jp/weblogs/explain.html">説明とは何か</a>や<a href="http://www.poesia.jp/weblogs/sincerity.html">誠実なる馬鹿の時代</a>を參照されたし。</p>


<h3>2004/01/26(Mon)</h3>
<h4>疲れた</h4>
<p>帰つたらすぐに倒れてしまつた。かなり疲れた。</p>


<h3>2004/01/25(Sun)</h3>
<h4>ミス</h4>
<p>この辭書、たまに變換ミスをやつてくれる。特に「い」「ゐ」「ひ」の邊が酷い。どうすれば直るのでせう。といふか、私の知識を確固たるものにすれば問題はないのですが。</p>


<h3>2004/01/25(Sun)</h3>
<h4>辛ひことなど</h4>
<p><img src="http://www.poesia.jp/images/gusto.jpg" class="illust" alt="ガストにて。本文と關係ないけれども。"></p>
<p>どうしようもないことに、色々惱んでゐます。まあ惱んでもしようがないと半分諦めてゐますが。</p>
<p>けふも氣持ち惡し。一時間半も前にバイトに行くやう、きのふチーフから電話が。惱んで徹夜したので、非常に辛ひですが、なんとかやるしかありません。</p>


<h3>2004/01/25(Sun)</h3>
<h4>と言ふか</h4>
<p>人を批判しておいてそれを忘れるやうな人も困りものだが。アクセスログを見ないのは結構だが、かういふ時は不便ぢやないですかね。</p>


<h3>2004/01/25(Sun)</h3>
<h4>弱小サイトの惱み</h4>
<p>うちは自他ともに認める弱小サイトですが、それゆゑ突込みが少い。これは、非常に嚴しい。例へば、マークアップの間違ひも、仮名づかひの間違ひも突込まれない。突込まれれば間違ひを正すことができるが、さうでなければ、間違ひの儘放置され、私自身勘違いをし続けることになる。突込み大歡迎を説明に掲げるサイトが多い氣持ちがよくわかる。「下手な贊辭よりも突込みを」なんて言ふのは傲慢の極みでせうが、中々多くのサイト制作者が思つてゐることではないでせうか。</p>


<h3>2004/01/25(Sun)</h3>
<h4>よくあることを考へる</h4>
<p>多くの表現者がおしなべて持つてゐる感覺として、奇を衒つて今までに言はれた事の無いことを言はうといふことだと思ふ。だから、ちよつと氣のきく人は「紋切り型」を目の敵にして攻撃するし、「よくあること」を書きたがらない。しかし、それは極めてをかしいことである。なぜといつて、われわれが生活してゐるなかで「<em>よく</em>あること」が出現してゐるのだから、そこに目を向けずして良い作品が書けるはずがないからだ。人間が生き様を問ふといふことは、すなはちリアルなものに目を向けざるを得ないといふことである。さうであるならば、「紋切り型」も思考の對象になつて當然であるし、さうしないのは、思考の怠慢であると言へる。</p>
<p>例へば、中絶は今となつては「よくあること」だが、それを作品に取り込むとき、子供をおろす人がどのやうに感ずるのか、といふ場合、多くの作家は「悲しい」とは書きたがらない。それは紋切り型で面白くないからだ。しかし、では、「をかしい」とか「うれしい」とか「美しい」と思ふことはあるだらうか。そんな人間が、ゐるだらうか。優れた作家は、直截「悲しい」とは書かないだらう。しかし、多くの言葉を費して、「悲しい」樣を描き出す工夫をするはずである。つまり、紋切り型を禁ずるのは表現の手法に對してであり、決して内容に對してではないのである。さう考えた上で、やはりかうとしか表現できぬ、あるいは、かう表現したはうが效果的であるといふ時に、紋切り型の表現が出現すべきなのだ。これは、端から紋切り型を否定する態度とは違ふし、紋切り型を意識できないといふ才能のなさを示すものでもない。「よくあること」を徹底して考えた結果なのである。ただ紋切り型を非難するだけなら莫迦でもできよう。</p>


<h3>2004/01/25(Sun)</h3>
<h4>夢</h4>
<p>普段使はない頭を使ふと、その使つたことが夢にでてくる。私はそれが頻繁で、きのふは「正字正かなゲーム」をやつてゐる自分が夢に。一體どんなゲームなのかは覺へてゐないのだが、たぶん、喋る時も「正字正かな」で喋らなければならないといふやうなルールだつた氣がする。表意主義が云々は知つてゐるのですが。と言ふか、無意識の樣が夢ならば、夢を公會するのは自分の頭の程度を晒すことになるので、ちよつと怖いですねー。</p>


<h3>2004/01/25(Sun)</h3>
<h4>占ひ</h4>
<p><a href="http://www.mushline.com/junky/archives/000169.shtml">Unknown Title - 山手線占い</a>經由で<a href="http://www.web1week.com/tokyo/uranai/">山手線占い</a>を。</p>
<blockquote cite="http://www.web1week.com/tokyo/uranai/" title="山手線占い">
<dl>
	<dt>あなたの駅は「火曜グループ」<em>池袋</em></dt>
	<dd>表と裏のギャップがコワイ。ほほ笑みの裏の野獣。</dd>
</dl>
<dl>
	<dt>どんな性格？</dt>
	<dd>ほがらかな外見で親しみやすいが、実は気性が非常に激しく、怒ると猛獣ランクの人。頭が良く真面目だが、信念は決して曲げないので、主張を通す押しの強さも天下一品。友人にはとても親切だが、人に頭を下げるのは苦手。マニア受けする強烈なクセのあるタイプだ。決めたことにはとことんのめりこむので、バクチなど破滅系には要注意。</dd>
	<dt>恋愛の傾向</dt>
	<dd>恋愛関係が始まると相手を気遣い世話をやくが、ある日突然ブチキレて隠していた裏の性格が露呈し相手を震え上がらせることも。恋をすると相手のために役に立ちたいと考えるタイプなので、その気持ちを十分に返してあげられる人、キバを剥く猛獣を笑って叩けるぐらいの包容力ある年上の人が理想の相手になる。</dd>
</dl>
</blockquote>
<p>きのふ、友人宅でやつて吃驚した。かなり當たつてゐるのではないですか？といふか、僕は池袋、嫌ひなんですが。新宿が好きです。</p>


<h3>2004/01/24(Sat)</h3>
<h4>神田神保町</h4>
<p>けふのアドマチック天國は神田神保町の特集をやつてゐる。食ひ物はいいから、書店のアレな具合とかを特集してほしい。まあ、キッチン南海はやらなきややらないで文句のでる名店でせうが。</p>


<h3>2004/01/24(Sat)</h3>
<h4>ゲロッパ</h4>
<p>題名はあまり關係ありませんが、友達と飮んで帰つてきたら、氣持ち惡くなつてをります。本來あまり調子が良くないのに、無理をしたためかと。莫迦ですねえ、俺。</p>


<h3>2004/01/23(Fri)</h3>
<h4>けふのバイト</h4>
<p>今日は五時からバイトだが、昨日に引續き具合惡し。某女に頼んでも聞いてくれないだらうし、むしろ死ねとかいはれそうだから、言へない。本當に酷い人ですね。</p>


<h3>2004/01/23(Fri)</h3>
<h4>はりぼて</h4>
<p>Gacktファンは以下の文章は讀まぬこと。</p>
<p>Gacktの歌や音樂を聴いてゐていつも思ふのだけれど、あまりに「はりぼて」といふ感じがする。どういふことかと言へば、例へば「薔薇」とか「吸血」とか「破壞」とか、さういふ安易なイメージがこれでもかと登場し、それが音樂によつて救はれてゐれば話は別なのだけれども、さうではなく、音樂までステレオタイプであつて、救ひやうがないといふことである。これがGacktの印象（薔薇の風呂に入っていそうとか居間に噴水がありそうとか髑髏を拜んでいそうとか）を決定づけてゐるのは容易に想像できるし、商業的成功もここに起因してゐるのかもしれないが、そんなものは決して良い代物といふ事はできまい。本當の良い作品とは、「かうであらねばならぬ」と考へるものではなく、「かうであつてしまつた」とか、「かうでしかありえない」といふ風に考へたものである。「あらねばならぬ」からさうするのではなく、既にさう「あつてしまつた」ことを如何に表現するかが大事なのであつて、平たく言へば、運命も才能のうちであり、「さうであらねば」と言つて自己を演出してみせる時點で、その人には才能がないといふことである。それでも少し氣のきく人ならば、才能がないなら何處までもうまく演じきつてやるといふやうに考へるものだが、Gacktの場合は演技過剩で、「はりぼて」なみのわざとらしさが感じられる。</p>


<h3>2004/01/23(Fri)</h3>
<h4>さてさて</h4>
<p>「やう」と「よう」のつかひわけ、初學者の多くが間違へるらしいが、私もその例に漏れず、かなりの頻度で間違へてゐる。先ほどの文章の題名（h4要素）で、「遣ふやう」と書いてゐるが、はたしてあつているのかどうか。</p>
<blockquote cite="http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/kokugo/SeikanaHayawakari.html">
<ul>
	<li>「〜のやうだ」の「やう」は形式名詞で、「樣」の字音假名遣です。「〜を試してみよう」の「よう」は助動詞で、「言ひやうがない」の「やう」は形式名詞です。間違へ易いのですが、「説明のしやうがない」の「しやう」は「仕樣」(名詞)で、「説明しよう!」の「しよう」(さ變動詞の活用語尾「する→し」+助動詞「よう」)とは異ります。</li>
	<li>「よう」か「やう」か迷つたら、取敢ず未然形接續の「ない」を附けてみて、意味が通るかどうかで判斷すると良いでせう。「説明しない/説明しよう」</li>
</ul>
</blockquote>
<p>參考にしてゐるのだけれども。</p>


<h3>2004/01/23(Fri)</h3>
<h4>なぜ私は正字正かなを遣ふやうになつたか</h4>
<p>初めに斷つておきたいのは、私は正字正かなをもとから批判してゐませんし、むしろ正しいと考へる者でしたから、これは轉向宣言ではありません。何度も言ひますが、正字正かなを遣つてゐるから正統的保守主義者であるといふことにはなりません。では、なぜかうなつたのか。これは、私が現代かなを遣ひ續けてきた時と同じやうに、理由はいくつかありますが、一番の理由は、もはや私の精神のありやうを現代かなに求むることはできないといふことにあります。つまり、現代かなを遣ふといふ過てる精神を意識しつゝ、正統的な「言葉」と距離をおき、その二つの間における葛藤によつて「言葉遣ひ」の收斂を目指さうといふ目論見が、先に言ひましたやうに、半ば達成されたといふことであります。異端と正統との葛藤によつてしか眞の保守はうまれ得ないのであれば、その假定はひとつの論爭とひとつの反論によつて半分ほど、表明できたと考へたのであります。ですから、そろそろ正統的な言葉をもつて、正統を語らねばなりますまい。</p>
<p>しかし、「現代かな遣い」をまつたく無視して良いものか、これも疑問です。例へば、野嵜氏の<a href="http://members.jcom.home.ne.jp/pctips/">PC Tips</a>は、略字正かなでありますが、これは讀みやすさを考慮してのことでせう。廣く使はれるHTMLやCSS、Windowsの解説のために、できるだけ新字を採入れたものと思はれます。これが示すやうに、多くの讀者は「正字」がわからないといふことが、現にあるのでせう。讀書家のかたは、戰前戰中、または戰後の國語改革のなかで、正字正かなで書かれた文章をお讀みになつたことがあり、特に障害を感じることは少いでせうが、讀書に興味がないかたは、讀みづらいかもしれません。ですから、このサイトでは、Notebook及び正字正かなにふさはしいリソースにだけ、舊仮名遣ひを遣ふことにします。ただ、掲示板等、ちよつと氣が拔けるやうな場所では、舊かなのままで失禮します。これは、私のIMEが勝手に變換するため、現代かなに一々戻すのが一苦勞だからであります。</p>


<h3>2004/01/23(Fri)</h3>
<h4>間違ひだらけ</h4>
<p>昨日の記事、半分眠りながら書いてゐたから、間違ひだらけに思へるけれど、放置。しかし、時々迷つてしかも間違ふのは、やはりわかつてゐないからなんだらう。</p>


<h3>2004/01/22(Thu)</h3>
<h4>實は</h4>
<p>體の調子があまり良くない。今日のバイトは大丈夫だらうか。もしアレでしたら、誰か代わつて下さい。</p>


<h3>2004/01/22(Thu)</h3>
<h4>Moon</h4>
<p><img src="http://www.poesia.jp/images/moon.jpg" alt="Moon" class="illust"></p>
<p>昨日、カラオケに行つてGacktを歌つてゐて、ふと氣づいた。私、1枚もGacktのCDを持つてゐないのである。それなのに、なぜ歌えるのか不思議だなあと思つて、帰りにまたCDを買つてきた。それがこれ。大分前に出てゐたはずだけれども。感想は、非常に微妙といふ感じ。それ、感想ぢやないし。</p>


<h3>2004/01/22(Thu)</h3>
<h4>課題</h4>
<p>今後の課題は、野嵜氏の癖をどう克服するかである。出來るだけやはらかい風に文章を書きたいものだ。それには、やはり仮名遣ひの使ひどころがむづかしいのだらう。そして、假名自體間違つてゐる可能性もあるから、先は長い。</p>


<h3>2004/01/22(Thu)</h3>
<h4>IMEの勉強</h4>
<p>今囘、IMEを弄るにあたつて參考にしたサイトですが、<a href="http://bingoall.net/ime/index.html">日本語入力ソフトのポータルサイト！：Maniac-IME</a>を參照しました。WX-3との差は書式が少し違ふ程度に思へたので、秀丸の置換だけで濟せました。だから失敗の數も多いのです。</p>


<h3>2004/01/22(Thu)</h3>
<h4>テストを兼ねた文章</h4>
<p>ちよつと調整してみた。どうだらうか。勿論、六分の一も失敗してゐるのだから、變な箇所があつて當然だが。「は行四段活用の動詞」のファイルは落してゐない。仮名遣ひの間違ひは自づと氣づくだらうし、變だつたら突込んで下さい。それにしても、妙に漢字が多いのは気のせいか。</p>


<h3>2004/01/22(Thu)</h3>
<h4>うーん</h4>
<p>野嵜氏の辭書をMS-IME用に改變したのだけれど、秀丸でざつと直しただけなので六分の一ほど登録に失敗した。暇があればきちんと直して野嵜氏に了承を得て、公會したいと思ふ。と言ふか、これはちやんとした正字なんだらうか。正假名はなんとなく判るのだけれど。</p>


<h3>2004/01/22(Thu)</h3>
<h4>IME</h4>
<p>実は、正字正かなにしようとIMEを弄っていたのですが、MS-IME用ので良いものがあまりないのですよね。現代かなで入力して出力が正かなというのもあるのですが、それって思想的に本末転倒なのではないのですか。野嵜氏のWX-3用が一番望みに近いですが、まあ無理なんですよね。ってかあれ。「と言うか」を入力したら「と言ふか」で出力されるのは、一体なぜ。バックアップもとらずに弄りすぎたか。</p>


<h3>2004/01/22(Thu)</h3>
<h4>出来事</h4>
<p>今日は珍しく色々と出来事があったのですが、疲れているので省略。カラオケに行ってきました。アレな歌とか。</p>


<h3>2004/01/21(Wed)</h3>
<h4>サイトアイデア</h4>
<p>サイトのアイデアを考える時、私はデザインを先に考えて、そのデザインにあったサイト内容にするようにしている。で、今度のはてなダイアリーでは、なぜか好評だった5thスタイルの黒背景を受け継ぎ、少し退廃的な雰囲気にしてみようと。白と黒で人間性の表裏を表すなんていう馬鹿げたことではなくて、気になった記事等のメモですが、決してblogなんかではありません。</p>


<h3>2004/01/21(Wed)</h3>
<h4>更新頻度</h4>
<p>日記系のサイトでは、更新が多くなると閉鎖が近いと言われる。じゃあうちはどうなるんだと。一年近くこのペースで更新しているぞ、と。まだまだいくぞ、と。いい迷惑だぞ、と。</p>
<p>しかし、こんなに更新しているなら、さぞ暇だろうと、まるで僕が引きこもりで学校も行っていない駄目人間みたいな想像をしている人は、今後その考えを改めてもらいたい。僕は決して駄目人間ではない。断じて違う。なぜなら、えっと、理由が思いつきませんが、とりあえず、違います。今（午前8時31分）から寝るけれど、これは徹夜でネットをしていたからではありません。絶対違います。嘘つかない。本当。</p>
<p><q>自己について多くを語ることは自己を隠す一つの手段でもありうる。</q>『善悪の彼岸』フリードリヒ・ウィルヘルム・ニーチェ</p>


<h3>2004/01/21(Wed)</h3>
<h4>下らぬこと</h4>
<p>「きだみのる」の文字列を見ると、「キダタロー」を思い出す僕はもうこの先長くないと思う。</p>


<h3>2004/01/21(Wed)</h3>
<h4>読書感想</h4>
<p>読書の感想を書いているサイトを見ているうちに、そうだ、私もやろうと思ってはみたものの、最近滅法読書をしていなく、書くネタがないのですが、頑張って書いてみようと思います。</p>
<dl>
	<dt>『この人の閾』保坂和志著（新潮文庫）</dt>
	<dd>再読。表題作よりも、「東京画」が良い。</dd>
	<dt>『歴史とは何か』E・H・カー著 清水幾太郎訳（岩波新書）</dt>
	<dd>再読。私の歴史観の根底は、この本。</dd>
	<dt>『まちがいだらけの日本語文法』町田健著（講談社現代新書）</dt>
	<dd><q>まちがいだらけの</q>仮名遣いで文法を解説されてもねえ。</dd>
	<dt>『美しい日本の私――その序説』川端康成著 サインデンステッカー英訳（講談社現代新書）</dt>
	<dd>再読。やっぱりわけがわからない。</dd>
	<dt>『ノルウェイの森 上・下』村上春樹著（講談社）</dt>
	<dd>再読。やっぱり駄作。しかし、この後に『ダンス・ダンス・ダンス』や『国境の南、太陽の西』が書かれたと考えると……。</dd>
	<dt>『ブッデンブローク家の人びと 上・中・下』トーマス・マン著 望月市恵訳(岩波文庫)</dt>
	<dd>再読のはずが……。書き出しも覚えていなかった。マンは思索の対象にはもってこい。</dd>
</dl>

<h3>2004/01/21(Wed)</h3>
<h4>価値観について</h4>
<p>価値観はよくわかるのだけれども、対立する価値であるはずなのに、そのどちらも好きになるというのは、思考の怠惰なのではないか。自分が好きなものに対して、それがどういったものなのか、ということを考えるのが普通の人間であるならば、好きなものが一貫しているはずである。少なくとも、価値が対立していながら両方好きであるためには、もう一つ理由付けが必要であるはずだ。例えば、川端と太宰が好きだと主張する時、双方の価値が対立している（有名な第一回芥川賞のいざこざや小説自体）が、その場合、「川端と太宰の<em>文章</em>のどちらも好きだから」という、小説の本質的な姿勢や思考とは（少なくとも表面上は）違った面から述べなければならぬ。でなければ、その人の「好き」な度合いはたかが知れているということになる。なぜなら、「好き」な理由を考えることによって、本当に好きなのかを自問することができ、そうすることによって、己の好みをより深く理解することができるからである。そして、突き詰めれば、そこには価値観という言葉では言い切れぬ本質が見えるはずで、好みの説明はここの立脚点からしか成り立たないということも言えるはずである。少なくとも、説明という行為が、己の正当性を主張する行為であるとするならば。</p>


<h3>2004/01/21(Wed)</h3>
<h4>現代かなは気色悪い</h4>
<p>私は現代かなを遣っているけれど、実は、どうにも気色悪くてしようがない。正直に告白して、現代かなは、あらわに過ぎる。たとえば、「おめでとう」という場合、正かなだと「おめでたう」になるわけだが、本来語幹は「おめでた」にあるから、「た」が「と」に変わって、合理的ではない、という言葉の基礎は勿論だが、私は語<em>幹</em>ではなく語<em>感</em>的に、「おめでたう」と言うほうを好む。つまり、中途半端な表音主義によって、なくてもよい、あってはならぬという類の部分まであらわになると感ずるのだ。隠す美徳は日本文化の特色とよく言うが、国を愛する心を育てるということを声高に叫ぶ文部省が、正かなを復活させないのはおかしい。まあ、文部省のあたまに「科学」を付けるような、ロボットじみた人間だからしないのか、それとも、ロボットではなく、やはり人間だから気づかないのか、どちらにせよ、そんな人に国を愛せと言われても納得できないのは道理である。</p>


<h3>2004/01/21(Wed)</h3>
<h4>わらい</h4>
<blockquote cite="http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/omake/diary.html" title="闇黒日記">
<dl>
	<dt>平成十六年一月二十一日</dt>
	<dd><a href="http://www.arbalest.jp/">佐世保の同人誌即売会「あるばれすと」</a></dd>
	<dd>なぜのあとあやの？</dd>
	<dd><a href="http://mariage.xrea.jp/diary/?date=20040120">Diary - Notes(2004-01-20)</a></dd>
	<dd>俺に同人誌を作れとでも？</dd>
</dl>
</blockquote>
<p>大爆笑。野嵜さんが同人誌を書くなら、皮肉じゃなくて、正字正かなで書いて欲しい。というか、そんなことを某掲示板でちょっと前に話していたような。</p>


<h3>2004/01/21(Wed)</h3>
<h4>噂のりさ氏</h4>
<p><img src="http://www.poesia.jp/images/wataya.jpg" class="illust" alt="綿矢？と綿矢さん"></p>
<p>なんのサイトか勘違いされそうな画像で以下略。綿矢さんが美少女だっていうのはデビュー当時から言われていたことだけれど、芥川賞をとってからもっと人気が上がってきたようですねえ。で、人気も上がれば噂も出てくるもので、ネットでは綿矢さん似の写真（いくつかはコラ）が出回っているようですが、この人（写真左）はさすがに違うでしょう。結構有名な写真だった気がするけれど、こんなことに再利用されるとは。</p>
<p>というか、僕は綿矢さんファンじゃないのですが。いや、ネットでは珍しく、小説が好きなの方なのです。ネットの彼方此方で、処女作『インストール』を酷評されているけれど、そんなことはない。確かに甘ったるい若者の言葉がいくつか散見されるものの、女性の感性が完全に表れていて、そういう文章を書けたという点で評価すべき。若い云々は年をとれば問題がなくなるはずだから。</p>
<p>それはそうと、綿矢さんって僕と同年代なんですよね。デビューした時に、学校の図書館で朝日新聞を読み知って、下らないライバル心（何）を燃やしていたことは秘密。</p>


<h3>2004/01/20(Tue)</h3>
<h4>ナショナルな感情</h4>
<blockquote cite="http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040117-00000018-kyodo-int" title="Yahoo!ニュース - 海外 - 共同通信">
<p>フランスのサルコジ内相が今月初めに中国を訪問した際「日本より中国が好き。相撲は知的なスポーツではない」などと発言、波紋を呼んでいる。２００７年の次期大統領選をにらみ、大の相撲ファンで親日家として知られるシラク大統領への当て付けとみられるが、ブルターニュ日本友好協会は「日本文化への配慮に欠ける」と内相を批判した。</p>
<p>週刊誌パリ・マッチ最新号によると、内相は訪中の際、相撲批判に加え「東京は息が詰まる。京都も何が素晴らしいのか分からない。有名な庭園も陰気だった」と、中国びいきの発言をした。</p>
<p>昨年１０月の週刊誌ルポワンの次期大統領選に関する世論調査では、右派候補として内相の支持率は５０％と、シラク大統領の４０％を上回っている。</p>
</blockquote>
<p>まあこれを読んで怒り出すのが日本人なんでしょうが、所詮政治的発言でもあるし、そもそも文化保護のやり方が間違っているという批判もあたっているという点で、半分真面目に半分流して聞いていればよいのではないですか。というか、中国の文化ってなんですか。中華人民共和国は建国してから半世紀弱ですよ？アメリカよりも若い国に、文化なんかあるはずもなく、どちらにせよサルコジ氏はアジアを知らないのは明白。だから、一々怒ってもしようがない。日本人だってキリスト教がわからないんだから、西洋人を笑えないし怒れない。</p>


<h3>2004/01/20(Tue)</h3>
<h4>作文</h4>
<p><q cite="http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/omake/diary.html">神奈川中央交通バスのアナウンス。「携帶電話の御使用は、他の御客樣の御迷惑となりますので、電源を御切り下さいますやう御願ひします」。主語述語の對應が變。 </q></p>
<p>ああ、そうですねえ。この間また友人と飲んでいるとき、PCにあった学校のレポートを見せてもらったら、<q>主語述語の對應が變</q>な文章を散見したので、ちょっと注意したことを思い出しました。大学のレポートにはそれ用の書き方というのがありまして、変な小技は使わない方がよろしいし、基本的な文法構造は守らなければなりません。これは入試の小論文でも常識です。新感覚派の文体で書いたんだとかの言い訳は通じません。</p>
<p>というか、小学の国語の授業をもっときちんとした方がよいと思う。論語を暗唱させるくらい読ませれば、自ずと作文の実力はついてくると思う。漢文は簡素だから、余計な文章は省くという文章の美意識が身につくんじゃないでしょうか。まあ、こんな喋りすぎの文章を書いている私が言えた事ではないのですが。</p>


<h3>2004/01/20(Tue)</h3>
<h4>掲示板</h4>
<p>あまりにレスをしていないから、そろそろ掲示板を取っ払った方が良いかも。僕が掲示板が嫌いなのは、改行が入るからで、どうしてもソースにbrが入ってしまうでしょう、それが嫌なんです。まあ元のHTMLが余りに酷いから、そんなことを言ってもそもそもしようがないのだけれど。</p>


<h3>2004/01/20(Tue)</h3>
<h4>音楽の好み</h4>
<p>僕は坂本龍一ファンを自称しているけれど、他の坂本ファンの方が、僕がこんな曲を聴いて感心しているなんて聞いたら、お前は坂本ファン失格だと罵られること請け合い。いやね、比べる次元が違いすぎるので。という言い訳は用意しているのだけれど。</p>
<p>というか、気軽に聴く分にはまあいいんじゃないんですか。</p>


<h3>2004/01/20(Tue)</h3>
<h4>666</h4>
<p><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B0000E2FLA/250-8998655-6988244"><img src="http://www.poesia.jp/images/666.jpg" class="illust" alt="666 (初回限定DVD付) [LIMITED EDITION]"></a></p>
<p>久しぶりにCDでも買おうかなと思い、買ったのがこれ。随分遅いけれど。あとGacktのも買ったのですが、割愛。僕がまだ中学高校の頃、頻繁に聞いていたのがhydeでありLUNA SEAだった。後者は掲示板に登場するkakatoの勧めだったのですが、勧められて一ヵ月後に解散したというアレなことが。随分と感心したものだったんですがねえ。重厚な音楽が素晴らしいとか言って。でも、歌詞ではhydeの方が良いと思う。いや、もちろん、純文学的読みかたではなしに、エンターテイメントとして完成度が高いということ。才能のない作詞家が書く酷い代物よりも、言葉の感覚はあると思う。時々あまりに紋切り型の耽美、退廃過ぎて辟易するけれど。</p>
<p>

<h3>2004/01/19(Mon)</h3>
<h4>ポーリーヌ</h4>
<p><img src="http://www.poesia.jp/images/pooleane.jpg" class="illust" alt="ポーリーヌ"></p>
<p>どこが泣き処って、ここですよ、ここ。</p>
<p><q>楽屋でポーレットの歌を聴いていたポーリーヌは、靴紐がほどけているのに気付き、ポーレットに結んでもらおうと舞台に出て行ってしまう。</q></p>
<p>きっと楽しそうに<q>歌を聴いていた</q>んでしょうねえ。そして、自分では靴紐は結べないから、舞台にいる大好きなポーレットに、結んでもらいにいくわけですよ。もうこのへん、想像しただけで涙ものじゃないですか。</p>
<p>ポーレットが施設にあずけた後に、やっぱり連れ戻しに行く辺りは大衆的な妥協が感じられるけれど、そうじゃなかったら<em>僕が</em>救われません。</p>
<p>ああ、やっぱりだめだ。この映画は見るなら一人でなきゃだめだ。</p>


<h3>2004/01/19(Mon)</h3>
<h4>浮気</h4>
<p>一体どれほどの人が、浮気による心的外傷の深さを認識しているのだろうか。浮気というのは、麻酔や麻薬の類に似ていて、最初は相手には決してばれぬという麻痺に陥り、次はばれても構わぬと居直り、ばれれば浮気相手との恋愛が成就した感覚によって、元の彼氏彼女の気持は殆ど顧みず、いかに事を収束させるかという戦術に関心が移る。悪いのは自分と言いながら、心の奥底では浮気されるようなことをしたお前が悪いと思っている。自己肯定の向きが強い人にありがちなパターンである。一度浮気されたら、こんなことは決して出来ない。それほど心の傷は深いものなのだ。</p>
<p>浮気というのは、人を簡単に鬼畜まで堕とす。しかし、当人は少々の悪気はあっても、そこまで傷つくものだと思っていない。まったく厄介な代物である。僕はこれを考えるたびに、重いため息を吐く。このため息は実に重く、胸が苦しくなる。</p>
<p>ちなみに、僕は偽善者だけれど、犬と猫とおばあちゃんと浮気に関しては、断固として（他人から見れば）偽善者であることを貫き通す。理由もなく涙したり笑ったりする。南極物語なんて、絶対見れない。<a href="http://www.nikkatsu.com/movie/pauline/">ポーリーヌ</a>も駄目。この映画、ストーリーだけを読んでも泣いてしまう。というか、<a href="http://www.nikkatsu.com/movie/pauline/about.html">映画について</a>を読んで泣きながらこれを書いているし。</p>


<h3>2004/01/19(Mon)</h3>
<h4>反省するということ</h4>
<p>「俺は馬鹿だから反省しない」を繰り返す凄まじい反省会がこの世にあるらしく、私はそういうのが大好きだが、私なら「俺は凄いから反省しない」と言うだろう。酒を飲む度にいつも言っているから、友人は辟易しているだろうけれど。</p>
<p>そもそも、反省なんて言っている人が本当に反省し、悔い改めているところを見たことがない。それは、反省しないために反省したと言っているに過ぎないからだ。本当に反省する時は、口にも出せぬほどの恥を感ずるはずだ。ことあるごとに反省反省猿もといオウムよろしく言ったとて、一体何になるというのか。</p>


<h3>2004/01/19(Mon)</h3>
<h4>批評真髄</h4>
<p>小林秀雄は、ある小説を二ページ読んで駄作と斬って捨てたことがあるという。小林は、批評は全部読むことが大事なのではなく、いかに正しいことを言うか否かが大事なのだと言っているのである。これはまったくその通りとしか言いようがないが、数年前、私は馬鹿正直にも、新聞の書評欄に逐一目を通していたことがあって、書評家達の不誠実な態度に辟易した覚えがある。というのは、多くの書評家は、「あとがき」くらいしか読んではいず、いや、あとがきを読んでいるならまだマシな方で、帯紙の宣伝文句だけを見て書いている人も少なくなかった。だから、多くの読者家が経験するような、書評で絶賛されているから買ってはみたものの、読んでみたら酷い代物であった、ということが屡々起こるのである。小林風に言うならば、あとがきだけを読んでも正確な批評さえ出来ていれば良いということになるが、現実、あとがきしか読まず、しかも小さな文壇論壇内の牽制の類にために、内容は二の次にし、下らない書評を書いているところを見れば、才能がないのならせめて全部読んでから批評してもらいたいものだと言いたい。そうすれば、たとえヤブ医者でも、風邪と癌の違いは見分けられるだろうに。</p>


<h3>2004/01/19(Mon)</h3>
<h4>画像</h4>
<p><img src="http://www.poesia.jp/images/best-sakamoto.jpg" class="illust" alt="坂本龍一"></p>
<p>画像のフロートをレフトにしてみました。ついでに実験でアルバムを携帯で撮ってフォトショップでちょっと加工してみた。テスト。</p>


<h3>2004/01/18(Sun)</h3>
<h4>Mozilla 1.6</h4>
<p><a href="http://www.mozilla.org/products/mozilla1.x/">Mozilla 1.6</a>が出たようですが、<a href="http://www.mozilla.org/releases/mozilla1.6/README.html#new">What's New in Mozilla 1.6</a>をたどたどしく読む限り、1.5からあまり変わっていない様子。バグがいくつか修正された模様。<q>CSS inheritance has been updated to work per CSS2.1 (computed values are inherited). </q>は微妙。</p>


<h3>2004/01/18(Sun)</h3>
<h4>あらあら</h4>
<p>芥川賞云々の話をしていたら、直木賞の方が大変なことに。江國さんは純文学作家なのですが、山田さんと同じように、直木賞をとっちゃったようですねー。んでもう一人は京極さんと。彼はとって当たり前というか、今更直木賞は、京極さんのキャリアから言えば低い感じもする。やっと大本命が的中した感じでしょうか。まあ春樹さんみたいに、芥川賞をとるまえに谷崎潤一郎賞とか読売文学賞をとってしまうと、もうとれなくなってしまいますからねえ。ギリギリのタイミングだったんじゃないですか。しかし、今回の芥川直木両賞を見ていて感じるのは、文芸春秋必死だなということ。話題づくりに。ま、それでも、話題だけでなく実力もある作家氏が多かったから、今回は素晴らしい選考だったと思う。</p>


<h3>2004/01/18(Sun)</h3>
<h4>ウインタースポーツ</h4>
<p>北海道出身ですと言ったら必ず聞かれるのが、「えーじゃあスキーとか上手なんでしょう」というやつで、これを言われる度、北海道イコール蟹、北海道イコール熊、北海道イコールでっかいどう並の知能指数の奴だと心の中で断言している。</p>
<p>なぜ北海道民の大半がスキーを滑れるのかといえば、小学生のころから冬の授業でスキーを習っているからであり、そうでなければ滑れるはずがない。で、僕の故郷である釧路では、冬の授業はスキーではなく、スケートなのである。グラウンドに板を張り巡らせ、水をため、リンクを作って皆ですべる。スケートの靴はなんでもよく、フィギュア-スケートやスピードスケート、アイスホッケーがごった混ぜ状態で、いかに速く走れるか、というので競っていた。だから、釧路のアイスホッケーで一位になれたら、それは日本一位ということになり、即プロ入り、全日本入りが決まる。それくらい釧路ではスケートがメジャーでありウインタースポーツの主流だから、ある程度の年齢に達してスキーをやらなければ、そもそもスキー板にすら触ったことがないという人は珍しくない。僕もそうで、やっと一昨年にボードをやって、ゲレンデデビューを果たしたほどで、ほとんどスキーには縁がないのである。</p>
<p>そんな僕をつかまえて、お前スキー滑れるんだろうと言い、滑れないんですと答えたものなら、道民であることさえ疑われかねないし、もっと酷い時は、「えーそうなの？信じられない」といったように人間性まで否定される。こんな残酷なことはない。道民がみんなスキーを滑れると思ったら、大間違いだぞコンチクショウ。つーか、そんな紋切り型が通用するなら、お前ら皆、和服着てちょんまげ結ってござるそうろう云々してろ、馬鹿野郎。</p>
<p>いじめないでください。</p>


<h3>2004/01/17(Sat)</h3>
<h4>ヲチとはなんぞや</h4>
<p><a href="http://ex.2ch.net/test/read.cgi/net/1074227134/l50">ネットヲッチを悪趣味と言われたが</a>が興味深い。</p>
<p>もう常識だが、webサイトなんてものは見られてなんぼなんであって、見られるということは、賛成もあれば反対も当然出てくるということで、そうであれば、「ヲチ」自体には何の咎もないと言える。当のスレで言及されている通り、「突撃」等の不法行為や非論理的な中傷の類が問題なのである。しかし、今世間で、ヲチ板住人を名乗ったり、そもそも2ちゃんねらを自称すること自体「痛い」し、咎がなくともそういう眼で見られているということを意識できないのであれば、<a href="http://ex.2ch.net/test/read.cgi/net/1074227134/29">29氏</a>が述べている通り、<q>バランス感覚が崩壊</q>しているのは確か。</p>
<p>私に限って言えば、別にヲチされたっていいんじゃないですか、という感じ。馬鹿げている書き込みだって、それは馬鹿なんだから流せばいい話ですし、たまに釣ってみるのも一興なんじゃないですか。</p>
<p>というかそもそも、多くのインターネット利用者は「ヲチ」しているはずなんですがねえ。夾雑物を除いて、純粋な行為の問題として。アンテナなんかは、「ヲチ」の最良の道具なんじゃないのですか。</p>


<h3>2004/01/16(Fri)</h3>
<h4>現代文学と保守</h4>
<p>昔から現代文学なんて糞ばかりだ、古典や外国の近代古典を読んでいるほうがよほど面白いと僕は言っていたのだけれど、本筋としては今もあまり変わっていない。ただ、状況も随分と変わってきて、世界の文学と比肩しうるものも、多くなってきた。</p>
<p>けれど、やはり古典には敵わない。知識として古典がすごいことをしっているのと、実際に読んで打ちのめされることを経験するのでは雲泥の差だから、人々は容易に納得してくれないが、二十世紀最大の哲学者のハイデガーが、今の哲学はソクラテスやプラトンから一歩も進んでいないと言ったことが象徴しているように、現代において、古典的経験から脱してものを考えたり創作することはできないのである。なぜなら、考える主体は人間で、それは古今東西変わりはなく、ゆえに人間の生き方は基本的に変わらないからだ。</p>
<p>伝統とか慣習といったものを重視するのは、知識やイデオロギーとして正統性があるからではない。そこに、人間の生き方の智恵があるからだ。それを知らずして、保守派とか保守主義を言っても詮無い話である。</p>
<p>優れた作品は、常に保守的である。なぜなら、人間の生き方を見定めた作品が優れているならば、古典を見ずにいることはできないからである。その意味において、現代文学もいずれは古典になり、優れた作品として世に残る可能性を考えられ、作品の真価を見定めることができるのである。</p>


<h3>2004/01/16(Fri)</h3>
<h4>そういえば</h4>
<p>女性作家で忘れてはならない人に、小川洋子さんという方がいらっしゃいますが、僕は小川さんも凄いと思う。悪意に満ち満ちているにも関わらず、どうしてもその悪に加担せざるを得ないという構図は、今までの女流文学にはなかった。富岡氏のような殺伐とした雄雄しさが男性的に見えることはなくても、本質として男流文学により近い。</p>


<h3>2004/01/16(Fri)</h3>
<h4>女流文学</h4>
<p>今回の芥川賞、決まりましたねー。りささんのはデビュー作の『インストール』しか読んでいないのでなんとも言えませんが、良い作家になりそうで期待。というか、女性作家って山田詠美さんの路線、古くは樋口一葉とかもっと古くは和泉式部とかと、まったく感性が変わっていないというのは、山田氏くらいのころなら中々興趣がそそられるものがあったのに、今ではマンネリズム。その点で、今回の受賞者お二方に、将来への不安を抱かないでもない。だから、山田氏のような作風は大好きだけれど、もう片方の可能性として、僕は、江國香織さんを注目している。透明感がありながら、恐ろしい雰囲気を描ける才能は中々ないし、女流文学（あえてこう書く）の主流である富岡多恵子氏のような、身も蓋もない殺伐とした風景とはまた違った、艶やかでありながら不気味な世界観（『流しのしたの骨』）を提示できた才能は賛嘆に値する。</p>
<p>基本的に、僕は、女性作家の小説が好きなのですが、富岡的エロス――すでにエロスとは呼べない代物だが――には、もう興味がない。昭和までは有効だったかもしれないが、さすがに今は賞味期限切れだろう。</p>


<h3>2004/01/16(Fri)</h3>
<h4>笑った</h4>
<p><q cite="http://www.homoon.jp/users/www/"><del datetime="2004-01-15T17:30:00-08:00">現在、<a href="http://pc2.2ch.net/test/read.cgi/hp/1067806559/885-" title="CSSでイケてるデザインサイト 19 - 885-">カススタイラーと格闘中</a>。負けてなるものかー</del><ins datetime="2004-01-15T17:30:00-08:00">負けました。がく。</ins></q></p>
<p>微妙に<q>滑稽</q>さが滑りすぎている気がする。というか、まだ自薦他薦云々やっているんですね、とか、次スレまだー？、とか思った。</p>


<h3>2004/01/16(Fri)</h3>
<h4>Lunascape1.1</h4>
<p><a href="http://www.lunascape.jp/">Lunascape1.1</a>が公開されましたよ、奥さん。ようやく<q>ポップアップカッター機能</q>がついてくれて、JavaScriptを常時切っていなければならない状況から脱しました。</p>


<h3>2004/01/15(Thu)</h3>
<h4>壁紙</h4>
<p>CSSコミュニティ周辺でやっている「ののあたん＆あやのたん」の背景はよいのですが、それによって可読性が失われているのはよくない。私はほんの少し弱視の気味があるので、可読性の少ない文章が嫌いだ。それならCSSを切ればよいではないかと某氏が言いそうだが、私は他人のCSSでも、好きなデザインなら決して切ろうとはしないし、切り替えスクリプトがあるサイトで、デザインのよいものがあれば、拘ってそのスタイルで見続けるタイプだから、CSSを切ろうとは思わない。というか、CSSを切らずともよく認識できるサイトが一番良いわけで。その辺のことに明るいはずのこみゅんが、これじゃあなあと。</p>


<h3>2004/01/15(Thu)</h3>
<h4>品性下劣</h4>
<p><a href="http://www.wafu.ne.jp/~gori/diary3/000222.html">Irregular Expression: 講談社の誘導尋問</a>の記事。確かに酷いなーと思ったけれど、ここって<a href="http://kodansha.cplaza.ne.jp/hiroyuki/index.html">ひろゆきの先天性ゲーム脳</a>とかやっていたところでしょ。まあそれならありえるなあとか納得してしまった。</p>


<h3>2004/01/15(Thu)</h3>
<h4>サイバーなんたら</h4>
<p>ほら、2ちゃんが重くなって戦争で彼女が兵器な（謎）アレ。</p>
<ul>
	<li><a href="http://tset.nce.buttobi.net/">まとめサイト</a></li>
</ul>
<p>まともな人間なら「へー」で終わり。インターネットで個人が国境の壁を越えただとか与太を飛ばしていた人、今頃どうしているんでしょうねえ。結局国家にまかせることしかできず、自らの行為に徒労を覚えたって、詮無い話ですよ。そんなの、端からわかっていたことじゃないですか。</p>


<h3>2004/01/15(Thu)</h3>
<h4>web作成ツール</h4>
<p><a href="http://feel.cheap.jp/archives/20040106/web.html">yuさんのところで紹介</a>され、<a href="http://web.toroq.net/cgi-bin/diary/dnmemo.cgi">9062さんも公開</a>されていたので、私も調子に乗って公開。</p>
<ol>
	<li><a href="http://hide.maruo.co.jp/software/hidemaru.html">秀丸エディタ</a></li>
	<li><a href="http://www5d.biglobe.ne.jp/~quia/tech/hidemacro/index.html">秀マクロで HTML 雛型を生成</a></li>
	<li><a href="http://sleipnir.pos.to/software/pictbear/index.html">PictBear</a></li>
</ol>
<p>どれも使いこなせていないのはアレですが、三番目は、png画像を作成する時によく使います。他はフォトショップを使ったりしますが例によって（以下略）。で、エディタ、私は秀丸を使っています。スクリプトを扱うことを前提で、メモ帳から乗り換えて一年、一度も最初からスクリプトなんて書いたことがありません。要するに、だめだめってことですか。</p>
<p>余談ですが、平野氏の秀丸マクロ、よくできているのですが、ISO-HTMLでのmeta要素で、スクリプト言語を指定する意味がないと思う。</p>


<h3>2004/01/15(Thu)</h3>
<h4>table</h4>
<p>久しぶりにtableを使ったら、疲れた。本当にこの要素は嫌いです。指定する要素や属性が多すぎる。仕方のないことだけれども。初心者向けのHTML解説サイトにtableが解説してあるのが信じられない。まあ大抵、trで行、tdでセルとだけしか解説していないのだけれど。</p>


<h3>2004/01/15(Thu)</h3>
<h4>診断</h4>
<p><a href="http://www5d.biglobe.ne.jp/~quia/">QUIA</a>経由で<a href="http://trpg.gasuki.com/trpg/csi.php">ファンタジー職業適性診断</a>を。</p>
<blockquote cite="http://trpg.gasuki.com/trpg/csi.php" title="ファンタジー職業適性診断">
<table summary="ファンタジー職業適性診断 結果">
<caption>ファンタジー職業適性診断 結果</caption>
	<tbody>
		<tr>
		<th scope="row">戦士レベル</th>
		<td>3</td><td>天性の才能あり</td>
		</tr>
		<tr>
		<th scope="row">盗賊レベル</th>
		<td>4</td><td>天性の才能あり</td>
		</tr>
		<tr>
		<th scope="row">僧侶レベル</th>
		<td>1</td><td>努力すればなんとか</td>
		</tr>
		<tr>
		<th scope="row">魔法使いレベル</th>
		<td>2</td><td>努力すればなんとか</td>
		</tr>
	</tbody>
</table>
<p>占い師「そなたに最も似合う職業は、努力しだいで何でもこなせる『勇者』じゃ。究極のバランス型。際立った長所も欠点も無いタイプじゃな。大きな欠点が無いから、どんな立場になっても順応できるところが特徴じゃ。色々な適性があるおかげで、役割を固定させられることが苦手なようじゃの。なるべくたくさんの場所で、失敗を恐れずに様々な種類の経験をしてみることをお勧めするぞ。」</p>
<p>(職業メモ)TRPGで「勇者」と呼ばれる職業はあまり無い。大きな目的を成し遂げたときに与えられる称号のようなものかも。</p>
</blockquote>
<p><q>勇者</q>でも微妙に喜べないのはなぜ。</p>


<h3>2004/01/14(Wed)</h3>
<h4>卑怯</h4>
<p>「卑怯者」と呼ばれても蛙の面に水といった風な様の人の気持が知れない。卑怯であることを是認したことはかつてないし、これからもないだろう。人と人が付き合う上で、どこかしら誠実で潔い部分が不可欠なのは、真の理を求めているからだ。人は真理を求めて話合うし、喧嘩もする。しかし卑怯が前提の喧嘩は、喧嘩ではなく、極端な話、殺し合いになる。なぜなら、正々堂々と戦うということは、そこに一定のルールが存在するから安心して戦えるのであり、そうでないのであれば、殺すこともありうべしということになるからだ。そんな道理もありはしない。</p>
<p>卑怯者は、弱いから卑怯なことをする。しかし、喧嘩でもそうだが、弱い人間こそ何をするかわからない。だから時に卑怯者は恐ろしい人間と化し、ゆえに他人からは疎外され、余計弱者のコンプレックスをつのらせることになる。ここには悪循環しかない。</p>


<h3>2004/01/14(Wed)</h3>
<h4>人のせい</h4>
<p>理由があって人のせいにするのは仕方がないし、正当な事もあるだろうけれど、自分にも非がありながら、それをする人間というのが全然わからない。また、相手の理由も聞かないうちにキレだす輩もわからない。</p>


<h3>2004/01/11(Sun)</h3>
<h4>ねぼけ</h4>
<p>寝ぼけながら文章を書いていて、変だったので多少修正。それでもまだ変だけれども。</p>


<h3>2004/01/10(Sat)</h3>
<h4>文学至上主義</h4>
<p>私が友人の家で飲んでいるとき、こんな話になった。島崎藤村のように、妻も娘も殺して（というのは言い過ぎで伝説であるらしい）までも文学に献身する態度を、お前はとることができるか、俺はできない、ということを、友人は言った。友人は正しいと思う。道徳的な人間であると思う。だから、私が正しくないのだが、私はこう言った。もちろん、時と場合によるし、そもそも俺は作家ではないから、たいそれたことを言うことが出来ないけれども、己が完成させねばならないと思った作品に対して、「生」以上の執着を持つことはありうると思う。つまり、妻や子どもが死ぬということは、自分の死も覚悟しての上であって、逆を言えば、そこまで執着したからには自分も死ぬという覚悟が必要であり、そうであるならば、文学至上主義も納得できる、と。</p>
<p>これに付言してさらに話を進めると、こうなる。そもそも、「生」そのものに価値はないのだから、その「生」をもって何をなすべきかを考えるのが普通の人間で、その極端な例として、文学のために人を殺すこともありうる。そして結果、それが良い作品なら芸術的に素晴らしいのであって、個人の生活は一義的存在たりえなくなる。無頼派や自然主義作家は除くにしても、他の作家を論じるにあたって、個人の生活に立ち入った批評で碌なものはないが、ようするにここのところがわかっていないだけなのだ。</p>


<h3>2004/01/10(Sat)</h3>
<h4>紋切り型</h4>
<p>松原氏の文学至上主義への批判は、私は同意できるけれども、菊池寛が島崎藤村を批判した文脈とかわらず、ずっと昔から言われ続けてきたという点で紋切り型。しかし、言わなければならない紋切り型もあるし、紋切り型を嫌って使わないうちに、やはり紋切り型にしか行き着かぬという着地点も、多く存在するものだ。<a href="http://members.jcom.home.ne.jp/pctips/parody/monkiri/">インターネット紋切型辭典</a>は結構だが、そこを意識したり考えたりできないのであれば、紋切り型を紋切り型で批判する阿呆くさい循環から抜け出せない。</p>


<h3>2004/01/10(Sat)</h3>
<h4>違うと思う</h4>
<blockquote cite="http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/omake/diary.html" title="闇黒日記">
<dl>
	<dt>平成十六年一月九日</dt><dd>ただ、作家が實際に、片端の子供を持つてゐたとしたら何うだらう。片端の子供を殺してやりたいと、心の中で思ふ事が、子育てで辛い事があれば思ふ事もあるだらうし、仕方がない。しかし、小説にして出版するのは何うだらう。</dd>
	<dd><em>子供がその小説を讀んだら、何う思ひますか。</em>親が自分を殺さうと思つてゐた、と云ふ事を、知りたがる子供がゐますか。「片端である」事がその理由だと言はれた子供には、立場がありますか。作家には、道義的に書いてはならない事がある。</dd>
	<dd>そして、その書いてはならない事を書きながら(「個人的な体験」)、善人面をして、ノーベル賞を貰つたのが大江健三郎である</dd>
</dl>
</blockquote>
<p>それを言ってしまったら、高橋氏が誤読した<q>人間らしさ</q>となんらかわりのないものになってしまう。私は大江氏の小説を認めないが、初期諸作品（『芽むしり仔撃ち』、『万延元年のフットボール』等）に表れていた大江氏の不気味な感性は否定できない。なぜなら、子どもが<q>片端</q>だから<q>殺し</q>たいということを書くのは、<em>ある意味</em><q>道徳</q>的であるからだ。例えば、生まれてきた子どもが<q>片端</q>でもそこにわけのわからぬ官能を求めたり、美しいと形容することは不可能ではないにしても、野嵜氏が指摘しているように、所詮<q>嘘</q>なのであり、それならば人間が思うであろう本当の感情（<q>人間らしさ</q>）を描き出すというのが小説家の宿命であるのだから、それを<em>書かざるを得ない</em>ということになるのである。そして、大江氏が不気味であるのは、野嵜氏も指摘しているように、そんなことを書いているにも関わらず、<q>善人面</q>している点で、（ここからは評価がわかれても仕方がないと思うが）私はそこに大江氏の特殊を認める。つまり、後の島田雅彦氏が演じてきたような、偽者、偽善者としての自分の滑稽を身をもって示し続けるという、背理法的な「誠実さ」が表れるのである。例えば島田氏は、『彼岸先生』において、いかがわしい己を曝け出したが、それは現代、いかがわしい中でしか誠実になりえないという洞察からであり、よって島田氏は「そうである自分という人間」を誠実に描き出したと言えるのである。だから、島田氏ほど「誠実」な作家はいないと私は度々言っているのだが、あまり理解されないのは、世俗的な意味合いの「誠実さ」からは理解できないからだろう。</p>
<p>というか、まともな作家（これは作家にとっては悪口に相当する）ならば、<q>片端の子供を殺してやりたい</q>とは書かない。そして、ちょっと優れた作家は、書く。書いて、<q>善人面</q>はせず、書いた罪を被ろうとする。しかし、それは甘えであって、後期自然主義作家達がやった「甘え」、すなわち、文学至上主義による「甘え」に変わらないものである。そういう紋切り型の態度をとらなかったという才能の面でも大江氏は評価できる。ただし、中期・後期作品の酷さは目に余る。</p>


<h3>2004/01/10(Sat)</h3>
<h4>眼鏡と携帯</h4>
<p><img src="http://www.poesia.jp/images/megane.jpg" alt="新しい眼鏡" class="illust"></p>
<p>僕は普段コンタクトなのだけれど、このたび帰郷した際、眼鏡を新たに買いまして、それが今日届きました。レンズにちょっとだけ色をいれたので、これだけ日数がかかりましたが、中々お気に入りです。</p>
<p>ちなみに、なくしていた携帯を発見しましたので、溜まっているメールを処理したいのですが、ちょっと怖ろしいほど数がありますし、何回も同じことをして「またか」と思われかねないので、どうしようかと思案中です。</p>


<h3>2004/01/10(Sat)</h3>
<h4>身の丈</h4>
<p>いきなりポストモダンの哲学を読み始める人が後をたたない。そして、いざ話合うという段になると、またしても「デリダは〜」というのを枕詞にして、語り始める。私は大概、そういう時は半笑いで、嘲笑とも哄笑とも似つかぬ風に口を歪める。彼らにとって、ポストモダンという思想なり哲学なりが、いかに被服として似つかわしくないことか。私は哀れみとおかしみと、一種の諦めを覚えるのである。被服というのは、ただの喩えであるだけでなく、その本質として極めて重要であると考えるべきだ。なぜなら、自分が生きていく中で、それをどのような形で受け入れ、処理し、実行するのかという生き方の本質が、すなわち思想であるはずだからである。つまり、観念なき生活は堕落し、生活なき観念は役立たずであって、観念と生活は表裏一体、密接不可分のものであると考えるのである。であれば、己が取り入れ思考した思想を、どのように受け取り、それによってどのように生きていくべきかを考えぬものは、思想そのものはおいておくにしても、そもそもお話にならないのである。たとえば、小学生に天体望遠鏡を買ってあげたとする。子どもは一生懸命使い方を学ぶであろう。ここにも一つの思想があるのであって、子どもは夜空を眺めたいという欲求があり――賢い子どもならなぜ見たいのかも考えるだろうが――それゆえ使い方をマスターしようと懸命になるわけである。つまり、目標への到達には、思考と行為が一緒になってはじめて成しえるものなのである。それは決して頭でっかちなものではなく、身の丈にあったものでなければ、ただの役立たずになる。子どもが小さすぎれば天体望遠鏡はゴミになるし、そもそも夜空を眺めたいという欲求も起こりえないものだ。</p>
<p>ポストモダンを語るのは結構であるし、有意義なこともあろうが、それによって自分はどのように生きているのかということを考えぬようなら、語る本人も、あるいは費やされた言葉も、役立たずの産物に過ぎなくなる。頭ばかり逞しくし服が入らぬ様は、ただ滑稽なだけである。</p>


<h3>2004/01/09(Fri)</h3>
<h4>用語法</h4>
<blockquote cite="http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/omake/diary.html" title="闇黒日記">
<dl>
	<dt>平成十六年一月七日</dt>
	<dd>しかし、俺の用語がそんなに特殊なものであるとは思はない。「人間らしい」を「ヒューマニズム的な」とか「日本国憲法で示された基本的人權の思想に則つた」だとか、さう云ふ風に解釋する事こそ特殊だらう。 </dd>
	<dd>例へば、「『ファインディング・ニモ』で魚が話をするのは、魚らしくないからをかしい」と言つた時、誰も「魚らしい」と云ふ概念に疑問を抱かない。なのに、「大岡が『俘虜記』で主人公は『美』を理由に敵兵を撃つまいとしたと書いてゐるのは、人間らしくないからをかしい」と言つても、高橋は<q>言うに事欠いて</q>云々と嘲笑し始める。</dd>
</dl>
</blockquote>
<p>野嵜氏はきちんと自分の言葉の定義を解説していたから私は読み取れたが、それでも<q>人間らしい</q>というのはおかしいということを、私は<cite>2004/01/05(Mon)「道徳と正字正かなと政治――道徳」</cite>で説明した。だから、できれば「人間の<em>生き方</em>として」等というふうに言ったほうがより正確で伝わりやすいと思う。</p>
<p>で、野嵜氏の比喩はおかしい。<q>魚が話をする</q>のは<q>魚らしくない</q>が、それは<q>魚</q>が生物学的に言って言語を話すことができないというレベルの話で、それと大岡の人間の生き方を見誤った文章、つまり精神のレベルの話と等価にはできない。できないから、<q>なのに</q>という接続の言葉で繋ぐことは出来ない。</p>


<h3>2004/01/09(Fri)</h3>
<h4>相対的</h4>
<p>「相対的なHTML」「相対的な正字正かな」「相対的な正義」「相対的な真実」「相対的な絶対」……</p>
<p>レトリックとしての矛盾法ならいざしらず、これを<em>真実</em>だと思っているのだったらあきれる。「相対的な自分」で「相対的な意見」を述べればその意見は絶対のものらしい。一生「相対的な自分」の中に閉じこもっていろ馬鹿。</p>


<h3>2004/01/09(Fri)</h3>
<h4>あ</h4>
<p>バイトの皆に渡すつもりだった北海道のお土産、渡し忘れてた。どうしようかなー。もぐもぐ。</p>


<h3>2004/01/09(Fri)</h3>
<h4>負けない</h4>
<p>部屋が寒い。でも暖房いれない。電気代がかさむから。</p>
<p>けいたんまけない。けいたん強い子だから。</p>
<p>そして誰も慰めてくれない。でもけいたんはまけない。けいたん、強い子。</p>
<p>お前ら、もうちょっと俺をいたわれコンチクショウ。</p>


<h3>2004/01/08(Thu)</h3>
<h4>引用</h4>
<p>議論をしていてつくづく感ずることがある。人の言っていることを全然理解しない/できない人は論外として、わかっているにも関わらず、読者なり視聴者なりに、相手論者の言い分を歪めて自分の言葉に言い直す人が後をたたない。これは卑劣なやり口である。私は引用という手法を、この文脈において重視している。なぜといって、たとえ私が相手の言い分をそのまままとめたにしろ、それが不充分かつ不正確なものである可能性があるからだ。そうであるならば、もっとも確かであるのは、引用して相手の言葉をそのまま載せることであるといえる。また、その次に重要であるのは、どこを引用するかである。これは確かに中々難しい作業である。山本七平氏の『小林秀雄の流儀』(新潮文庫)からの孫引きだが、</p>
<blockquote title="『小林秀雄の流儀』(新潮文庫)">
<p>この稿を書いてゐる時、読売紙上で大宅壮一氏が「近頃原稿料をかせぐ為に引用文沢山にしたドストエフスキイの註釈を数十頁にわたつて雑誌に発表してゐる滑稽な批評家がゐる」と書いてゐるのを読んだ。そんな批評家は近頃一人他にゐないから君は僕の事を言つてゐると認める。では機会があつたら僕のこれ迄に発表したドストエフスキイのノオトが何故に滑稽であるか堂々と書いてくれ給へ。その時に僕は原稿料をかせぐ為に文章を一行も引き延さなかつた処を君に明示しよう</p>
</blockquote>
<p>と小林が書いていたそうだが、小林の引用は批評する相手との距離を縮める、鼻と鼻がぶつかるほどの距離に身を置くために、相手の言葉を引用しているように思われるから、一つの言葉に対して、相手がいかなる言葉を費やしているかも重要になり、その分引用する文章は多くなったと私は考えるが、要するに、言葉一つをとってもそれを修飾したり補ったりすることが大事で、それによって文章が成り立っているならば、引用者が勝手に都合よくまとめるのは甚だ不誠実な態度であるということになる。私がしつこく引用することが大事だと言っていたのは、正確に相手の言い分を明示するためということと、どこをどれだけ引用するかで、引用者がその文章をどこまで理解できているかも知ることができるからである。引用漏れがあれば、引用者がそこを大事とは思っていず、正確な批評が成しえていないということが明らかになるのだ。</p>


<h3>2004/01/08(Thu)</h3>
<h4>たしか</h4>
<p>中学の時に書いたレポートを出版だかなんだかしたいと先生が言っていたが、どうなったんだろう。あんなものを公に見せること自体、俺は当たり前だが学校にとっても恥ずかしいことだと思うのだが。</p>


<h3>2004/01/08(Thu)</h3>
<h4>ユーザースタイルシート2</h4>
<p><a href="http://www.poesia.jp/css/user.css">7th style α</a>を公開。h1要素が二つ以上あったりdiv要素が多用されていたら醜くなる。target属性とかそういうレガシーなマークアップのことは無視。一般に標準準拠と云われるサイトが、ISO-HTMLの基準でいえばだめなマークアップをしていることがわかってしまう。</p>
<p>……という意図があるのだが、上手くいっているのかどうか。</p>


<h3>2004/01/08(Thu)</h3>
<h4>あれ</h4>
<p><a href="http://members.jcom.home.ne.jp/ksmiracle/Computer/ISOHTML.html">dnoz</a>にリンクしてくださったのですが、私の批判には気づいていらっしゃらないらしい。</p>


<h3>2004/01/08(Thu)</h3>
<h4>宣伝</h4>
<p>下の文章は詭弁である。「私の場合」を語っていたにも関わらず、いつのまにか一般論になっている点がおかしい。こういうのを「説明になっていない」というのである。詳細は<a href="http://www.poesia.jp/weblogs/explain.html">説明とは何か</a>を参照してください（宣伝）。</p>


<h3>2004/01/08(Thu)</h3>
<h4>時は音楽と流れる</h4>
<p>昔聞いていた音楽を今になって聞くと、その時の情景が鮮やかに蘇るという経験は誰しもすることで、それをもって何かを言う気はないが、私の場合、その時の情景なんぞどうでもよく、その時何をどのように思っていたかが重要で、ゆえに正確な景色を思い浮かべることは少ないのだ。私の場合は、一旦抽象化され、後々具体化された風景に置きかわっている。これは別にそうしようと思ってなったわけではない。勿論記憶力がなく頭の問題が多々あるのは認めるにしても、多分、現実にそうであったことよりも、自分の中で現実をいかに処理したかということの方が、重要になっているからではないかと思う。しかもその処理は、当然音楽と無関係であるはずがなく、音楽の諸要素と出来事の諸要素が複雑に絡み合いながら一つの風景を作り上げている、そういう類のものだ。だから、私にとっての音楽は、記憶の復活の起爆剤ではなく、音楽が鳴った途端記憶もズルズルと、まるで海亀が巣から無理やり出されるような、体験と一緒くたにされたものであり、つまりは人生の片一方にベッタリとくっついている影のような存在なのである。</p>
<p>簡単な話である。音楽も表現であるからだ。我々が普段使う言葉は、常につきまとっているがゆえに無意識的で、記憶も言葉によって語られることが多いのであるが、記憶を語る、あるいは呼び起こす手段として、言葉を音楽に置き換えられても不思議なことはない。そこにある違いは、音楽は他者との互換を保てぬ内的価値にとどまるという違いだけである。これは動かしがたいものであり、その人の生き方、スタイルに直接影響を与えるであろう事は想像に難くない。なぜといって、自らが体験したものを糧に人は未来を創造する存在であり、その点においてそれがいかなる形で内に保存されているかは、生き方を定める一要素になりうるからだ。</p>
<p>だから、人生においてその時限りの体験をする時、下らない音楽を聴くことが、いかに自分の人生を駄目にしていることか、それを想像すれば、自ずと人は良質な音楽を追い求めるようになるだろう。</p>


<h3>2004/01/08(Thu)</h3>
<h4>キャラ</h4>
<blockquote cite="http://www.yayuyo-box.com/i/kinoko/k5.htm" title="しめじ">
<p>性格… 活動的で柔軟性があり、どこにでもなじむ。多才で軽やかなのでいつも新鮮なイメージ器用で雄弁なのでモテる。</p>
<p>相性の良いきのこ… マッシュルーム・まつたけ</p>
<p>適職… 冒険家・ホスト（ホステス）・セールス</p>
</blockquote>
<p><a href="http://www.yayuyo-box.com/i/kinoko/uranai.htm">きのこ占い</a>なわけだが、色占いと同じような結果に。以下略。</p>


<h3>2004/01/07(Wed)</h3>
<h4>書くこと</h4>
<p>今NHKでやっていた「わたしはあきらめない」が、僕にとっては既出のことだったけれど、よかった。今日の出演者は<a href="http://www.nhk.or.jp/akiramenai/list/back_2003/list_20031.html">柳美里</a>だった。僕は柳美里の才能は凄いと思っている。痛いところに指を突っ込んで掻き回すような書き方は、必然、なぜ書かなければならないのか、ということを問わざるを得ない。しかしその答えは決して出ない、あるとしたら書くという宿命があるからだということしかない、そういう救いのなさを逃げずに書こうとする柳美里は凄いのである。</p>


<h3>2004/01/07(Wed)</h3>
<h4>凝縮書棚</h4>
<p><img src="http://www.poesia.jp/images/syodana.jpg" alt="実家にある本の中から厳選して持ってきた本の数々" class="illust"></p>
<p>一昨年、北海道から東京に来るにあたって、中途半端な量ではない本を厳選し、泣く泣く実家に残してきた本が多数あるが、それだけ選んでも一つの書棚に収めるには及ばなかったのである。できるだけハードカバーの本を避け、文庫本を多くしたのだが、それでも駄目だった。元々僕はハードカバーが好きで、好きというより本好きなら文庫本を買って喜ぶなといった調子だから、それだけかさばるし、しかし文庫がないかといえばそうではなく、絶版のものも多数持っていて、いずれにしろ収まる兆しがとんと見えぬのは道理ということらしい。そもそも、本を買うという行為は、本を手元に置いておきたいからで、そうでなければ図書館から借りた方が効率的で合理的である。そうしないのは、いつでも読むことが出来る体勢を作っておきたいからに他ならない。僕がまだ北海道にいたころ、書斎をテーマにした雑誌がいくつかあって、今もまだあるかは知らないが、そういう雑誌には決まって「男の癒しの空間」というような文言が用いられていたが、書斎は持ちたくて持つものではあるまい。人生の大半を知的作業に費やす人にとって、書斎とは仕事場であると同時に思索の場でもあり、思索は一人で行うことが多いから、「癒し」なんてのはとんでもない、常に「孤独」の場所として宿命づけられていると言える。だからこそ書斎の活用法に世の作家たちは悩み、そして工夫しているのである。</p>
<p>本は無慈悲に増えてゆく。書棚の限界要領なんぞ気にしてはくれない。僕の書棚も、そろそろ限界に近い。あれだけ厳選に厳選を重ねたにも関わらず、である。こうなっては凝縮された知の営みといった格好つけの言葉は見合わない。せいぜい物置といったところで、物質的な寂しさの上に「孤独」が覆い被さっているのだから、いよいよ心は荒廃の極みを見せ始めているのだった。</p>


<h3>2004/01/07(Wed)</h3>
<h4>長所</h4>
<p><a href="http://www.parkcity.ne.jp/~chaichan/chai/essay03.htm">人のよいところをどんどん見つよう</a>という運動がある。これ、昔の私なら参加していたと思う。人間他人の短所ばかり見るものだから、長所を必死になって探そうとするのは正しい。正しいが、それに気をつけているうちに、良いところばかりに思えてだんだん自分を見失ってゆく。つまり、よく考えれば反対であるはずが、長所を見なければならないというのが至上命令となり、短所を長所と見てしまうのである。勿論これは誤解が原因だからこの運動の方針が間違っているわけではないが、こういうことは結構誰でも体験しているのではないか。</p>
<p>なんと言うか良いことを良いというのは難しいというあまり意味のない文章になってしまいました。</p>


<h3>2004/01/07(Wed)</h3>
<h4>そもそも</h4>
<p>簡便なものだから正しいわけではない。ハイパーリンクは確かに簡便かつ合理的な手法だが、一方で逐次的に文章を読み理解を深めるという可能性を封じている。そもそもWWWとは保守的手法から遠く離れたところにあると認識しなければならない。しかし私はこれを利用している。これは矛盾ではなく、私が現代かなを使っている理由と一致するものである。つまり、保守的な態度・姿勢・考え方と保守的な行為が同一でなくとも、保守的であることはできるということである。これが、「いかに表現するか」ということの意味である。</p>


<h3>2004/01/07(Wed)</h3>
<h4>WWW幻想</h4>
<p>セマンティックwebが素晴らしいとか云々とか、信じられない。そもそもwebだって一つの媒体に過ぎないじゃないか。重要なのはいかに表現するかであり、何で表現するかではない。</p>


<h3>2004/01/07(Wed)</h3>
<h4>更新</h4>
<p><a href="http://www.poesia.jp/weblogs/explain.html">説明とは何か</a>をアップ。途中英語の解説があるが、信用してはいけない。解釈が間違っていれば誰か教えてください。</p>


<h3>2004/01/07(Wed)</h3>
<h4>あった</h4>
<blockquote title="伊藤整著『女性に関する十二章』「第一章 結婚と幸福」"><p>本当を言うと、これは怖ろしい事であり、アジケナイことです。</p>
<p>（中略）</p>
<p>たとえば某先生よりはオレの方が身モチがたしかだ……</p>
</blockquote>

<h3>2004/01/06(Tue)</h3>
<h4>デー</h4>
<p>ある意味闇黒デーになっている。いや、お世辞とか戦術とかは抜きにして（というかそんなものはあるのか）、野嵜氏には（私が勝手に）教わったことが多々あるし、尊敬しているから、真面目に誠実に議論したいだけです。野嵜氏は気づいていらっしゃらないようだけれど。あと全然関係のない話で、漢字をわざわざカタカナにするのは、確か伊藤整がはじめにやった手法だった気がする。記憶が曖昧で断言はできないのですが。</p>


<h3>2004/01/06(Tue)</h3>
<h4>道徳と文芸</h4>
<p>野嵜氏の道徳と文学に対する考え方には大体賛成なのだが、そうすると川端の問題が出てくる。川端は、道徳というものに対して無頓着だった。なぜなら生に対して無頓着だったからである。そういう人間とも思われぬ不気味な作家の代物であるが、それゆれ作品には凄みがあるのである。野嵜氏の紋切り型を批判する紋切り型ではないが、不道徳の作品も道徳的な作品も、川端を知ってしまえばいずれも紋切り型に見えてしまう。だが、その境地というか「魔界」に住まう者など、そうそう現れるはずもないし、それゆえ川端は天才なのである。天才の所業は一般的なものと見なすことはできない。その前提で私なりに高橋氏を批判すると、不道徳というよりも非道徳的な作品はあるし優れたものもあるが、優れた才能がなければ駄作に転じてしまうのである。ならば、人間の真の営為を描ききる道徳的な作品の方がよほど優れていると言えるのである。</p>


<h3>2004/01/06(Tue)</h3>
<h4>相対的な正義</h4>
<p><q cite="http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/omake/diary.html">反米でも親米でも勝手に言へば良いが、所詮相對的な正義に過ぎない。</q></p>
<p>これでわかるのは、野嵜氏が西部氏の反米論を何もわかっていないということと、わかろうともしていないということである。親米は明らかに政治的意図の上に構築された論理だが、反米は違う。単にレッテルの貼り合いとしか見ていないからそのような間違った見方になるのだ。そもそも、<q>相對的な正義</q>という言葉がおかしいのであって、<em>正しい</em>道理に相対的なものなんかあるはずがない。所詮、野嵜氏も徳保氏と同じ相対主義者で高見から嘲笑っている卑怯者に過ぎない。</p>


<h3>2004/01/06(Tue)</h3>
<h4>保守派とは何か</h4>
<blockquote cite="http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/omake/diary.html" title="闇黒日記">
<dl>
	<dt>平成十六年一月一日</dt>
	<dd>高橋の例(と言ふか、例の高橋)を見ても分る通り、現代の日本人の「保守したいもの」は訣がわからないのであつて、のみならず、「保守したいものがあるから保守主義」なる定義、右翼の別稱、自民党支持者の事、共産党支持者の反對者に貼りつけるレッテル、英國の保守派との自己同一視に基く自稱その他のありとある「保守派」が日本では通用してゐる。 </dd>
</dl>
</blockquote>
<p>私は、正統的な思考をもって<q>保守したいもの</q>を見つけるべきで、保守的あるいは保守主義というのはそこからしか出発せぬと書いている。だから当然、<q>国民の生命・財産</q>とか<q>現状</q>というのを「保守」することが「保守主義」だと言って憚らない徳保氏や高橋氏を批判している。あの徳保氏との変な論争において私が主張した命題をあっさり言えば、イギリス保守主義のような正統性（キリスト教）を日本人が持ちうるはずはないが、正統的な日本の精神は存在しているのであって、例えば少し前の日本人の多くが正字正かなを使うという精神をもっていたというようなことからも明らかで、そういう<em>スタンスあるいはスタイルの持ち方</em>としてイギリス保守主義を見習うべきであるということである。だから、野嵜氏が乱暴にまとめているような<q>英國の保守派との自己同一視</q>になるはずがない。あえて怒ってみれば、野嵜氏は相手を貶めるために微妙な（しかし重要な）言葉の数々を削ぎ落とし、明らかに間違いであることをことを強調してみせる手法を使うが、それは意地悪ではなくただ悪質なだけなのである。悪質な言論は<q>讀むに値しない。</q></p>


<h3>2004/01/06(Tue)</h3>
<h4>というか</h4>
<p>野嵜氏は反米派と呼ばれる方々の本や親米派と呼ばれる方々の本を、きちんと何冊か読んでいるのだろうか。私は西尾氏の著作の大部分を読んでいるけれど、それでも同意できない点があって批判するが、野嵜氏は西部氏の著作をどれだけ読んで批判しているのだろうか。まあ私も、さきほど断りを入れたとおり、松原氏の著作はあれほどしか読んでいないので、もし野嵜氏が読んでいなくても責めることはできないのだけれど。</p>


<h3>2004/01/06(Tue)</h3>
<h4>補足説明</h4>
<p>野嵜氏がメモしているものに補足。</p>
<blockquote cite="http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/omake/diary.html" title="闇黒日記">
<dl>
	<dt>平成十六年一月一日</dt>
	<dd>「反米保守」の連中も「親米保守」の連中も、アメリカ人の行動原理について深く考察した事がない。</dd>
	<dd>ハンチントンに據れば、「アメリカの戰爭は常に十字軍である」さうである。</dd>
</dl>
</blockquote>
<p>ハンチントンの説をもって<q>深く考察した事</q>になるならば、とうの昔に言われている。佐伯啓思氏の『「アメリカニズム」の終焉』や対談本『国家と戦争』でも福田和也氏がマーク・トゥーエンを引き合いにしてアングロサクソンの行動原理について考察している。</p>


<h3>2004/01/06(Tue)</h3>
<h4>もえたん</h4>
<p><img src="http://www.poesia.jp/images/moetan.jpg" alt="萌える英単語" class="illust"></p>
<p>友達がもえたんを買ったそうです。<ins>しかもアマゾンで。お前、ネット中（以下略）</ins>友達づきあいを正月早々考えさせられました。</p>


<h3>2004/01/05(Mon)</h3>
<h4>罵倒</h4>
<blockquote cite="http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/omake/diary.html" title="闇黒日記">
<dl>
	<dt>平成十六年一月五日</dt>
	<dd>林氏は、「共産主義者」であつた過去の自分について、辯解する事もなく、隱し立てしようとする事もなく、一定の評價を與へて現在の自身と折り合ひを附けてゐる。かつての著作の文章を見れば共産主義者であつたのが間違ひない處なのに、その邊の事については何も言はず、しかし今もつて全く考へを改めてゐない事も明かであるが、にもかかはらず平然と保守派の親玉に納まつてゐる猪木正道や、全共鬪時代の事を言はれると怒り出す西部邁に比べると、林氏は信用出來る。</dd>
</dl>
</blockquote>
<p>人には松原氏の本を読めと言うわりに、自分は読まないで罵倒するだけですか。西部氏はしつこいほど自らの<q>全共鬪時代の事</q>を書いているし言いもしている。『生まじめな戯れ』『幻像の保守へ』『六十年安保――センチメンタル・ジャーニー』『人間論』『死生論』等々で読むことが出来る。そこで、西部氏は自らが犯した過ちの責任をいかにしてとったか、そして、それでもいくばくかの良い体験もできたと素直に書いている。それを読みもせずに道徳的責任云々を言って怒鳴られたって当たり前ではないか。</p>


<h3>2004/01/05(Mon)</h3>
<h4>親米派の誤読</h4>
<p>西部氏が、反米的な行動をとれと言ったことはない。イラク派兵にしても昔の湾岸戦争にしても、自衛隊には行ってもらう他ないと言っている。それは政治のパワーバランスの問題も当然あるが、同盟国だ友人だと言っているわりに血だけは流さないというおそろしい人間たちを軽蔑する道徳観があったからだ。そういう人間たちがルールを云々してもしようがないと。つまり反米的な態度と親米的な態度はある程度平衡できるものだと言っているのである。だから、野嵜氏が状況を見てイラク派兵に反対しないという立場(<cite><a href="http://www8.plala.or.jp/cgi-bin/wforum/wforum.cgi/Kusimitama/bbs?no=6332&amp;reno=6330&amp;oya=6325&amp;mode=msg_view">奇魂掲示板</a></cite>)と、なんら変わりはないのである。</p>
<p>複雑な論争をあえてあっさりと言ってしまえば、西部氏が言っていることは道徳に関することであり、精神のことであり、観念のことであり、それゆえ政治的にいかなることになるかということ自体下らないということになるのである。だから、</p>
<blockquote cite="http://www8.plala.or.jp/cgi-bin/wforum/wforum.cgi/Kusimitama/bbs?no=6313&amp;reno=6306&amp;oya=6306&amp;mode=msg_view" title="奇魂掲示板">
<p>「親米」の場合、いざとなつたらアメリカから離れれば良い。最初からアメリカを切捨てる「反米」の場合、二つある可能性の一方を豫め切捨ててしまふ事になる。そのやうな「冒險」を日本はすべきでない。</p>
</blockquote>
<p>という野嵜氏の発言は間違いなのであり、反米的な観念をもちつつ親米的な政治的選択ができうるであろうという態度を、二者択一の愚によって看過してしまっているのである。</p>


<h3>2004/01/05(Mon)</h3>
<h4>道徳と正字正かなと政治</h4>
<blockquote cite="http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/omake/diary.html" title="闇黒日記">
<dl>
	<dt>平成十六年一月一日</dt>
	<dd>加納氏が通さうとしてゐる「筋」は間違つてゐるし、最初から筋を通さうとしてゐない徳保氏の文章は讀むに値しない。</dd>
	<dd>日本に守るべき傳統も正統なるものもあるかこん畜生。</dd>
</dl>
</blockquote>
<p><q>日本に守るべき傳統も正統なるものもあるか</q>で説明したつもりだろうか。説明になっていない。なっていないから、以下私が述べるように読解されてもおかしくない。</p>
<p><q>日本に守るべき傳統も正統なるものも</q>ないから、保守主義なんぞ存在しない。しかし俺は道徳を守ることは正しいと主張する。だがその道徳は<q>傳統</q>から生まれたものではない。</p>
<p>言葉が悪いから反発されやすくなるが、あえて言うならば、これは馬鹿げている。道徳だろうが正字正かなだろうが政治だろうが、歴史や伝統に繋がっていないものなんぞありはしない。</p>
<h5>道徳</h5><p>野嵜氏は<q>人間らしさ</q>というが、ではその「人間」とはいかなる存在であるか。松原氏は書いている。</p>
<blockquote title="松原正著『文學と政治主義』「第一章 大岡昇平と大江健三郎――政治主義の成れの果て――」(地球社)"><p>「人はただ生きてゐるだけでは充分ではない。人は善く生きなければならない」とソクラテスは言つた。「善く生きる」とはどういふ事かについて意見の對立はあるが、「人はただ生きてゐるだけでは充分ではない」といふ事に異論を唱へる者はゐまい。生命維持装置とやらの世話になつて、所謂「植物人間」として生き續ける事を我々は決して望まない。それは詰り、我々は皆、生甲斐を感じて生きる事を望んで、ただ生き續ける事を望むのではないといふ事である。</p>
</blockquote>
<p>まったくその通りで、それゆえ<q>人間らしさ</q>なんてものはありはしない。そんな奇怪でおそろしいものは存在しない。せいぜい、人間らしく息をするということのみ当てはまる。重要であるのは、<q>人間らしく</q>生きることではなく、いかに生きるかということである。いかに生きるか、すなわち生き方の問題であって、人類普遍の生き方というのは存在しないから、各国の歴史感覚、伝統に支えられた道徳が重要になるのである。</p>
<h5>正字正かな</h5>
<p>私は正字正かなが正しいと過去に書いた。それゆえ、保守的な人間は正字正かなを支持するのが正統である。しかし、松原氏や野嵜氏のように、<q>正假名遣を使はないで「正統」の思想を語る日本人を</q><q>信用しない</q>とはならない。一見論理的に見えるこの主張は、かなりの飛躍がある。なぜなら、正仮名遣いの正統性をわかっていることと、それを現実に書くこととは高い蓋然性で結ばれてはいるものの、正仮名遣いであるから保守的な生き方や考え方をしているとはならないからだ。野嵜氏も度々主張しているように、正仮名遣いでも碌でもないことを書く人もいるし、現代仮名遣いで立派なことを書く人もいる。またその逆も然りである。そうであるならば、保守的な人間が正字正かなを使わなければならない、という道理はない。私の場合、なぜ現代かなを使っているかと言えば、色々理由があり、まず一つ目に読みやすくするためであり、二つ目に潔癖症だから、変換できない文字があることに納得がいかないことで（<q>潔癖症は辛いわよ</q>）、そして何よりもの理由は、「現代かなを使うという過てる精神がゾンビのようにはりついている」ことを意識するためである。</p>
<h5>政治</h5>
<p>松原氏も野嵜氏も、政治学の基本をしらないわけではないだろうから、端的に表現すると、政治とは何も<q>減税</q>や<q>週休二日制</q>や<q>憲法の改正</q>や<q>北方領土が返還される</q>(<cite>『文學と政治主義』</cite>)ことのみを意味しない。異なる二者或いは多数の利害関係を調整することである。そうであるならば、そこに人間の精神が登場しないわけはない。つまり政治とは双方の精神の拠り所である伝統や主張の正当性を模索し、妥協点を探ることであるから、一概に道徳と政治を切り離せとはならないのである。当たり前の話だが、道徳なき政治に国民は納得しないし、政治家は言葉の技術（実に下らないと思うが）として道徳らしき言葉を吐くのである。もっとも、キリストの言は簡単に否定できない。なぜなら政治家の権力作用をただのパワーバランスと見なす向きが大きく、それゆえ道徳が単なる弁舌のための道具に過ぎなくなっているからだ。</p>
<h5>まとめ</h5>
<p>以上述べたように、人の生き方には伝統による精神の模索が必要不可欠であり、そう考えるのが保守的な生き方ならば、<q>日本に守るべき傳統</q>があると考えるべきなのである。</p>


<h3>2004/01/05(Mon)</h3>
<h4>引用と紋切り型とおかしい事と呼び捨て</h4>
<blockquote cite="http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/omake/diary.html" title="闇黒日記">
<dl>
	<dt>平成十六年一月一日</dt>
	<dd>典據を示したにもかかはらず、<q>引用もせず</q>云々と罵倒して呉れてゐる。<q>よくもまあしゃあしゃあとこんなことが云えたものだ</q>、と、紋切型の罵倒をしてゐるが、良く平氣で書けるものだ。</dd>
	<dd>と言ふか、西部の主張がをかしい事に、加納氏は氣附いてゐないのだらうか。ゐないのだらう。</dd>
</dl>
</blockquote>
<p><q>典據を示した</q>ことによって、どれだけの人が西部氏や田久保氏の主張を知ることが出来るというのか。しかも、野嵜氏は西部氏を批判している、それは結構にしても、ではどの箇所が間違っているのかを明示するのが批判者の誠実さというものではないか。現に、（今手元に『諸君!』がないから不明確だが）西部氏は<q>「テロ」と云ふ用語の定義</q>をきちんと答えていた（田久保氏が西部氏に定義を迫った数行後）。答えていたにも関わらず、野嵜氏は引用をしなかったから、読者の判断は一方的なものになりやすくなる。少なくとも、西部氏と田久保氏の両主張を、野嵜氏がまとめ、それに批判を与えるという作業が必要であるはずだ。</p>
<p>それと、話は紋切り型にうつって、野嵜氏は紋切り型の効用（というのも変な言い方だが）に、一方的な解釈しか与えていないように思われる。確かに、紋切り型というのは、表現の効果を下げる。しかし、ある場合においては、それを意図的に多用することによって、思わぬ効果を発揮するものだ。例えば、その文章はごく当たり前のことを主張している、というのを暗に伝えるために、私の場合は使った。まあ全然効果が発揮できていないのは、私の文章が悪いだけなんでしょうが。</p>
<p>それと、野嵜氏が仰る<q>西部の主張がをかしい事</q>とは一体どこのことですか。私は西部氏の論を「正しい」と思っているから、西部氏擁護をしているのである。だから、<q>氣附いてゐ</q>るとか<q>ゐない</q>ということ自体ナンセンスなのであり、野嵜氏が<q>をかしい</q>と思うならばどこがどのように<q>をかしい</q>のかを説明すべきなのである。そうしないのは野嵜氏が西部氏の主張を<q>をかしい事</q>とただ<q>レツテル貼り</q>したいだけではないのですか。</p>
<p>最後に。野嵜氏の主張と西部氏の主張が相成れないものだとしても、西部氏を呼び捨てにしたりするほど野嵜氏は偉いのですか。私は野嵜氏の師匠である松原正氏と意見が違うが、それでも決して呼び捨てになどできない。松原氏は誠実に研究し、発表しているお方だとお見受けする。野嵜氏の諸コンテンツと『文學と政治主義』しか読んだことのない私が判断を下すのは不勉強ゆえの不誠実で不正確なものかもしれぬが、その限りにおいてはやはりさすがの御仁だというのが正直な感想である。そもそも私のような本の読んでいる数もたかが知れている餓鬼で経験もあまり多くない人間よりも、松原氏の方が数段素晴らしいし、比べることすら躊躇われるが、だからこそ呼び捨てになんぞできないのだ。野嵜氏が尊敬する福田恆存は、保守主義者ではなくとも<q title="「私の保守主義観」">生き方ないし考へ方の根本は保守的</q>だったから、当然礼節を重んじたはずである。野嵜氏は如何であろうか。</p>


<h3>2004/01/05(Mon)</h3>
<h4>芸術</h4>
<blockquote cite="http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/omake/diary.html" title="闇黒日記">
<dl>
	<dt>平成十六年一月一日</dt>
	<dd>加納氏は、善し惡しと美醜とを混同してゐる。</dd>
	<dd>善し惡しと言つたら道徳的な善し惡しの事で、美醜とは關係がない。</dd>
	<dd>それから、言つておくが、藝術作品は全て、道徳的な見地から善し惡しを判定されなければならない。藝術作品には、善い惡いがある。</dd>
</dl>
</blockquote>
<p>おかしなことを云わないでいただきたい。私は道徳的な<q>善し惡し</q>を云っている野嵜氏を批判していない。私は芸術を一側面的な見方のみで「<em>良</em>し悪し」と云う野嵜氏を批判している。</p>


<h3>2004/01/03(Sat)</h3>
<h4>あー</h4>
<p>野嵜氏が反応してくださっていますが、今は大幅な更新ができないので、五日以降に書きます。それと、全然関係ありませんが、闇黒日記って本当に携帯でも読めるんですね。</p>


<h3>2004/01/03(Sat)</h3>
<h4>携帯年賀</h4>
<p>あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。</p>

<h2>この文書について</h2>
<dl>
	<dt>初版</dt>
	<dd>2004-01-01</dd>
	<dt>最終更新</dt>
	<dd>2004-01-31</dd>
	<dt>著者</dt>
	<dd><a href="mailto:%77%65%62%6D%61%73%74%65%72%40%70%6F%65%73%69%61%2E%6A%70">加納　景</a></dd>
</dl>
</body>

</html>
