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	<meta http-equiv="content-type" content="text/html; charset=shift_jis">
	<meta name="author" content="加納　景">
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	<title>Notebook（2003年12月）</title>
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<h1>Notebook（2003年12月）</h1>
<h2>観念の遍歴</h2>

<h3>2003/12/30:大掃除</h3>
<p>ああ掃除疲れた。捨てるもの多すぎ。片付けるもの多すぎ。まだやってない場所三箇所。もうちょい頑張ります。</p>
<h3>2003/12/30:帰る</h3>
<p>明日実家に帰る。5日まで更新しません。皆さん、よいお年を。</p>
<h3>2003/12/30:codeとHTMLソース</h3>
<p>これで三度目だが、codeでHTMLのソースをマークアップすることについての言及。</p>
<p><cite><a href="http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%83R%81%5B%83h&amp;kind=jn">goo 辞書</a></cite>によれば、「コード」は<q>符号体系。特に、コンピューターのデータや命令の表現規則。</q>であるらしい。で<q>符号体系</q>では曖昧だから次を見ると、<q>コンピューターのデータ</q>とある。なるほど、それならばHTMLソースをcodeとマークアップするのも納得できなくはない。しかし、コンピュータのデータならばなんでも良いということになりかねないから、もっと厳密な定義が欲しいところだ。そして、次の<q>命令の表現規則</q>となるとまったくHTMLにはあてはまらない。HTMLはただのマーク付け言語でハイパーテキストに過ぎないから、<q>命令</q>はしない。更に、現在いかなる場面で「コード」と云うかを想像すれば、やはり「プログラム」にであるはずで、辞書の定義もどちらかといえばプログラムのような<q>命令の表現規則</q>の方に向いているのではないか。</p>
<p>以上を鑑みれば、codeでHTMLソースをマークアップを<em>しても良い</em>が、好ましいマークアップとは言い難いという結論を導き出せるはずだ。少なくとも推奨できる方法ではない。</p>
<p>そこで改善案だが、前にも言ったように、spanのclassで意味を指定し、マークアップするのが最良ではないだろうか。あとはobjectをどうにかして使うとか。問題は、プログラム全部を何で明示すればよいかということだが、これは前にあったcode関連の論争で散々云われたことだから言及しない。</p>
<h3>2003/12/29:コンテンツ作成中</h3>
<p>来年の一月くらいには完成させたいコンテンツに着手。しかし、資料が揃わず。友人に貸している何冊かの本と、実家にあるものを持ってこなければならない。実家に帰ったときに作るので、返してもらいます、友よ。</p>
<h3>2003/12/29:三周遅れのスタート</h3>
<p>いくらなんでも遅すぎるネタなんで、続きません。続かない。</p>
<h3>2003/12/29:あいさつ</h3>
<p><q cite="http://www.geocities.co.jp/Playtown-Spade/6501/">あーはじめまして。云々。</q></p>
<h3>2003/12/29:タタカイ</h3>
<dl><dt>美夏さん</dt><dd><strong>今日からリサイクルはねえって言ってんだろうが糞野郎！ワザワザゴミ箱に捨てて帰るんじゃねえ！しかも、置きっ放しにして放置するとはいい度胸じゃねえか。置いた奴前に出て来いやコラ。</strong></dd></dl><p>リサイクル放置魔と不思議レジ少女美夏さんとの戦いが、今始まった。次回、「以下省略」。</p>
<h3>2003/12/29:明日はわが身</h3>
<p>nero氏のサイト抹消は、私も人事ではないのですよ。だから、今せっせと新しいサーバを探しているんですが、XREA以上あるいは同等のものはない。</p>
<p>そこで、対応策を考えた。</p>
<ol><li>言及する相手の名を挙げない。</li><li>引用もしない。</li><li>何か云われたら「あなたのことではないですが、何か？」と返す。</li></ol><p>要するに、XREAは、言及するなら卑怯な手段をもってすべしと、そう云っているわけですか。それとも、そもそも言及すらしてはならないと云うのか。言論の自由などと云うのも躊躇われる。</p>
<h3>2003/12/28:予定</h3>
<p>誰も知りたくもない僕の予定を書く。12月31日の13時までバイトし、14時55分の飛行機で帰郷。あれやこれやとして、3日に高校の陸上部の新年会。5日に東京へ戻る。たったこれだけで、往復7万強かかる。世の中間違っている。</p>
<h3>2003/12/28:赤と黒</h3>
<blockquote>
<p><em title="原文傍点">儲けがある</em>、これこそヴェリエールでは万事を解決する重大な言葉なのだ。この言葉だけで、町民の大半が平生考えていることはいいつくされている。</p>
<p class="citation-origin"><cite>『赤と黒』スタンダール 小林正訳（新潮文庫）</cite></p>
</blockquote>
<p>だれか、<q><em>儲けがある</em></q>から、僕と代わって仕事しませんか。</p>
<h3>2003/12/28:風邪</h3>
<p>今年も最後というときに、酷い風邪を引きました。今日もほとんど一日中バイトですが、どうしようか。本当に追い詰められています。だれか代わりにシフト入ってくれませんか。くれませんか。そうですか。</p>
<h3>2003/12/28:草枕的</h3>
<p>世の中が、正しいことを正しいと素直に認めることができたら、どんなに住みやすくなることか、という考えも無きにしも非ずだが、それもそれで色々と問題が出てくるんだろう。形而上学的観念は得意とするところだが、そういうことも見落としてはいない。</p>
<h3>2003/12/26:泊まり</h3>
<p>今日はまた呑みです。なので更新しません。</p>
<h3>2003/12/25:VNI</h3>
<p>あやうくバーチャルネット云々のネタを書くところだった。名前は美夏さんでレジうちのプロ。プロとか云いながら一ヶ月に一度は誤差をだすドジっ娘。眼鏡属性はなし。たまに客と喧嘩する。以下略。</p>
<h3>2003/12/25:連想</h3>
<p>イブのの二枚目の写真、まるで金閣寺のような撮り方をしていますが、それは僕がそう撮ってくれと頼んだからですが、それはなぜかといって、池に浮かぶ金閣の方が本物で、浄土の世界にあるという考え方から、イルミネーションの本物も水の中にあるんだ、と思ったからです。</p>
<p>普通に連想しただけですが。</p>
<h3>2003/12/25:法律</h3>
<p>伝統から乖離した憲法や法律を持ち上げて、正統的な論を述べる者をそれによって封じ込めんとする御仁が多すぎる。サミュエル・ジョンソンは「愛国心はならず者の最後の砦である」と云ったけれども、これならば「法律はならず者の最後の砦である」と皮肉を飛ばしたくもなる。法律はルールだが、ルールは無形の思想が基になっているわけではない。およそ無自覚である長年の慣わし（慣習）を自覚することが伝統であるならば、法律とはすなわち伝統に基づいているものだ。なぜなら、秩序とは多くの人々が安定した生活を送ることであり、そうであるならば、長年の慣わしに従うのが一番手っ取り早く、安全であるからだ。そもそも秩序を保てぬものが慣習として残ることなどありはしない。しかし悲しいかな、戦後日本は伝統から断絶され、常に鍵括弧つきの「憲法」を、そしてそれを基にした「法律」しか準じるものがなくなった。GHQが悪いわけではない。それを進んで取り入れ、又疑うことが出来ない日本人が悪いのだ。何年も前から戦後の総決算だなんだと言っておきながら、己の精神が依拠する「法律」に一顧も与えないのは、病める精神のなせるわざである。そのような人々の吐く言葉に、誰が従い納得するものか。</p>
<p>「法律」で定められているから従うのではない。伝統に裏打ちされた法律だから従うのだ。そうでない法律に従うことは、処世術のそれは別として、片寄った支点のやじろべえになるということだ。ひょっとしたら、支点そのものがなくなっているかもしれない。いずれにしても、そんなやしろべえの片寄りは、言論の偏りであると認識すべきだろう。</p>
<h3>2003/12/25:あー。</h3>
<p>「事実=正当性」などという杜撰な論理なら、一応筋は通るのですが。</p>
<h3>2003/12/24:偽りの正義</h3>
<p>人を煽っている場合じゃないようだ。<a href="http://alt.s31.xrea.com/diary/20031224.html#p03">小人さんから小人さんへの置き手紙(2003-12-24)「告訴されるかも」</a>において、nero氏が云われなき罪を被せられている。正しいHTML文章へ導くためのリソースが、中傷にあたいするそうだ。馬鹿馬鹿しい。私は基本的にXREAに対しては感謝の気持を持っているが、それは、XREAが正しいサービスを我々ユーザーに提供してくださっているからだ。その正しさが日本一の無料ウェブサービス提供会社たらしめているのである。しかしそれが、善意に牙を向く時、それは正しさに見せかけた偽りの正義と化す。自らの落ち度を自覚せぬままサービス提供側に泣きつくその言動もいささか唖然とさせられるが、内容を殆ど顧みず一方的に処分を下そうとするほうもおかしい。正当性に論拠がおけないのであれば、XREAもルールの正当性によって処分を下すことが出来ないと考えるのが道理というものだ。正当性があるから処分を下せるのであり、その如何によってしか物事は判断できない。正当性をかなぐり捨てた正義など、単なる無体の暴力である。</p>
<h3>2003/12/24:イブ</h3>
<p><img src="http://casa.s20.xrea.com/images/xmas02.jpg" class="illust" alt="多摩センターのパルテノン大通りのイルミネーション02"></p>
<p>それにしてもなあ、アレを買い損ねるなんて、俺も随分ヤキがまわったもんだ（ぶつぶつ）</p>
<p>まあそれでも、ラストまで残ってバイトしている某女よりは幸せでしたよ。可哀想ですねー。</p>
<p>そうそう、それで、調布とかではサンタさんになってバイトに励んでいるかたが大勢いらっしゃったわけですが、彼氏彼女とのデート返上でしょうか。世の中不公平ですが、どのみちどこかで、その分取り返しているもんじゃないですか。</p>
<p>勿論、これは励ましですよ。もちろん。</p>
<h3>2003/12/24:イブ</h3>
<p><img src="http://casa.s20.xrea.com/images/xmas01.jpg" class="illust" alt="多摩センターのパルテノン大通りのイルミネーション01"></p>
<p>クリスマスイブなので、イルミネーションを見に行ってきましたよ。一応<em>一人じゃないので</em>かなり面白かったです。大道芸人のかたの芸も面白かったですよー。何回か失敗していましたが。それにしても、確かに綺麗だったんですが、夜行性の僕には明るすぎて目がチカチカしていました。階段とかも踏み外しそうに。</p>
<p>で、人間には失敗がつきものなんですが、僕もあれやこれやと失敗が重なって、実はかなり凹んでいるのですが、今日ので吹っ飛びましたね。もう俺、やりすぎです。まあ明日からまた頑張ろう。</p>
<h3>2003/12/24:ハードボイルドな文体は難しい</h3>
<p>ヘミングウェイや、日本では北方謙三氏などで有名なハードボイルドな文体は難しい。しっかりとその人の肌に合った文章でなければ読みうるものにすらならない。一時期文壇でも流行ったが、語尾を「だ」止めにしたからといってハードボイルドになるわけではない。程よい抑制と均衡がとれていなければならない。僕のようにいささか喋りすぎる男には向かない文体である。しかし、その文体は、多弁を禁じているわけではない。そういう誤解をもった、才能のない物書きの産物が、いかに無味乾燥の代物であったか、我々は知っている。ヘミングウェイはよく喋る。ただし、そのタイミングが絶妙に上手いのだ。</p>
<blockquote>
<p>われわれは立ちあがっていた。彼女は憤然とした面持で、床にのびている水鉄砲の王様のほうを眺めていた。彼は両腕を大きく広げ、両足を立てて横たわっていた。<br>「可哀想に。あの傷を負った人を助けにいってくるわ。どうしてだれも助けてあげないのかしら？手を貸してあげないのかしら？」<br>「放っておいたほうがいい」私は言った。「かかり合いにならないほうがいいよ」<br>「でも、あまりに非人間的じゃない。あたしは看護婦の訓練を受けているの。応急手当をしてくるわ」<br>「やめたほうがいいな。近寄らないほうがいい」<br>「どうしてよ？」彼女はすっかり動揺して、ヒステリックになっていた。<br>「もう死んでるからさ」私は答えた。</p>
<p class="citation-origin"><cite>「蝶々と戦車」ヘミングウェイ 高見浩訳</cite></p>
</blockquote>
<p><q>彼女はすっかり動揺して、ヒステリックになっていた。</q>という地の文が、次の<q>私</q>の言葉に重みを持たせる。己の冷静を<q>彼女</q>の<q>動揺</q>と対比させることによって浮かび上がらせている。それだけではなく、<q>放ってお</q>け、<q>かかり合いにな</q>るな、<q>近寄</q>るな、という同義反復によって、<q>彼</q>が既に<q>死んで</q>いることを暗に示しているのだ。また、死んでいる<q>彼</q>を<q>水鉄砲の王様</q>と呼ぶことにアメリカ人らしさを感じるかもしれない。いずれにしろ、たったこれだけで、これほどまでの含意をもった文章が書け、それでいてストイックなムードが壊れないというのが本物のハードボイルドの文章なのである。</p>
<h3>2003/12/24:アレの日</h3>
<p>お前ら、クリスマスイブですよ。</p>
<h3>2003/12/23:格闘</h3>
<p>忙しい。非常に忙しい。死ぬ。</p>
<h3>2003/12/22:ストレス</h3>
<p><a href="http://www.so-net.ne.jp/renaikagaku/com-bn/16stress/stress01.html">恋愛科学研究所</a>にて。<q>精神に異常をもたらすストレス</q>って……。</p>
<h3>2003/12/22:流れ</h3>
<p>カスイケスレでまたも自薦・自演の騒ぎが起こって対象サイトが閉鎖した。んでコテハン化している人も二人くらいいる。最近見ていなかったから流れがわからん。</p>
<h3>2003/12/22:また</h3>
<p>ここのURIが変わるかもです。</p>
<p>notebook/index.cgi→voices/</p>
<p>という感じになるかと。ちなみに、この「Voices」は「Other Voices」、トルーマン・カポーティの『遠い声 遠い部屋』の「遠い声」の方です。はてなのアンテナには「Other Rooms」（遠い部屋）と命名しようかなと。カポーティ、僕は大好きですよ。</p>
<h3>2003/12/21:歴史は云々</h3>
<p><a href="http://kazmacky.cool.ne.jp/kinkyo/2003e.html#DATE1220_06">釣瓶雜記</a>に書かれていることを支持しつつ、全然関係のないことを思いついた。脱構造主義は構造主義があったから出てきたのだが、同じように、HTMLでも或る程度構造化されたHTML文章を脱構造化する動きがあったわけですね。俗に不思議マークアップとかレガシーマークアップとかカオスマークアップなんて呼ばれている、アレです。</p>
<p>さらに面白いのは、脱構造主義的マークアップを否定する人間の述べることが、脱構造主義的な産物になっていることが屡々あるということだ。みんな自由ですとか価値観の問題などと（以下略</p>
<h3>2003/12/21:隠語</h3>
<p>ポストモダンの人々が屡々隠語めいた言葉を使うのはドゥルーズガタリやデリダのせいです。「欲望機械」とか「コード」とか「器官なき身体」とか、あっさりと言ってしまえばハイデガーの観念で十分な言葉のはず。</p>
<h3>2003/12/21:恋愛</h3>
<p><a href="http://hanihoh.com/love/">恋愛頭脳</a>をやってみた。結果はかなりキワドイものだったので、公表することができません。おそろしい……。</p>
<p>というか、そんなに僕は駆け引きが好きじゃないし、放任主義でもない。と思う……。</p>
<h3>2003/12/21:負けず嫌い</h3>
<p>昔はかなり負けず嫌いで、とにかく何かにつけて反発していたものだが、それが本当に嫌になって、公平さを徹底しようとしたのが、中学生のころである。公平であれば、自分が過ちを犯していたことも素直に認めれるし、なにより真実に近づけると考えたからである。だから、自慢ではないが（こう言った時点で自慢だが）僕はかなり公平に物事を見聞きできる人間であると思う。身内の人が彼是他人の不平不満を云い、僕に話しかけてきても、僕は半信半疑で聞いている。もちろん、一般には、建前として励ましなりなんなりをするというのが当たり前で、それは百も承知なのだが、そうすれば公平であることによる相手の言い分を聞くという利点を失うことになる。陰で身内を励まし相手を罵倒していたら、そして相手に何らかの納得できる言い分があったら、相手方はひどく傷つくだろう。そんなことはしたくないし、根本的な解決にはならないと考える。</p>
<p>しかし、これには中々のパラドックスが潜んでいて、何かといえば、公平であろうとする根拠が、真実に近づくためのものであるならば、真実への格闘が前提になるわけで、格闘は果敢な勇気が必要であるから、必然負けず嫌いの精神が生まれるということである。あっさり言えば、僕は僕の信ずる真実のために負けたくないという負けず嫌いの性格を、未だに持っているということである。しかし、あるいはこうも言えて、負けず嫌いの精神をもたない公平さなんてものは、真実を追い求める姿勢では決してない、ただ「同じ」であることに留まっているだけだ。その行き着く先は虚無であるし、虚無は人を死に追いやる。虚無に陥らないためには、果敢な勇気と公平さのパラドックスにおいて、いかに平衡をとるかということが大事になるはずである。勇敢でありすぎれば野蛮になる。思慮が深すぎれば臆病になる。重要であるのは、いかにその衝突を中庸とすることができるかである。</p>
<p>僕は多くの間違いを犯してきたが、同時に、それは同じ過ちを犯さないための訓練でもあった。僕は公平さの美名に酔いしれ、本来の目的を忘却していた。しかし、それでは駄目だったから、再び負けず嫌いの気持を持ち直した、そういう次第である。</p>
<h3>2003/12/21:新聞型段組</h3>
<p>段組の是非はうちの某コンテンツでも書いたが、新聞のように、一つの段組に一つの情報を詰め込むという方式は如何。</p>
<p>これは、<acronym title="World Wide Web">WWW</acronym>の観点から否定されるはずである。なぜといって、WWWの特性とはすなわち逐次性の解消にあるはずで、それがアンカーであったりするわけだが、そうであるならば一つのコンテナに多くの情報を詰め込む必要はない。</p>
<p>段組がもてはやされるのは、ひとえに既存の表現媒体の表現法を踏襲することによって、大衆に見た目のよさをうったえ易くなるという理由に過ぎまい。</p>
<h3>2003/12/21:table論争</h3>
<p>tableは表だが、中身は各々の国の言語で書かれる。だから、日本語で書かれた表は日本語の文章に代えることが出来る。逆に言えば、表は、文章を情報だけ抜き取って簡略化する手法でしかないと言える。したがって、tableを使う必要がなければ使わない方が良いし、また、多くの情報を一覧で示したい場合は使ったほうが良い。ただし、自分の書いた文章を文章として読んで欲しくないという言い訳や言い逃れのためにtableを使い、尚且つそれをもって相手を嘲笑するのは問題外である。俗に云うテーブルレイアウトの誤は、つまりこういうことである。</p>
<h3>2003/12/21:アクセス</h3>
<p>今まではXREA付属のアクセスログを見ていましたが、設定を変えてしまって見れなくなったところ、あまり不自由も感じませんでしたから、これからは見ない（というより見れない）ようにします。だから、どこか他所で言及されていても気づかない場合がありますが、どうしても反応が欲しい場合などはメールでもしてください。</p>
<h3>2003/12/21:浅田次郎的</h3>
<p>浅田次郎の著作はあまり読んだことがないのだけれど、鉄道員の映画は見たことがあって、なぜなら作曲が坂本龍一だったからなんですが、それはともかく、泣かせたいのが見え見えの作品でよく泣けるなあと思ったものだった。また、曲も悪くて、教授はほとんど意識的に泣かせる曲を書いたのだろうが、例えばシェルタリング・スカイのような、泣かせることはあっても安易な楽曲には堕さないという気構えが見受けられない。教授の場合、ポップな曲は殆ど意識的に構築しているから、或る程度教授の曲がわかる人ならばそこを見破れるものだが、鉄道員だけはいただけない。</p>
<p>鉄道員の曲は、シングルの「ウラBTTB」に収録されたわけだが、そこにはかの有名なエナジー・フローとかNEWS23の曲もある。が、そのどれも僕は認められない。アカデミックな手法の悪所が鮮やかに、そして腐臭を放っているようにしか思えない。オモテの「BTTB」にはそのような大衆的な作品は皆無で素晴らしいが、「ウラBTTB」は俗悪さへの併合と妥協の産物に辟易させられる。浅田次郎的な世界とあまりにマッチしているから、余計鼻につく。</p>
<h3>2003/12/21:寒い</h3>
<p>ノートブックでは暑いだの寒いだのは言わないようにしていたのですが、いくらなんでも寒い。部屋で白い息が見えるって何よ。さすがの僕でも起きてネットやる気にすらならない。北海道はいくら寒いと云っても家の中は暖かいから、こんなことはない。</p>
<p>それはそうと、「北の国から」って面白いですか？僕は全然面白くないです。人間観察の鋭さとか、そういう評価が信じられない。教訓話として楽しめというならまだしも。本気で泣いている人には悪いけれど、傍から見ればちょっと寒い。</p>
<h3>2003/12/21:更新</h3>
<p><a href="http://ex.2ch.net/test/read.cgi/net/1065716232/278">278氏</a>が別スレから<a href="http://ex.2ch.net/test/read.cgi/net/1071494707/17">17氏</a>の書き込みをコピペしているのを見て、思い出した。何をといって、<cite>2003/09/03(Wed)</cite>の時にもレン鯖板の人から指摘されていて、直そうと思ったものの、ずっと忘れていたのだ。思い出させてくれて感謝。</p>
<p>しかし、うちは<q>有名どころ</q>ではありません。</p>
<h3>2003/12/19:はまる</h3>
<p>古本好きの人や、特定の学問を研究している人は経験があると思うけれど、ある時代に出された雑誌に興味をもって、わざわざ古本屋で購入するという経験があると思う。僕もそうで、新潮の特集号（三島や川端が自殺した時のもの等）やらユリイカの村上春樹特集なんてあるのを見ると、ついつい買ってしまう。その中でも特に面白いのが、『平凡パンチ』のような文芸に特化しない雑誌で、たまに大江健三郎とか吉本隆明なんかの特集があったりするようなやつで、密着取材をして私生活を暴くなんてのもあり、中々楽しめる。それも、今のパパラッチのようなものではなく、近所の酒屋さんに聞いてみましたとか、お米屋さんにどこそこの作家氏がいつも買っているお米の種類を聞きましたとか、とてもほのぼのとしたもので、読んでいるうちに、大笑いすることになる。今となっては伝説のような扱いを受けている作家も、その当時は結構変なことをやったり云ったりしているから、昔の雑誌を読むのは楽しい。</p>
<h3>2003/12/19:ユーザースタイルシート</h3>
<p>うちの7th styleを基にユーザースタイルシートを作っていたのですが、確かに僕の感性には合っているものの、読みづらい。なぜだ。一応、正式公開の前のバージョンを晒しておこう。</p>
<ul><li><a href="http://casa.s20.xrea.com/css/user.css">7th style β</a></li></ul><p>これで英語圏のサイトでISO-HTMLに近いマークアップをしているところなら、かなり良さげに見える。</p>
<h3>2003/12/19:文明の衝突</h3>
<p><a href="http://www5d.biglobe.ne.jp/~quia/report/2003/2003_12_b.html#date16-1">Wind Report(Die Stimme aus der Vergangenheit)</a>にてサミュエル・P・ハンチントンの有名な著作、『文明の衝突』の文字列を見て、友人と神保町に行ったときにこの本があって、彼がたいそう欲しがっていたことを思い出した。私も確か高校生の頃、学校の図書館にあったのを無造作に取り出し読んだ記憶があり、昔のメモ帳を引っ張り出して当時どんなことを考えていたのかを確かめてみた。</p>
<blockquote>
<p>ハンチントンの『文明の衝突』が、多くの反発を生んだのは、彼の政治性や恣意性だけではなく、アメリカ社会の危機感の反映という論点がそもそも問題にならなかったからである。ハンチントンが1997年に出版した『文明の衝突と新しい世界秩序の再生』という書物が、大した議論を呼ばなかったのは、その時アメリカがイスラムやアジアから脅威を受けるなどということは、考えられないことであったからだ。</p>
<p>では、その数年間に何が起こっていたのか。まず、世界的には、経済のグローバル化が進行し、それに伴い情報化の波が世界を駆け巡った。これにより、アメリカ経済の圧倒的な優位が確立されたと言ってよい。丁度アメリカ経済は、1998年から好転している。では、日本はどうであったか。1998年には、失業率が4%を超え、株式も低迷している。</p>
</blockquote>
<p>微妙に論旨が分かりづらい。突如日本が現れるのは、要するにアジア経済とアメリカ経済との対比において、アメリカ優位を語るものだったのだろう。</p>
<p>それにしてもおかしいな、と思ったのは、ハンチントンを語るならば当然フランシス・フクヤマの『歴史の終わり』も扱っているはずで、しかも私は上下巻とも揃えて持っているのだが、一向にその話はない。これは、その時フクヤマを読んでいなかったのか、それとも何かの解説本のまとめなのか、ちょっとわからないから、この文章は眉唾ものだと思う。</p>
<h3>2003/12/18:だからといって</h3>
<p>「難しい」からやめるのではなく、「難しい」から遣り甲斐があって面白い云々ということから、もう少ししたら似非回答者に復活するかも。その前にもう一つの自サイトを再構築からだが……。</p>
<h3>2003/12/18:携帯電話でのサイト作成</h3>
<p><a href="http://deztec.jp/design/03/12/000051.html">携帯電話向けHTML文書の作成</a>がよくまとまっている。一応それ系出身の僕には有難い記事。まあしかし、PCサイトをそのまま携帯対応にすることにはあまり意義を感じない。というのは、携帯サイト界隈において、「作成」という概念よりも「コミュニケーション」という概念のほうがより重要視されているからだ。その原因は、</p>
<ol><li>携帯電話の機能面の低さ</li><li>携帯電話本来の使用目的との関連</li><li>料金設定の問題</li></ol><p>等が考えられる。一つ目に関しては、中途半端にCSSを解釈する携帯もあるが、まったく話にならないほどのレベルの低さだし、そもそもディスプレイの小ささから、基本的な要素も明示しづらい（Hn要素等）こともあり、まだまだ解決には程遠いと言って良い。二つ目に、携帯を使用することによって、本来の使い道（コミュニケーション）により特化されるということである。それが電話、メール、webの違いだけであるということ。三つ目は、これは最近解決の方向に進んでいる。しかし、PCには及ばないことは明白で、じっくり腰を据えて作成したりすることはできない。これらの理由が複合的に存在しているから、未だに携帯電話対応の質問掲示板にはサイト作成に関する質問はあるものの、それが刹那的な理由であったりそれゆえ掲示板の秩序が保たれないという現状がある。</p>
<p>要するに、今はまだ、好ましいHTML云々というのはちょっと早すぎる段階だということ。彼らは馴れ合っていれば楽しいし、それ以外のことに関心を持たせるのは現状難しい。</p>
<h3>2003/12/18:WCAG1.0</h3>
<p>今までemとstrongは色が違うだけだったが、WCAG1.0の観点から言えば駄目で、なぜなら色が再現できない環境では同じboldで見分けがつかないからだ。偉大なスタイルと呼ばれる<a href="http://members.jcom.home.ne.jp/pctips/www/sample/ALLNETlatest/">ALLNET最終版</a>で、なぜ下線付きなのか今まで不思議に思っていたという恥を忍んだ告白をした上で、微調整しましたという報告をします。</p>
<h3>2003/12/18:信ずる</h3>
<p>僕は基本的に徳保さんの論考や分析が面白いと思っているから、言えば分かってくれる人だと信じている。勿論、過去の幾多の論争を知らないでもないが、人は、変わるものであると信じている。そこを信じられなければ、ヲチする以外になく、論争を吹っかけたりしない。</p>
<h3>2003/12/18:いやはや</h3>
<p>暇人かもしれませんが、暇人でいられないという謎。つうか友人にも同じこと云われましたよ。</p>
<h3>2003/12/18:お願い</h3>
<p>徳保さん、ループばっかりしてますよ。お願いですから一から丹念に過去ログを読み返してください。そうすれば、なぜ私が呼称の問題に拘ったのか、わかるはずです。そして、徳保さんが分類した「保守」の人たちは、徳保さんの主張とも相成れないものだと、ご存知ですか。</p>
<h3>2003/12/17:重い</h3>
<p>やたらめったらに更新しまくっていたら、まだ17日なのに膨大な記事数に。ちょっと重くて厄介だなあ。例のプロジェクトは来年完成か。</p>
<h3>2003/12/17:今日の予定</h3>
<p>ちょっと立て込んでいるのでレスとかアレ近辺は夜に更新予定。というか、最近はスクリプトの方にも興味が出てきたんで、そっちも勉強しようかなと思っていたり。やっぱり最初はJavaScriptで</p>
<p><code>document.write( "HelloWorld!" );</code></p>
<p>からですか。いや、そのヘンはさすがに今でも覚えているけれど……。</p>
<h3>2003/12/16:えー。</h3>
<blockquote>
<p><a href="http://d.hatena.ne.jp/hoshikuzu/20031215#p3" title="http://d.hatena.ne.jp/hoshikuzu/20031215#p3" class="outer">スターダストさんの今日の日記</a>によると、<dfn><a href="http://altba.com/bakera/hatomaru.aspx/glossary/004d005300490045" title="用語「MSIE」の説明">MSIE</a></dfn> では @import を @i と書いても同様の機能を発揮するのだとか。</p>
<p>やってみたら、MSIE6 ではその通りでした。ひえぇ……。</p>
<p class="citation-origin"><cite><a href="http://altba.com/bakera/hatomaru.aspx/ebi/2003/12/15/004000690020306730a430f330dd30fc30c8">『えび日記』「@i でインポート」</a></cite></p>
</blockquote>
<p>流石に驚いた。いくらなんでも酷すぎるけれど……。確かに使えるかも。</p>
<h3>2003/12/16:限定された空間で</h3>
<p>私は元々携帯サイト界隈からWWWの世界に入ったので、どうしてもこういう発想になってしまうのだろうが、限定されたなかでいかに凄いものを作るか、ということに興味を覚える。例えば、<a href="http://hamq.jp/">ハムスター島</a>というところがあって、私はここからスタートしたのだけれど、文章型宣言はもちろん、HTML文章を形成する要素の類は自分で書けない。書けないというよりは、書かないほうが入門者にはわかりやすくてよいということなのだが、或る程度分かっている人なら、邪魔なものでしかない。また、携帯を主眼においているから、CSSもbody要素直下に外部からよびだすという無茶をしなくてはいけない。これはさすがに酷いから問題外だけれど、はてなダイアリーくらいになると、私の欲求は最大限満たされる。</p>
<p>私は未だにはてなダイアリーを公開していないが、公開しないのは、自分の城にどうしても拘りたいという別の欲求を持ったからだ。簡単に言えば、（URIというよりは）URLへの愛着である。ここで何かを成し、ここで全てをこなしたい。酷いHTMLの掲示板もそのうち代えたいのだが、レンタルのものにしないのも、そこに理由がある。</p>
<p>そして、またふと思う。どこをどうやったって、限定されないものなんてない。やはりHTMLでサイトを構成するし、それを公開するにもURIという識別子が与えられ、限定される。当たり前の話だけれど、少しサイトをもったことのある人なら、ある程度同感してくれるのではないか。</p>
<h3>2003/12/16:ネズミとカエルの争い</h3>
<p>平野さんの文章を読んでいて、ヒルベルトの形式主義の話がでていて、連想として形式主義vs直観主義の論争を思い出した。この論争は「ネズミとカエル」の争いといわれていて、無意味な論争を意味する。つまりはお互い噛み合わぬまま終結するわけだ。しかしちょっと丁寧に読めば、少なくともこのたびの論争においては、私が徳保さんが示した「主観的価値判断による呼称」（<cite>2003/12/15「なんども言うようだけれど」</cite>）というのを否定したというのが論旨なのであり、徳保さんが後になって云い出した「客観的価値判断による呼称」が論旨なのではない。その証拠に、再開した時に私はこう言った。</p>
<blockquote>
<p>徳保さん、言及すべき記事は、まずはそこではないですよ。「徳保氏を斬る2」の「保守ということ」でしょう。順番がまるで違うじゃないですか。私の文章は、そこを起点にしているから、そこに言及しないとだめです。</p>
</blockquote>
<p>ここでいう「そこ」は、</p>
<blockquote>
<blockquote cite="http://deztec.jp/design/index.html" title="趣味のWebデザイン(平成15年10月4日)"><p>小林さんが保守派知識人をポチ保守と呼ぶのは、単に小林さんの保守の定義に当てはまらないからそう呼んでいるだけだ。ポチ保守は「我こそ保守本流であって、小林さんの立場は単なる蛮勇じゃないのか」という。同じ保守という言葉に、いろいろな立場の人がいろいろな意味を込めているから、「自分の解釈だけを正解と認めろ」というと喧嘩になる。でも、これは単に保守Aと保守Bのように分類できれば済む話でしかないから、あまり意味がないと私は思う。</p>
</blockquote>
<p>単に無知なのか無視しているのかは知らないが、徳保氏、一度イギリス保守主義から勉強し直すことをお勧めする。少なくともエドマンド・バーク以来綿々と続く伝統を顧みる姿勢は、若造国家アメリカに脅されて<q>国民の生命・財産</q>を保守するという所謂保守主義よりも本流であると思いますがね。</p>
</blockquote>
<p>または私はこうも言ったはずだ。</p>
<blockquote>
<p><q>私の意図は第一に自説の補足にあって、加納さんの意見（の一部）への言及という形式は、そのために便利だから採用しているのです。</q></p>
<p>無茶を云う人である。論争とは自説を一人ででっちあげるものではない。相手の意見に対して自分の意見を戦わせず、どうやって議論なぞできるのか。都合のよい箇所だけを引用し、他は無視するというのは、議論でもなんでもない。</p>
</blockquote>
<p>徳保さんは私の忠告を無視したから、意図的か否かはわからぬものの、自らを正当化するための論にしかならず、一人勝手に話を進めていたのである。</p>
<p>つまり、この論争は「ネズミとカエルの争い」ではなく、きちんと詰めれば答えの出るものである。</p>
<h3>2003/12/15:なんども言うようだけれど</h3>
<p>最初徳保さんはこう言っていたのですよ？</p>
<p><q>小林さんが保守派知識人をポチ保守と呼ぶのは、単に小林さんの保守の定義に当てはまらないからそう呼んでいるだけだ。</q></p>
<p>それを私が否定したら、今度は「一般呼称として保守と呼んでいい」ですか。</p>
<h3>2003/12/15:で</h3>
<p>寝れないからレスしているんですが、起きられないような気がする……。</p>
<h3>2003/12/15:可愛らしさではなく</h3>
<blockquote>
<dl><dt>加納</dt><dd>「保守としての正統性のないものを保守と呼ぶなクソが。</dd><dd>ろくな知識もねぇならアホ面さげてボクはバカで〜すと言ってろ。ブチ殺すぞ( ﾟДﾟ)ｺﾞﾙｧ」</dd><dt>徳保</dt><dd>「俺は別にそう思わねぇんだよ。犬だか猫だか知らねぇが勝手にワンワンニャーニャー遠吠えしとけ。</dd><dd>てめえがなんと吠えようと俺は勝手に呼ばしてもらうからな。あれも保守、これも保守。死ね( ゜д゜)、ペッ」</dd></dl></blockquote>
<p>僕の方が可愛いですね。</p>
<p>そんな糞にもならないコメントはともかく、貴方たちのお蔭で答えに一歩近づけたのだから、<q>論じあって答えを出すってこと</q>に関しては徳保さんも僕も、持っていると思う。</p>
<h3>2003/12/15:いや、どうだろう。</h3>
<p><q>お互いの主張をお互いに理解しあえないってことはわかった</q>というけれど、そうでしょうか。私は、徳保さんは私の主張を理解していると思いますよ。</p>
<h3>2003/12/15:パクル</h3>
<p>私を批判する者は徳保氏と同一だといって非難するが、彼らは徳保氏同様、言葉の意味を知らないという点で徳保氏と同一。</p>
<h3>2003/12/15:詭弁</h3><p>タラバガニと保守を同一に考えるというのは、本気なのだろうか。これは比喩が上手い下手の問題をとうに越している。私の比喩は、「正統」とは事実命題を証明するものであるというのを証明するために、生物学のようなはっきり答えの分かるものを引き合いにしたものだ。つまり、比喩の対象とその目的が一貫しているから、詭弁ではない。</p>
<h3>2003/12/15:まだ分かっていない人へ</h3>
<blockquote>
<p>自分が詭弁だと批判されてるのに、それに対してまともな反論もせずに「あいつの言ってることこそ詭弁だ」と<br>主張する論法こそまさしく詭弁だよ。お前の比喩が詭弁であるか否かと、徳保の比喩が詭弁であるか否かは関係ない。</p>
</blockquote>
<p>文章を読めないなら黙っていた方が良い。恥をかくだけだ。その文章の次になんて書いてあるか、読めないのか。「なぜなら、専門的な話を、例えばこの喩えなら生物学の話をしているのに、一般呼称の話にしているからである。」</p>
<p>「正統」という言葉を還元して本来の意味を伝える目的の比喩と、論旨そのものを間違った比喩で証明する目的の比喩と、どちらが詭弁なのか。</p>
<h3>2003/12/15:まだ分かっていない人へ</h3>
<blockquote>
<p>徳保はもともと「いわゆる保守」と書いて<br>いたから、俺はそこから徳保は単なる呼称として「保守」といっていると読んだけどね。</p>
</blockquote>
<p>辞書というものを引いてみてはいかがですか。</p>
<blockquote>
<dl><dt><em>いわゆる</em>　いは― 3 2 【▽所▼謂】</dt><dd>（連体）</dd><dd>〔「言ふ」に上代の受け身の助動詞「ゆ」の連体形が付いた語〕世にいわれている。よくいう。いうところの。</dd><dd>「―天才とはまた違う」</dd></dl><p class="citation-origin"><cite><a href="http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%A4%A4%A4%EF%A4%E6%A4%EB&amp;kind=jn">goo 辞書</a></cite></p>
</blockquote>
<h3>2003/12/15:忘れてた</h3>
<p>徳保スレの方々へ。反対するにしろ賛成するにしろ、誠実に応えてくださったことに感謝します。ヲチ板の住人ではないので分からないのですが、普通は煽り煽られが大半になるものだよなあと思ったのですが、そうではなかったので。このお蔭で随分と筋道がついたと思います。</p>
<h3>2003/12/15:変化</h3>
<p>日ごろから口癖のように「軍歌の足音が聞こえる」とか「ヒトラーの再来だ」とか「右傾化している」とか「時代の境目だ」という人は、ちょっとした変化だけで反射的に反応するから、それは問題外として、いわゆる保守は、変化に対して留まること<em>のみ</em>主眼に置いているから、本当に変化している時にそれと気づかない。徳保氏もそうで、産経なり朝日なりがどう変質しているかに気づかない。気づかないから、平気で保守だ革新だと分類できる。</p>
<h3>2003/12/15:欠点</h3>
<p>徳保氏は、風呂敷を大きくすればなんでも包み込めると思っている。しかし、そんな馬鹿げたことはありはしない。なぜなら、その風呂敷が布で、包むものが水ならば、包み込めぬは道理であるからだ。また、これも勘違いしているようだが、価値観とは解釈の拡大だけを意味しない。確かにそういう面はあるものの、本来価値とは共有できぬもの（これが解釈の拡大に繋がっている）だが、共有できぬものであるからこそ、個々人に微分されて先鋭化するものである。徳保氏は同じだ同じと云うが、では同じだからなんだと云うのか。これは少し昔の保守派の常套句だったが、多くの日本人が「自由」とか「平等」とか「個性」といった時に、それはただ平均化されたものでしかない。本来の「個性」とは、そういうものではなく、正統的な伝統のもとに突出した才能を輝かせることである。才能ということを多くの日本人が認めているにもかかわらず、未だに事実に関する認識について無関心であるのは、どうしたことだろうか。まあ普通に生きている人はそれで良いだろう。しかし、一度論理的に、あるいはそうであろうとしたことのある人間ならば、そこを考えずに過ごすことはできない。徳保氏は、そうであろうとした、またはそうでりたいと願った人であるはずだ。だから、単に思考を停止しているだけなのである。野嵜氏が端的に云っている。<q>『相対主義者』はただ、『疑問を持つのは良い事だ』と言つて、何もしない不精を正當化してゐるだけなのである。</q>と。</p>
<p>私だって、これでも中々ややこしい出来事にであってきた。そのたびに、こういう奴らとは相成れない、価値観を共有できないと思ったことがある。しかしだからこそ、自分の生き方なり考え方というものを、徹底しようと思ったのである。私が、価値観という言葉を目の敵にして攻撃しているように見えるのはわかる。しかし、それは価値観というのを、それだけ大事に思っているからだ。現に、私は保守主義者ではない。なぜなら、私には保守すべきものを肌身に感じたことはないからだ。そういう時代に生まれた、運命だからだ。しかし、そうすべきだ、という論理の問題として、私は保守主義、なかんずく、保守的な考え方というのを支持する。それは、「徳保氏への再反論」に書いたとおりである。</p>
<p>徳保氏に提言したいのは、大事な価値観というものを、そんなに安っぽく使わないで欲しいということだ。その前に、もっと突き詰めて考えてみるべきだ。</p>
<h3>2003/12/15:おかしな話</h3>
<p><q>犬全般を猫の範疇に含める慣習は存在しません。</q></p>
<p><q>慣行</q>より<q>無秩序で刹那的な判断</q>を支持していたのではなかったのですか？</p>
<h3>2003/12/15:あと</h3>
<p>どうでもよいことですが、タラバガニは蜘蛛というよりヤドカリなのでは……。</p>
<h3>2003/12/14:徳保氏よ、土俵に上がれ</h3>
<p>私の比喩を詭弁だなんだと云っていた人もいるが、むしろ徳保氏の比喩を詭弁ととるべきだ。なぜなら、専門的な話を、例えばこの喩えなら生物学の話をしているのに、一般呼称の話にしているからである。私がわき道のように今まで書いてきたが、徳保氏が誠実ではないと言っているのはそこである。徳保氏は専門家に対して言及したはず（まあ小林氏は漫画家で言論人ではないが、西尾氏や西部氏は大学人で専門家）である。それを、逃げ道を確保するかの如く大衆化（ここでの大衆は西部氏の定義と考えてもらいたい）している。生涯を賭して研究している人に対し、失礼極まるではないか。もちろん、それらの人々に匹敵するほど本を読めなどと無茶は言わない。しかし少なくとも基礎文献には目を通すべきだ。長々と繰り返し私が言ってきたが、徳保氏はそれすらしていない。また、徳保氏は過去に、マスコミを批判してこう云った筈である。<q title="備忘録 「闇カルテル」">基準に裁かれない自己満足の世界に逃げ込</q>むことは駄目だと。徳保氏は、批判していたマスコミと同じ事をしていると自覚すべきだ。</p>
<h3>2003/12/14:再開</h3>
<p>それでもスレの皆さんのお蔭で随分纏まってきたので、この辺から（徳保さんも反応してくださったし）徳保さんとのやりとりを再開します。</p>
<h3>2003/12/14:嗚呼</h3>
<p><a href="http://ex.2ch.net/test/read.cgi/net/1065716232/257">257</a>氏、ずっと私はそう言い続けていたのですが……。</p>
<h3>2003/12/14:勘違いの原因</h3>
<blockquote>
<p>正統な保守が保守の意味の全部だという価値観の奴隷になっているが、<br>それは現状認識が誤っているな。</p>
</blockquote>
<p>その現状認識の誤は私が指摘しているのですが。というか、私が猫と犬の喩えを持ち出した理由が分かってもらえてないようなので説明すると、「正統」という言葉が多分引っかかっているかこういう話になっているのだろうが、話は三段階あって、一段階目は簡単な話。生物学的に猫は猫だろうと。つまり、生物学なる論拠をもった正統性があるから猫と言えるのである。で、次のレベルに移ると、ではなぜ犬は猫ではないのか、それは、犬は正統的な猫（生物学的根拠のあるネコ）ではないからだ。そして最後に、つまり正統であるというのは、徳保氏が云うところの当為命題ではなく、事実命題を証明するものであるということ。</p>
<p>この三段論法が私の主張の根本なのです。というよりも、知識を持っていればわかるが、これが「正統」の本来的な意味なのです。だからこそ私は知識をもっていないと指摘しているのです。</p>
<h3>2003/12/14:勘違い</h3>
<p><q>徳保叩きの急先鋒として期待</q></p>
<p>って勘弁してくださいよ。僕は徳保さんになんの恨みももってませんよ。というか、これは友人が言っていたのだけれど、どっちもどこかしら主張を勘違いしている部分があるかもしれない。それをスレ住人の皆さんの客観的な視点を参考にしてみたいというだけです。</p>
<h3>2003/12/14:読解</h3>
<blockquote cite="http://ex.2ch.net/test/read.cgi/net/1065716232/251"><p>正統かどうかに関わらず、ポチ保守を保守といっていいといってるわけ<br>だから。加納がなんといおうと、世の中ではポチ保守を保守派と呼ぶ<br>現実があるわけで、徳保は消極的に「それでいい」といってるに過ぎない。</p>
</blockquote>
<p>徳保氏の言のまとめとしては結構（話のズレを的確に表しているという点では極めて素晴らしい）だが、それでは今まで私が言ってきたことへの反論にはならない。というのは、私が問題としたのは現実と折り合いをつけるため云々というよりも、現実を見るとそうといかなくなっていると言っている(<cite>2003/12/12 「詰める」</cite>)からである。そもそも、なにかを実証的に分類する時は、巨視的な視点だけを見ることなどあり得ない。むしろ微視的な視点から、それぞれの違いを考えるというのが普通である。例えば、猫と犬の違いは何か、というのを考えた場合、その見た目だけでは不十分で、機能面やもっと言えば細胞レベルで同じ可能性があるから、事細かに見なければならない。徳保氏の場合、現実論が現実論足りえてないのは、つまり現実をミクロの眼で見ていないからだと言える。その辺の事をちゃんと読んでもらわないと、話が進まない。</p>
<h3>2003/12/13:恥</h3>
<p>最近うちの回線が悪くて途切れ途切れなんですが、それのせいで時々画像が表示されなく、なんのサイトか分からないことがあります。そんな時に、<a href="http://d.hatena.ne.jp/antipop/20031212#1071223110">アンチプｯプさんの紹介記事</a>を読んで、視聴したのですが、これはまんまYMOじゃないか!って一人思っていましたところ、SKETCH SHOWだったわけでして、細野さんと高橋さんの新ユニットだったわけで。あぶなくYMOの影響が云々ぬかすところでしたよ。</p>
<h3>2003/12/13:昨日</h3>
<p>昨日はまた友達と呑んでいたのですが、酔い覚ましにインスタントコーヒーを淹れたらこぼ<em title="自然発生的(w">れ</em>て、中々の惨事になりました。</p>
<p>それはそうと、彼は長年の付き合いからか、僕の文章を読むのはかなり達者で、ちょっと驚いた。</p>
<h3>2003/12/13:命題</h3>
<p><q>事実命題「A」は共有されているが</q></p>
<p>されていないと何回も言ったはずだが。そもそも「A」というものの事実について知識がなかったら、どうやって話をすればよいのだ。徳保氏は無知をまず認めて、勉強してから話し合いなり論争にのぞんでみてはいかがか。</p>
<h3>2003/12/13:というか</h3>
<p>スレ住人のかたも気づいていないようだけれども。</p>
<p>「正統な保守とポチ」と<em>僕が</em>分類しているかのように、また、それをもって僕の価値観、当為命題だと徳保さんは仰るけれど、それはまったく嘘です。ずっと前から指摘しているように、いくら僕がそう分類したくなくてもそうなってしまう、なってしまった、といった類の、事実の話です。徳保さんは保守の本当の定義をしらないから、それこそ事実の話に価値観を持ち込んで平然としている。</p>
<blockquote>
<ul><li><q cite="http://casa.s20.xrea.com/notebook/index.cgi" title="要するに　2003/12/12(Fri)">インチキな「保守」を保守と呼ぶことはできない。</q>という発言は事実命題ではない。物理的に可能なことを不可能だというのは、「正統でない保守を保守と呼んではならない」という当為命題が隠れているから。その当為命題を否定すれば、正統でない保守も保守と呼ぶことが可能になる。</li></ul></blockquote>
<p>何度も何度も言っているのだけれど、徳保さんはこう答えたじゃないですか。</p>
<blockquote>
<dl><dt><q cite="http://casa.s20.xrea.com/notebook/index.cgi" title="論旨　2003/12/10(Wed)">正統であるものの存在を認めるならば、それに準拠しない者は正統的ではないと言える。</q></dt><dd>いえるでしょうね。</dd></dl></blockquote>
<p>徳保さんは自分で<q>その当為命題を否定す</q>るどころか認めている。</p>
<h3>2003/12/13:ネット弁慶</h3>
<p>一部でネット弁慶云々と言われているが、彼らは一体このノートブックのどこを読んでいるのだろうか。私のリアル知人はほとんどこのサイトを知っているし、奇特にも毎日読んでいる人もいる。彼らは、やはり印象でしか語っていないのだ。本来語られていることではなく、印象しかわからない。しかも厄介であるのは、自分は匿名で他人を罵っておいて、自分がネット弁慶なる存在に化していることに気づいていない点だ。</p>
<h3>2003/12/13:感謝</h3>
<blockquote>
<p>えーと、「煮詰まっていて先に進まない」のならば、とりあえず存在する論点をすべて洗い出して、<br>それぞれについての両者の主張を書き出してみましょう。<br>面倒でもそれが議論の近道です。</p>
</blockquote>
<p>私はそれを「ダイジェスト」でやろうとして（多分）失敗しました。今度はもうちょっと厳密にやらなきゃだめですねえ。あと、<q>メタレベルで価値観の違いに回収されてしまう</q>というのはよくわかるというか、私自身もちゃんと言及しているのですが、価値観の違いによって分類が変わるのは結構だと言っているんですよ。でも、たとえば「猫を犬として分類したい」という場合は、たしかにメタレベルでの話ならありうるのですが、それになんの意味があるのかが全くわからないのです。また、事実命題と当為命題といった言葉がありあしたが、これも微妙にズレているんですよね。私の事実命題は、「<em>正統な</em>保守とポチ」ですが、徳保さんの事実命題は「保守と革新」ということでしょう。だから、私は「事実命題そのものが間違っていたり知らなかったりしている」と言っているのです。</p>
<p>まあとりあえず、論点がすっきりしてきたようなので、240氏には感謝します。ありがとうございます。</p>
<h3>2003/12/13:印象批判の誤謬</h3>
<blockquote>
<p>徳保は放棄、加納は折り合いを付けて済ませるのは損だなんて言ってる。<br>じゃ何がしたいの？と。その辺が言葉を弄んで相手より賢く思わせたいだけだと見える理由。</p>
</blockquote>
<p>議論をしたいのではないのですか。議論をして、思想を突き詰めたいのではないのですか。そもそも、<q>その辺</q>の<q>その</q>は<q>何がしたい</q>かわからない、を指しているのだろうけれど、それは後の<q>言葉を弄んで相手より賢く思わせたいだけだと見える理由</q>には論理的に繋がらない。また、<q>傍から見れば立派な勝利終了宣言</q>とか、<q>「感想」ってあたりあざといというか、せこい</q>というような調子で246氏は印象でしか人を批評していない。印象は印象でしかなく、それを裏づけするには論理が必要である。それを放棄して人に悪罵を投げつけるような奴が、<q>うちのクラスにも一人二人居たよ。</q></p>
<h3>2003/12/12:テスト</h3>
<p>まあ反応しないのがアレなんでしょうが、どうも煮詰まっていて先に進まないので。</p>
<blockquote>
<p>前者は小林vs「ポチ保守」の政策論争。<br>後者は徳保が「ポチ保守」を「保守」と呼ぶことの妥当性（＝定義）の問題。<br>論点が全然違うじゃん。<br>それに、引用5行目の両者は相容れない事柄ってわけでもないし。</p>
<p class="citation-origin"><cite><a href="http://ex.2ch.net/test/read.cgi/net/1065716232/240">240</a></cite></p>
</blockquote>
<p><q>論点が全然違う</q>ことを私は<q>変質</q>と言ったのだけれども。それでも後者の問題には反論しましたよ。あれじゃ詰めが甘いですかね。</p>
<p><q>勝利宣言みたいなのは端から見てるとかっこ悪いから止めたほうがいいと思われ。<br></q></p>
<p><q>勝利宣言</q>なんてした覚えなんてないのだけれど、あるとしたらこれでしょうか。</p>
<p>「どう読んだって徳保さんの主張はことごとく打ち砕かれているのは<q>明らか</q>じゃないですか」</p>
<p>私は、ソースを見てくださいと言ったはずだけれど、そのソースはこうです。</p>
<p>どう読んだって徳保さんの主張はことごとく打ち砕かれているのは&lt;q&gt;明らか&lt;/q&gt;じゃないですか&lt;span class="hidden"&gt;(w&lt;/span&gt;</p>
<p>241氏も同上。</p>
<h3>2003/12/12:アラソイ</h3>
<blockquote>
<p>もし相手方の考えに矛盾があるならば、「こういう場合、ああなるのですが、どうですか？」と尋ねて、その矛盾にも意味があるかもしれない、と考えればいいと思うのです。</p>
<p>その結果、相手がその矛盾が自分にとっても間違いである気付けば、その人はそれを改めるだろうと思います。また相手が知識不足のようであったら、資料を提示してあげれば良いと思います。そうすれば、互いの主義、思想を他愛もない雑談のように気軽に話せると思います。</p>
<p class="citation-origin"><cite><a href="http://gehirn.fleugel.com/temperance/#501">Temperance&#64;不安定で不確かで不完全</a></cite></p>
</blockquote>
<p>うちに限って言及されているわけではないのですが、僕の自意識が唸っているので反応してみます。ここで僕が反応するのは、当然このたびの徳保さんとの論争についてになるのだけれど、そうじゃない可能性もあるから、断定的には言えませんが、仮にこの論争のことだとして話を進めてみます。</p>
<p>僕が攻撃的な口調であるかどうかは定かではないけれど、もしそうだとすれば、それなりの理由があるのです。例えば、それは誠実さの問題であったり、論理的欠陥を詭弁で補うようなことがあれば、僕はこの度の論争のような口調を使います。ただ<q>矛盾</q>しているだけでは、そんな言い方はしません。また、<q>相手が知識不足のようであったら、資料を提示してあげれば良い</q>とは言うものの、そもそも知識人に対して意見を云うからには知識をもって、あるいは知識を持とうとする努力が必要であると考える。それが、意見を述べるものの誠実さということじゃないでしょうか。例えば、大学教授に向かって「貴方の主張は間違っている」と言うからには、少なくともその教授氏の著書を読んで、主義主張を確認してからではないと、お話にならない。ただ失礼なだけです。</p>
<p>とはいえ実際問題として、論争なり話し合いなりは、こういう口調になりがちです。なぜなら、矛盾とはすなわち自らの言葉に誠実でない証拠であるからです。しかし、だからこそ、本来はそこにユーモア（より大きな言葉の概念では、レトリックといった方がよいかもしれません。）が必要になるのです。日本人は大概議論が下手だと云われます。それは、ユーモアなしに話をするからです。欧米人の議論は、この点において実に上手い。彼らだって内心激昂したり嘲笑したりしてるはずですし、または口に出して云うこともあるでしょう。しかし、それのバランスをとるようにユーモアをきちんと含ませる。だから、建設的な議論に見えるのです。その点は私はまったくできていないから、これからの課題といえると思います。</p>
<p>要するに、論争そのものを否定したりするのではなく、本来の論争のあり方を探るべきだと僕は思うのです。もちろん、これは自戒を含めて言っているのですが。</p>
<h3>2003/12/12:うーん</h3>
<p>前にも言及したけれど、HTMLをcodeでマークアップするのっておかしくありませんか？HTML文章はコンピュータのコード片なのですか？HTML文章は単なるハイパーテキストにすぎないのではないですか？</p>
<h3>2003/12/12:微調整</h3>
<p>CSSを少しだけ更新。僕はあまり使わない要素も一応入れた。そのサンプルは以下のように。</p>
<div class="ex"><p><dfn>保守</dfn>とはつまり正統的な伝統主義である。(dfn)</p>
<p><abbr title="Hit Point">HP</abbr>がなくなった。(abbr)</p>
<p>ネット依存度<samp>98%</samp>とでた。(samp)</p>
<p><code>if(get_magic_quotes_gpc()){</code>...(code)</p>
<p>DOSで<kbd>cd..</kbd>と打った。(kbd)</p>
<p><var>$name</var>に名前を代入する。(var)</p>
<p>x<sup>2</sup>=1、H<sub>2</sub>O(sup&#44;sub)</p>
</div><h3>2003/12/12:クロスオーバー</h3>
<p>純文学畑の人間は、ミステリーを読んでも純文学的な読みかたをするもので、僕は大抵、プロットの進行であるとか謎解きよりも、人間の描かれ方や描写、思想のほうを読んでしまうのですよね。もう十何年間云われ続けてきた純文学とエンターテイメントのクロスオーバーってのは、実はより純文学的になるものであると定義した方が、僕にとってはわかりやすくなる。そうなるともちろん、村上春樹・龍とか山田詠美のような作家の問題も出てくるけれど。しかしながら、それでも純文学は純文学で（以下略</p>
<h3>2003/12/12:あるいは</h3>
<p>こういう喩えはどうだろうかテスト。猫を犬と分類したい。そりゃあ分類したいなら勝手にすればよろしいが、猫は猫であり犬は犬である。これは価値観の話じゃなくて事実の話だろう。</p>
<h3>2003/12/12:感想</h3>
<p><q cite="http://www.geocities.co.jp/SiliconValley-Bay/8373/etc/ph2.html">倫理学と論理学は違う学問なのである。</q>それはその通り。また、この作者氏も述べているように、<q>事実命題と我々の理想や願望を表した広い意味での当為命題の２つからならば、当為命題を導くこと</q>はできる。で、徳保氏は、私の言っていることは<q>事実命題</q>だけだから、<q>当為命題</q>は導き出せていないと仰りたいのだろう。しかし、問題とする徳保氏の文章が一貫性を欠いているならば、私の主張も歪曲せざるを得ないのであった、また、それゆえわかりづらい点が生じたのは確かである。しかし、私は今日の記事で、変質した後の徳保氏の主張を、一つの事実命題と二つの当為命題から反論しつくしたと思っている。というよりもむしろ、徳保氏のほうは、事実命題そのものが間違っていたり知らなかったりしているのだから、そもそも話しにならないのである。</p>
<h3>2003/12/12:哲学談義</h3>
<p>徳保さんの備忘録に記事が紹介されているので読んでみる。徳保さんはカントやヒュームくらいは読んでいらっしゃると思うので、その前提で感想とかその代わりの引用とかをしてみたい。</p>
<h3>2003/12/12:おもろい</h3>
<p><a href="http://hotmail.s17.xrea.com/">NETZES</a>さん経由で<a href="http://www.charamil.com/">キャラミル研究所</a>の診断をやった。面白い。まず、僕の表の顔（オモテゲノム）は、<a href="http://www.charamil.com/matrix/bbs.php?id=3">COOL</a>とでた。徳保さんとの論争ではまるっきり別人のようだけれど、いつもはこんな感じです。ある意味徳保さん的。で、裏の顔（ウラゲノム）は、<a href="http://www.charamil.com/matrix/bbs.php?id=5">WILD</a>と<a href="http://www.charamil.com/matrix/bbs.php?id=10">GENERAL</a>と<a href="http://www.charamil.com/matrix/bbs.php?id=13">FEELING</a>とを併せ持った感じらしい。で、何が面白いといって、ウラゲノムってどう見ても相反するものばかりじゃないですか。それにも関わらず、僕を知っている人ならわかるけれど、どれも当たっているという謎。こういう確かに無茶な性格かもしれない。</p>
<h3>2003/12/12:アレ</h3>
<p>うちの記事はソースも一緒に見るともうちょっと楽しめます。</p>
<!--最近コメントアウトしている人が少ないので。というか、徳保さんのコメントアウトしてる喩えは悪すぎやしませんか。その前に私が喩えたアナーキスト云々で十分かと。-->
<h3>2003/12/12:要するに</h3>
<p>正統的な保守は保守と呼べるけれど、インチキな「保守」を保守と呼ぶことはできない。まあ勿論、それを一緒にしたいというわけのわからん価値観をもつのは勝手ではある。しかし、少なくともそれをもって一般論を述べたり、或いは意見なんて述べてはいけない。述べても、説得力のある意見や論理的な意見にはなり得ない。徳保氏が保守のあり方について（これは脇道だった）私とやりあって支離滅裂になったのは、当然なのである。</p>
<h3>2003/12/12:詭弁</h3>
<p>下記のように、徳保氏は論旨を忘却していたにも関わらず、自分は一貫した発言をしていると云うのを、なんというか、ご存知だろうか。それは、詭弁というのだ。</p>
<h3>2003/12/12:詰める</h3>
<p>話の続き。抽象論やたとえ話だとわかってもらえないようなので、具体論でいってみる。</p>
<p>例えば、今回のイラク戦争の時、産経新聞と朝日新聞は、徳保氏が「保守」vs「革新」と分類した図式ではなかった。程度の差こそあれ、ともに空爆賛成の立場をとった。これは、徳保氏の分類では説明がつかない。日本の保守主義は、アメリカがもたらした戦後民主主義的な概念及び産物に反対していたのだから、当然、今回の戦争でもアメリカを支持するならば、今まで展開してきた自分らの説に従ってなんらかの説明が必要であるはずだが、ない。また、朝日新聞を筆頭とするいわゆる左翼も同様で、今までアメリカを帝国主義の国と見なし、アメリカ的なるものへの反対は根強かったが、今回アメリカの側にまわったことへの説明がない。</p>
<p>以上述べたように、今までは確かに徳保氏の云う分類で事足りていたであろうが、そうはいかなくなっていると見なすべきなのだ。だから、小林氏が「ポチ保守」と云ったのは、それなりの正当性を認めることができる。それを、徳保氏は認めている。</p>
<blockquote>
<p>小林さんは産経新聞をポチ保守という新しいジャンルに分類したので、話はわかりやすくなりました。</p>
</blockquote>
<p>しかし、当初徳保氏はこう述べていた。</p>
<blockquote>
<p>小林さんの価値観を認めるなら、ポチ保守はいかにもポチなのだけれども、いわゆる保守派の価値観を認めるなら、小林さんのいっていることは虚論空論に過ぎず、顧みるに値しない。</p>
</blockquote>
<p>おわかりだろうか。<q>価値観</q>という言葉を一貫して使っているからといって、発言全体が一貫しているわけではない。徳保氏が最初に云っていたのは、「この論争（保守vsポチ）は価値観の違いだから、論理的に<em>どちらが勝つか</em>ということはありえない」ということだが、最近になって云い出したのは、<q>正統でない保守も（広義の）保守と呼んでいい</q>ということであり、「勝ち負けは価値観の違いでつかない」から、「分類は価値観の違いでである」に変質しているのだ。</p>
<h3>2003/12/11:続きの前に</h3>
<p>というか、そんなに保守がどうのこうのということばかり関心を持つのもどうかと思う。レッテルの貼りあいはあまり頭のよいことだとは思わない。だから、僕が問題としているのは、あくまで事実の問題として、少なくとも保守とは呼べる代物ではないと言うに過ぎない。</p>
<h3>2003/12/11:ループ・ループ・ループ</h3>
<blockquote>
<p>「正統な保守だけを保守と呼ぶのが当然だ」というのは、加納さんの価値観に立脚した意見です。「〜するのが当然」とは、<em>何らかの価値観に基づく判断</em>であって、少なくとも<em>事実ではない</em>。私は加納さんの価値観に賛同しないから、「正統でない保守も（広義の）保守と呼んでいい」といっている。</p>
<p>事実をいくら積み上げても、「当然」などという判断は生まれない。判断は価値観の介在なくして存在しえない。</p>
</blockquote>
<p><q>正統でない保守も（広義の）保守と呼んでいい</q>という結論になるのはおかしい。なぜなら、徳保氏は私の問いにこう答えたではないか。</p>
<blockquote>
<dl><dt><q cite="http://casa.s20.xrea.com/notebook/index.cgi" title="論旨　2003/12/10(Wed)">正統であるものの存在を認めるならば、それに準拠しない者は正統的ではないと言える。</q></dt><dd>いえるでしょうね。</dd></dl></blockquote>
<p>徳保氏は、正統ではない保守も保守だと云いたいのだろうが、笑止千万の主張だと言ってよい。ならば私が言ったように、「犬も猫も保守を自称しても構わぬという」ことになる。徳保氏は相変わらず無視しているが、これは「正統」に関する無知ゆえの虚言に過ぎぬ。それは以下の発言に端的に表れている。</p>
<blockquote>
<p>産経新聞を保守、朝日を革新に分類することについて、日本の言論状況では概ねコンセンサスが取れています。だからふつうは、「保守という言葉を発祥であるイギリス保守主義に限定した意味で用いていません」という但し書きなしで通用します。</p>
</blockquote>
<p>徳保氏はどうやら、<q>言論状況</q>や<q>コンセンサスが取れてい</q>ることをもって、保守の拡大解釈を行いたいらしい。つまりは保守主義の「正統」の歴史を全く理解していない。例えばギルバート・K・チェスタトンの『正統とは何か』においての「正統」とは何であるか。これは疑うべくもなく「キリスト教」でありその「伝統」であるが、日本ではキリスト教的な考えがわからないから、主に日本の保守主義では「伝統」を重視していたのである。だから多分産経新聞が「保守」と分類される時は、伝統主義的な、悪く言えば（私は悪いと思っていないが）アナクロニズムに由来するもののはずである。しかしながら今日の彼らの言論活動は、今までの主義主張をかなぐり捨てたかのようであり、もはや「伝統」を重視するという本来の保守のあり方から遠く離れている。それゆえ、保守を自任したり分類することは不可能になった。それを、無理矢理にでも「保守」に分類したいという欲望（価値）は、どこまでも拡散して行くものであり、「ここで止めましょう」ということが出来なくなるものだ。</p>
<p>本当はもうちょっと詰めたいけれど、これからバイトなので休止。</p>
<h3>2003/12/11:後藤</h3>
<p>「原色GAL派手に行くべ！」のPVはちょっと……。というか、語尾に「べ」をつけるのは北海道の専売特許にしてくれませんか。わざと言っても普通に標準語の会話に馴染むから、存在意義が感じられません。</p>
<h3>2003/12/11:リンク修正予定</h3>
<p>新サイトきたー。<a href="http://gehirn.fleugel.com/temperance/">Temperance</a>。前見たときはいきなり閉鎖とかでびっくりしていたんですが、いやはやよかった。しかも最近の文章は僕向きで（以下略</p>
<h3>2003/12/11:ところで</h3>
<p>聞くのも無粋でとぼけているようだから言わなかったのだけれど、なんで徳保さんは備忘録で更新しないのだろう？サイトバレ云々とかは、あるかもしれないけれど、WWWに存在している以上、すべてのリソースは等価らしいので、どこであっても同じだと思う。まあ、これだけ間があけばそうなってしまうという感じもわかるけれど。</p>
<h3>2003/12/11:コミューン</h3>
<p>白黒コミューンってないのでしょうか。ないなら作っちゃいますよ。</p>
<h3>2003/12/11:いい感じ</h3>
<p>最近ラヴァーフェニックスの「結婚しようよ」とPHONESの「TALK ABOUT TONIGHT」がお気に入りです。後者は僕らしい選曲かもしれない。犬神サーカス団はなあ、点数をつければ50点くらいかな。「裏を覗いてみれば出鱈目な世の仕組み」とか、「建前の教育」とか、今まで延々と云われ続けたことを歌われても。犬神サーカス団はそういう紋切り型が玉に瑕。</p>
<h3>2003/12/11:これはだめだ</h3>
<p>十二時頃に書いていた文章を全て破棄したい。酒呑んで書いていたから、文法もへったくれもないものになっている。さてどうしよう。</p>
<h3>2003/12/11:壊れる</h3>
<p>携帯が壊れた……。着信があっても音がならない。まあそれでも、この化石のような携帯が、よくここまでもったものだ。考えればあれは高校三年生のころ。あれから二年近く経っている。それにもかかわらず、まるで海で元気に泳ぐイルカのようにピチピチピカピカしているのは、あまり使っていないからなんだよなあ。</p>
<h3>2003/12/11:で、だ。</h3>
<p>価値観の相違って簡単にまとめているけれど、西尾氏の文章にしても、価値というような抽象的なことではなく、アメリカがイラクに侵攻なり侵略なりしたことについて書いているのであって、それの善悪だけを問題にしているのではない。善悪を云うにしても、そこにはかならず理由が存在している。そして、理由が存在している以上、そこには必ず論理が出現する。ここで価値観の問題が出てくるならば、収斂（秩序）を目指すもの（保守）と拡散（混乱）を目指すもの（ポストストラクチュアリズム）との対立しかない。収斂か混乱かのどちらを至高の価値とみなすかという点においては、価値観と云うのも、まあしようがないと言える。俺はアナーキストだぜと云っている奴に、サラリーマンの心得を説いても詮無い話なのである。</p>
<h3>2003/12/11:折り合い</h3>
<blockquote>
<p>加納さんの疑問は、加納さんが保守とみなさないものを私が保守と呼ぶところに端を発しています。</p>
<p>（中略）</p>
<p>私は、いかなる価値観の相違によって意見対立が生じているか、その構図を納得していただきたい。</p>
<p>「あなたの考えはわかりましたが、私とは相容れない考えだということもわかりました」というのが私の期待する着地点です。</p>
<p class="citation-origin"><cite><a href="http://deztec.jp/mtr/06/conservative.shtml">保守をめぐるやりとり(平成15年12月10日 私の希望)</a></cite></p>
</blockquote>
<p>なんだ、やっぱりわかっているじゃないですか、徳保さん。論点を見失っていないのにどうしてあんな文章になるのか不思議。私は<q><em title="強調引用者">価値観の相違</em>によって意見対立が生じている</q>わけではないと言っているので、<q>私とは相容れない考えだということもわかりました</q>とはなりようがないのですよ。というかそもそもの話、せっかく思いっきり意見をやりとり出来るwebという場があるのに、折り合いを付けて済ませようというのは、損じゃないですかね。そりゃあ社会で思いっきり上司に意見を言ったら次の日からはアレな状態になるでしょうが、そういう場ではないのですから、よいじゃないですか。ひょっとしたら着地点なんかないかもしれないけれど、それでいい。</p>
<h3>2003/12/11:電波再来</h3>
<dl><dt>電波</dt><dd>いくら速くレジしたってそんなに変わらないんだから云々……</dd><dt>俺</dt><dd>いや、結構変わるもんですよ</dd><dt>電波</dt><dd>変わらないんです！</dd></dl><p>じゃあなんのためにスキャン率があってなんのためにその基準があるんですかね。何も知らないくせに威張ってみたり知ったかふりをするのってみにくいですねー。つーか電波はもうたくさんです。来んなお前ら。</p>
<h3>2003/12/11:本当は</h3>
<p>もっと突っ込んで書きたいのですが、よくよく見ればループばっかりしていて、さすがに脱力ものでして、もう閲覧者の方に判断を仰ぎたいというのが半分本音だったりします。だって、どう読んだって徳保さんの主張はことごとく打ち砕かれているのは<q>明らか</q>じゃないですか<span class="hidden">(w</span></p>
<h3>2003/12/10:ループ</h3>
<h4>ループととぼけ</h4><p><q>これに対置される意見は「これは前提に関係なく論理でカタのつく話だ」のはず。</q></p>
<p>だから前からそう言っているではないか。「そこには価値観の問題は出現しないし、あるのはただ、事実の問題だけである」と。価値観の問題は、徳保氏の言うとおり、究極的には解決できぬ問題であるが、この論争では価値観ではなく事実を述べているだけだと。事実は（おそらく）普遍的で不変的なものであるはずだから、<q>論理でカタのつく話</q>である。</p>
<p>で、それを証明するために正統が云々とか引用が云々といった話を持ち出したのだが、徳保氏はとぼけているのか本当に分かっていないのか、とにかく認めたがらない。</p>
<p><q>加納さんの問題提起が私の本旨に関係ないことは、上記2項目について私がどんな回答をしたとしても本旨が微動だにしないことからも明らか。</q></p>
<p>どのように<q>明らか</q>なのかはもう面倒なので追求しないが、この問いに、</p>
<blockquote>
<dl><dt><q cite="http://casa.s20.xrea.com/notebook/index.cgi" title="論旨　2003/12/10(Wed)">正統であるものの存在を認めるならば、それに準拠しない者は正統的ではないと言える。</q></dt><dd>いえるでしょうね。</dd><dt><q cite="http://casa.s20.xrea.com/notebook/index.cgi" title="論旨　2003/12/10(Wed)">引用は公正な慣行によってしなければならないが、無秩序で刹那的な判断を推奨する徳保氏は、正統的且つ慣行的な引用を認めないのか</q></dt><dd>認めないなんていっていない。少なくともこの文書において、私の行っている引用は違法ではない。私は自説の展開に必要な引用しかしていませんから。</dd></dl><p class="citation-origin"><cite><a href="http://deztec.jp/mtr/06/conservative.shtml">保守をめぐるやりとり(平成15年12月10日 問題提起への回答)</a></cite></p>
</blockquote>
<p>このように答えた時点で、徳保氏の論は崩れている。それを、この論争を最初から追って説明してみる。</p>
<h4>ダイジェスト</h4><p>徳保氏は、最初このように述べた。</p>
<blockquote>
<p>小林さんの価値観を認めるなら、ポチ保守はいかにもポチなのだけれども、いわゆる保守派の価値観を認めるなら、小林さんのいっていることは虚論空論に過ぎず、顧みるに値しない。</p>
<p class="citation-origin"><cite><a href="http://deztec.jp/mtr/06/conservative.shtml">保守をめぐるやりとり(平成15年9月29日)</a></cite></p>
</blockquote>
<p>徳保氏は<q>価値観</q>と云っているが、実はそうではないのである。それは、徳保氏がついに認めたように、保守には正統があり、本流がある（これが<em>事実</em>。）から、「ポチ保守」が保守を自任したりすることはできず、ならば彼らの立脚点である保守的だという言論も崩れて当然だからだ。それを私は、「ちゃんちゃらおかしな、支点なき立場に過ぎない」と言った。まさにその通りなのである。また、徳保氏が、<q>私は保守派</q>(徳保氏は、小林氏らの立場を、ただ「小林」と分類し、西尾幹二氏らの言論を「保守」と分類した。<cite><a href="http://deztec.jp/mtr/06/conservative.shtml">保守をめぐるやりとり(平成15年9月29日)</a></cite>)と述べたことから、徳保氏の態度を私は問うとともに、「ポチ保守」が保守足りえない説明をした。それが「徳保氏への再反論」（2003/10/04）である。この時点では、私は徳保氏が正統的な保守のあり方を誤解しているものだと誤解していて、一生懸命それを説明していた。だから、見出しも「再<em>反論</em>」としたのだった。しかしながら、私が2003/12/09(Tue)に書いたとおり、まさか徳保氏がエドマンド・バークやチェスタトン等を知らないとは思いもよらなかったので、無駄な説教に終わった。</p>
<p>次に、徳保氏は、無知の中から私見を述べるようになる。しかしそれは、先程も書いたように、「保守」ではない上に、私が気を使って述べた言葉の数々（「<em>より</em>正確」や、「<em>なにほどかの</em>秩序」等）を、二者択一の問題に引きずりおろすような、論にもならぬものであった。</p>
<blockquote>
<p>既に述べた通り、伝統によって築かれた秩序と離れたところで、人は判断をすることがあります。そしてその判断に、人はしばしば自信を持っているものです。なぜ人間の判断は、そのように不安定な立場で行われるのか?　その答えは、「人間の不完全性」に求められるのではありませんか。</p>
<p><p>そもそも、人間が不完全なら、その人間の歩みもまた不完全であり、したがって伝統も不完全です。どこかに完全なものがあるとすれば、それが伝統の中に存在しない可能性は決して低くない。そう考えることに、私は疑問を感じません。</p>
<p class="citation-origin"><cite><a href="http://deztec.jp/mtr/06/conservative.shtml">保守をめぐるやりとり(平成15年10月4日)</a></cite></p>
</blockquote>
<p>賢い読者ならすぐにわかると思うが、私は<q>そもそも、人間が不完全なら、その人間の歩みもまた不完全であり、したがって伝統も不完全</q>ということを否定していない。しかしそれでも過去には秩序があった<em>事実</em>が<em>多数</em>ある（逆に言えば秩序が保てなかったこともあるということ）のだから、その中から智恵を見つけ出すのが<em>より</em>正確であり、そうすべきという立場が保守主義であると言っていた。これが「徳保氏を斬る」の「誤読」である。</p>
<p>すると徳保氏は、それらの指摘に殆ど答えず、自説を謳いあげるだけで、さらには、<q>まとめ</q>と称して他人の（それも極めて電波な）文章を長々と引用する(<cite><a href="http://deztec.jp/mtr/06/conservative.shtml">保守をめぐるやりとり(平成15年10月4日〜5日)</a></cite>)。私は殆どあきれ果て、「徳保氏を斬る2」を書いた。これは、徳保氏が全くの無知だということが分かったので、それを立証し、尚且つ徳保氏の論拠である価値観の問題だから論理では片付かないという論を否定するため、皮肉交じりの疑問を書いた。</p>
<blockquote>
<p>「<em>正しい</em>引用なんてあるのか」、と云ってみるがいい。「<em>最も確か</em>ではない、<q>五十歩百歩</q>だ」、と云ってみるがいい。</p>
<p><em>正しい</em>引用方法だって昔から読者に誤解を与えないようにと、ある程度原則化されている。それは<em>伝統・慣習</em>によってである。</p>
</blockquote>
<p>この文章を裏づけするように、<cite>著作権法第三十二条</cite>には、<q>引用は、公正な慣行に合致するものであ</q>ることが明記されており、これらの<em>事実</em>（伝統・慣習・慣行）は価値では揺るがされないものであること、それは正しいことであること、を、徳保氏はどう思っているのかと問うたのである。また、正しいHTML<ins>文章</ins>云々という話も、「正統であるものの存在を認めるならば、それに準拠しない者は正統的ではないと言える」ことを証明するためで、「ポチ保守」が保守たりえないという<em>事実</em>を、これを認めれば認めざるを得なくなるのである。しかし、私の持論を立証するために投げかけたこの疑問は、約二ヶ月もの間、放置（少なくとも人目に晒されて評価を仰ぐことはできない）状態だった。</p>
<h3>2003/12/10:誠実さを問う</h3>
<p><q>連想ゲームのような意見交換</q>とは何だ？徳保氏は他人の意見を相対化させ、高見にのぼってって悦に浸っているが、それを私が指摘したらそれは論争ではなく<q>連想ゲーム</q>だと云う。知識人とは、社会に対して時々助言を行う者のことであるが、それゆえ彼らは知識や言論に対して誠実であり、またそうであらねばならないのである。そのような人びとに対して、自分は斬られる覚悟も無しに（それが<q>ゲーム</q>ということだろう）、高見から評価を下すのは卑怯である。徳保氏は自分が卑劣漢であることを、わかっていないわけではない。もしわかっていなければ、（単なる<q>ゲーム</q>で事の真偽はどうでもよい筈だから）これほどまで「論争」は続いていない。自分が卑怯だと知りながらも相手を見下すのは、ただ不誠実であるだけでなく、罪なのである。</p>
<p><q>ところで、「キモイ」の語源は「気持ち悪い」です。</q></p>
<p>ああ、そうか。ありがとうございます。そうですよね。何回もキモイキモイ言っていたら、何がなんだか分からなくなってしまいました。</p>
<h3>2003/12/10:論旨</h3>
<blockquote>
<p>小林さんの価値観を認めるなら、ポチ保守はいかにもポチなのだけれども、いわゆる保守派の価値観を認めるなら、小林さんのいっていることは虚論空論に過ぎず、顧みるに値しない。これは話の前提をどうとるかという話であって、論理でカタがつく話ではないでしょう。</p>
<p class="citation-origin"><cite><a href="http://deztec.jp/mtr/06/conservative.shtml">保守をめぐるやりとり(平成15年9月29日)</a></cite></p>
</blockquote>
<p>なんと言ってもこれが論旨である。これには徳保氏も納得するだろう。それについて云々しているのだから、<q>意見の本旨とは関係ない部分に対する批判であることに気付く</q>はずもないし、そんなことに気づくのは単に読解力がないか、恣意的に文章を省いて読んでいるだけである。今は出かける前で一々指摘できないが、一気に反論すると、徳保氏は、私の皮肉に答えていない。当然である。答えられないのである。認めてしまえば、自説が崩壊することになるからだ。私が徳保氏に投げかけたのは二つ。</p>
<ul><li>正統であるものの存在を認めるならば、それに準拠しない者は正統的ではないと言える。</li><li>引用は<q>公正な慣行</q>によってしなければならないが、<q>無秩序で刹那的な判断</q>を推奨する徳保氏は、正統的且つ慣行的な引用を認めないのか</li></ul><p>これに答えないから、徳保氏はさらに曖昧な物言いのをする。</p>
<blockquote>
<ol><li>現状では、小林さん以外が「ポチ保守」というとき、その本来の適用範囲を超えた使い方をされることを避けられません。つまり、正統なポチ保守とそれ以外を腑分けする必要がすぐに生じます。語義の純化は適当なところでおしまいにすべきです。私は保守という言葉の多義性は、現状程度で問題ないと思うわけです。</li><li>言葉を分けるばかりではやはり不都合があって、小林さんと産経新聞をまとめて称する言葉もほしい。このとき、結局は保守という言葉以外に（但し書きなしで通用する）有力な候補がない。</li></ol><p class="citation-origin"><cite><a href="http://deztec.jp/mtr/06/conservative.shtml">保守をめぐるやりとり(平成15年12月10日 多義語)</a></cite></p>
</blockquote>
<p>リストにしているから理路整然として見えるが、それは見えるだけである。徳保氏にお聞きするが、<q>その本来の適用範囲</q>とはどこからどこまでなのか、<q>正統なポチ保守</q>とはいかなるものか、<q>現状程度</q>とはどれくらいのものか。このへん、ちっともわからない。わからないのは道理なのであって、なぜなら、それは<q>正統なポチ保守</q>なる珍妙な言葉が象徴しているように、徳保氏は「正統」であること、「保守」であることの本来の意味を知らないからだ。知らないから、曖昧にせざるを得ない。</p>
<h3>2003/12/10:そういうことか</h3>
<p><q>私の意図は第一に自説の補足にあって、加納さんの意見（の一部）への言及という形式は、そのために便利だから採用しているのです。</q></p>
<p>無茶を云う人である。論争とは自説を一人ででっちあげるものではない。相手の意見に対して自分の意見を戦わせず、どうやって議論なぞできるのか。都合のよい箇所だけを引用し、他は無視するというのは、議論でもなんでもない。</p>
<h3>2003/12/10:バレたか</h3>
<p>もうちょっとうまく文体変えればよかったのだけれどね。<!--http://ex.2ch.net/test/read.cgi/net/1065716232/235-->ちゃんとヲチしている人はわかるようなので安心というか謎。</p>
<h3>2003/12/10:変わった好み</h3>
<p>僕はわりと多くの女の子の中にいることが多い。別にモテるとかそういうことではなしに、ただ、女の子同士が喋っている様子を見たり、またはその中にいるのが好きなだけだ。僕は家系的にも女系だし、それゆえおばさんたちの中にいることが多かった。小さい頃の遊び相手ももっぱら女の子で、幼馴染も女だから、僕自身としてはあまり違和感がないのだ。また、そのお蔭かどうかは知らないけれど、口だけはかなり達者で、口喧嘩じゃ女の子にも負けないというあまりうれしくない特技までついてしまった。</p>
<p>しかしながら、これって二十歳過ぎたらちょっとやばいよなあと、最近思うようになった。だって、女の子が喋っている中で、男一人ニヤニヤしている様って、キモイじゃないですか。キモイよ。キモイ。なので、近頃はめったなことがない限り、そういう輪の中に入らないようにしているのですが、やっぱりなんか寂しい。僕は仲間内でゲームをする時も、自分でやるより人がやるのを見ているほうが好きなタイプなので、黙っていることはそんなに苦じゃない。でもそれは、一応輪の中にいるからであって、はなからいないのとは話が違う。</p>
<p>そんなわけで、こうすることにした。僕も話をする。これで万事解決である。キモクない。最良の答えだ。</p>
<p>ところで、キモイの語源ってなんですか。</p>
<h3>2003/12/10:パクリを公言したからと言って、その罪がなくなるわけではない</h3>
<p>わざとらしくアンチポップさんにリンクしたのは、blockquote要素の装飾を僕がパクったからです。<span title="いやらしい記述">しっかし何回見てもセンスいいなあ。けんたろさん。</span></p>
<h3>2003/12/10:川端の話</h3>
<blockquote>
<p>芥川龍之介が菊池寛に今東光を最初に紹介した時、菊池は「ふうん。これが有名な不良少年か」と興味なさげな素振り、後に川端康成が新思潮第 6 次の「新思潮」同人のひとりとして今を挙げると「今は駄目だよ」と否定した。川端は憤り「今東光を参加させないなら僕は止めます」といい放った。</p>
<p class="citation-origin"><cite><a href="http://d.hatena.ne.jp/antipop/20031210#1070985634">はてなダイアリー - アンチポップ&#64;菊チ</a></cite></p>
</blockquote>
<p>有名な話ですが、やっぱり興味深いというかなんというか。今東光は年をとっても不良であり続けたけれど、その今が、川端の図々しさや野太さに、毎回の如く驚いていたのも有名な話だ。今は、川端への追悼で、このように云った。</p>
<blockquote>
<p>霊界との交信を本気で信じていた不気味な天才</p>
<p class="citation-origin"><cite>「本当の自殺をした男」</cite></p>
</blockquote>
<p>川端にとっては、現実に「ある」ことなんて、大声で云わなくてもわかっていたし、わかりすぎていたのである。そんなものは厄介であると呟かざるを得なかった。それよりも、川端は、<q>霊界との交信</q>を本当にしていたようであり、オカルトのような次元の話を遥かに超えた場所に存在していた。そのような男が親友である今にとって、川端は恩人でもあり脅威の人であったに違いない。なぜなら、今の不良は所詮現実への背徳だが、川端は背徳を背徳たらしめる徳が存在せず、ただ「魔界」に住まうものであったからだ。</p>
<h3>2003/12/10:贈り物</h3>
<p><a href="http://casa.s20.xrea.com/images/jaian.gif"><img src="http://casa.s20.xrea.com/images/j-an.gif" alt="ブリーフ仮面からの贈り物" class="illust"></a></p>
<p>昨日kakatoからの贈り物を紹介したが、今度はさらに芸術的な贈り物が届いた。それがこの画像。</p>
<p>この画像をどうやって称賛すべきだろう。ドイツの国旗のような配色が、厳格さを際立たせているにも関わらず、ジャイアンのやさしさが伝わってくる。顔に覆いかぶさる線は、まるでジャイアンを切り刻むかがごとくであるが、これほど斬新な手法はない。なぜなら、この線は、「立体」に関する近代絵画の常識を、打ち崩したものであるからだ。よく見ていただきたい。線と線との交わりだけで、立体を演出して見せている。それだけではない。ちょうど「Z」形をしているが、それが相対するように配置され、尚且つ微妙な角度をつけることによって、顔全体の立体を細かく見せている。また、その単線的な輪郭にも注目すべきだ。まるで無造作に書かれているようだが、かなり計算されつくされている。まるでガウディの彫刻を見るようだ。そう、これは、ガウディが絵画の世界に舞い降りた作品である。私は、この作品を今世紀最大の作品として、推す。</p>
<p>P.S.わざとらしく書くのって大変ですね。</p>
<h3>2003/12/10:正統</h3>
<p><q cite="http://deztec.jp/mtr/06/conservative.shtml" title="保守をめぐるやりとり">私は私の価値観において、W3Cの仕様書の目指す方向性を支持しています</q></p>
<p>徳保氏はこの論争の趣旨を忘れてはいないか。この論争は、なにが保守の正統であるかを巡るものである。つまり、正統であるものを確認できればよい話で、その立場をとるかとらないかの話ではない。ただ、正統的な立場に立脚せずに行われた言論は、保守の名に値しないというだけだ。私が徳保氏に、なぜ正しいHTML<ins>文章</ins>を書かねばならぬのかと質問したのは、正統的なHTML文章のあり方を、徳保氏が認めていることを証明するためである。そして現に、徳保氏はそのあり方を、<q>価値観</q>という言葉を用いながら、認めている。だから、徳保氏が、レガシーマークアップを標準準拠のHTML文章とは認めるはずがないのは、道理なのである。</p>
<p>分かりやすくするために喩えるならば、W3Cの推進するHTML 4.01やISO/IEC 15445:2000等に準拠するHTML文章を書いている人を、<em>仮に</em>原理主義者と呼ぶならば、それらに準拠していない人は、原理主義者ではない、ということだけなのだ。</p>
<p>私がこの論争で問題としたのは、「ポチ保守」らが保守と名乗る僭称のほどと、それを支持するという徳保さんの思考だ。そこには価値観の問題は出現しないし、あるのはただ、事実の問題だけである。</p>
<h3>2003/12/09:調子悪い</h3>
<p>実は今日、文章を書く調子が悪くて、それで遮二無二なって書きまくっているんだけれど、一向によくなりません。まあ今までと変わらんじゃないかと云われそうで怖いのですが。</p>
<h3>2003/12/09:許容</h3>
<p>私は、テキストサイトの管理人が、まるでお題目のように、「日付の詐称は許さない」とか、「一度アップしたものを引っ込めることは許されない」というのを信じない。なぜなら、そもそもネットとはそういう自由に関して、慣習という形でしか規定できないからだ。「慣習とは何か」を考えなかったり、あるいは否定するような者が、そういうことを<em>本当に</em>遵守できうるはずがない。だから、私は、日付を詐称したり記事を削除する行為は非難しない。その代わり、半永久的にアップしたものについて、その言論は誠実であらねばならないと主張する。もっとも、日付を変え、記事も削除し、言論も不誠実であることも多々あり、そのたびに怒っていては身がもたぬから、無視することも多いのだけれど。</p>
<h3>2003/12/09:無視</h3>
<p>某所でネット依存度チェックをやってみたら、98%とかふざけた結果でたので、見なかったことにします。</p>
<h3>2003/12/09:メモあるいは私信</h3>
<p><a href="http://www6.ocn.ne.jp/~katoyuu/">カトゆー家断絶</a>経由<a href="http://www.dengekionline.com/data/news/2003/12/07/c985852bae5ac9d6e4179a96205235a1.html">「サクラ大戦 2004年新春歌謡ショウ」は、花組メンバーが舞台に出ずっぱり!?</a></p>
<h3>2003/12/09:贈り物</h3>
<p><a href="http://casa.s20.xrea.com/images/gift-big_pic.jpg"><img src="http://casa.s20.xrea.com/images/gift-pic.gif" alt="kakatoからの贈り物" class="illust"></a></p>
<p>掲示板に登場している人を取り上げたので、こちらも。</p>
<p>kakatoという奴も時々いるが、あいつは、高校の頃からの友人で、今はイギリスに留学中である。デザイン関係の大学にいるらしいが、詳しくは知らない。で、そいつが、ここに移転して早々、うちのイメージで贈り物をくれた。それがこの画像。クリックすると本物がでるので、どうぞ見てください。背景が白で純潔なふりをしながら、かなりごちゃごちゃな思念をもったこのサイトを表しています（嘘</p>
<h3>2003/12/09:関連性</h3>
<p>一昨日、掲示板にも登場しているsmileと、バイトの休憩時間に話していて、爆笑してしまった。彼女によると、学校で、「保育と親鸞」(大意)についてのレポートを課せられたというのだ。普通誰でもギャグでしかないと思うものだが、いやいや、本気であるらしい。</p>
<p>このようなものは極端な例だが、精神分析から文学を述べてみたり、文学から社会情勢を述べるのも、殆ど同様のギャグとみなすべきだ。小林秀雄が云っている。</p>
<blockquote>
<p>精神分析とやらを批評に応用したがる。さぞいい切れ味だろう。心理学というものは頭に来る酒みたいなものだ。安かったと思ってあとできっと後悔する。私は両方とも性懲りもなく経験して来た。</p>
<p class="citation-origin"><cite>「批評家失格T」</cite></p>
</blockquote>
<p>吉本隆明お得意の「この文章は今の社会情勢を映す鏡だ」なんてのは、商売でやっているのだろうが、本気で信じてはいけない。関連性なんてのは、どこにでも見つかるものだ。道端に落ちている小石をみて、「これは子供が地面に投げて遊んでいるから角が鋭角になっている、これはつまり現代の子供がストレスを感じている証拠だ！学校は少人数制にしてガス抜きを云々」などと云うのと同じである。まあマスコミに登場するコメンテーターなんかだと、本当に云いそうだが（というか後半は某社会学者が本当に云っていること）。</p>
<h3>2003/12/09:微々たる更新</h3>
<p>yuさんのサイトが移転する模様なので<a href="http://casa.s20.xrea.com/links.html">links</a>を修正。移転先は<a href="http://feel.cheap.jp/">.slow ゆったり生きることは可能か？</a>です。サイト名の疑問符に僕なりに答えると、ゆったり生きることは可能でも、そうとなると退屈であると思うのが人間というものではないかと。救いようのない猥雑さの中で生きる人間は、ゆったりしたものを求めても、やはりその中から抜けだせない。そしてなにより、インターネットそのものが、我々の逃げ道を塞いでいる大きな原因の一つである。僕は、どうせ逃げることなんてできやしないんだから、トコトン付き合ってやろうじゃないかと、そういうスタイルを昔から作ってしまったので、ゆったり生きるという思いとは無縁かもしれない。ただ、そう構えてみると、中々心に余裕ができるということも事実。スタイルとは、すなわち見のほどこし方であるから、定型化されたものゆえ、安心感が生まれる。yuさんが述べられている某ニュース番組なんかが典型で、ファーストに対抗すべくスローというスローガンを持ち出すのは、あまりに単純すぎると思う。単純なのは単純な思考しかしていないからだが、そこに信ずるべき価値はない。ファーストに動いていても、考えようによってはスローに生きることも可能であるはずだ。それがすなわち、yuさんの実行せんとすることだと僕は解釈している。</p>
<p>それと、全然関係ないですが、僕がリンクにコメントを書かないのは、このように長ったらしくなってとてもやっていられないからです。</p>
<h3>2003/12/09:知的誠実</h3>
<p>徳保さんとの最初の手合わせの頃は、徳保さんは小林・西部の思想が受けいることができないから、あの文章を書いたのだと思っていて、それを前提に話を進めていたら、なんのことはない、ただ知識がないだけだと分かった。私は徳保さんの記事に言及する時、徳保さんの書いたものに一通り目を通したが、徳保さんにはそういう誠実さがない。彼らがどうして論争しているのかを言及するならば、自分もそれなりの知識を得ようとするはずだ。それをせず、さらには価値観の問題などといって人の主張を相対化させることは、失礼なことだと思わないのだろうか。思わないならば、徳保さんの人間性は、サイトバレ以上に疑われることとなる。</p>
<p>私はあまり評価していないが、立花隆というジャーナリストがインタビューに行く時、相手の書いた本には殆ど目を通すといっていた。それがインタビューする者の最低限の心構えというものだ。論争にしろ同じで、相手のこと、相手が支持なりなんなりすることについて何も知らずに挑むなど、考えられぬことだ。徳保さんの文章は、<q>思いつきを適当に組み合わせたモザイク調</q>であるらしいが、それは結構にしても、良質なモザイクは決して適当に作られてはいない。ただ様々な事物をとりこむだけならば、それはモザイクではなく単なるごみだめにしかならぬ。</p>
<h3>2003/12/08:正統であるということ</h3>
<blockquote>
<p>価値観の違いに根ざす問題だからといって、端から対話を拒否するのは悲観的に過ぎます。</p>
<p class="citation-origin"><cite><a href="http://deztec.jp/mtr/06/conservative.shtml">保守をめぐるやりとり</a></cite></p>
</blockquote>
<p>徳保さん、言及すべき記事は、まずはそこではないですよ。「徳保氏を斬る2」の「保守ということ」でしょう。順番がまるで違うじゃないですか。私の文章は、そこを起点にしているから、そこに言及しないとだめです。</p>
<p>まあそれでも一応話を進めると、徳保氏は単に知識がないだけなのだ。保守主義とは、イギリス保守主義からできたものだということを、徳保氏は知らない。だから、そこに価値観も糞もありはしない。徳保氏は言葉の定義が曖昧で、それを弁護するために屁理屈を云っているに過ぎないのだ。徳保氏のように保守という言葉を、「守る」という辞書的な解釈だけで済ませようとするならば、徳保氏が最初に定義した<q>革新</q>だって、<q>国民の生命・財産</q>を守るらしいから、それだって保守派と云える。それならば犬も猫も保守を自称しても構わぬというものだ。</p>
<h3>2003/12/08:再開・引用</h3>
<blockquote>
<blockquote cite="http://casa.s20.xrea.com/notebook/index.cgi" title="徳保氏を斬る2　2003/10/06(Mon)"><p>徳保氏よ、引用は<em>正しく</em>行いなさい。ブロックレベル要素で引用したならば、文中ではインライン要素で、そのまま引用しなさい。</p>
</blockquote>
<p>ひょっとすると、相手の言葉を自分の解釈で置き換えること自体を批判されているのかもしれないけれど、それは加納さんも（ある程度）なさっていること。</p>
<p class="citation-origin"><cite><a href="http://deztec.jp/mtr/06/conservative.shtml">保守をめぐるやりとり</a></cite></p>
</blockquote>
<p><q>加納さんが正しいと思う引用の仕方について、私は興味があります</q>とのことなので、この論争においてはあまり意味のある補足とは思えないけれど、書いてみる。</p>
<p>ある発言に関して言及する場合、HTML文章では、そこをまずblockquote要素で明示する。そして、その中から個別の<em>文</em>に言及する場合は、q要素を用いる。そうすることによって、厳密に相手の主張を追うことが出来る。徳保氏は、平成15年10月4日の記事において、blockquote要素で<em>特定の</em>私の文章を取り出し、そこからただ自説を展開するだけであった。それでは、私の書いた文章全体、なかんずく2003/10/04(Sat)の記事に関する言及にならない（具体的には私が個々の記事について指摘した「誤読」の内容）と言っているのだ。</p>
<p>というか、私の言っている引用云々の話しなぞ、ほとんど仕様書内に書かれていることだけだから、後は引用者の態度が問題であるというに過ぎない。徳保氏は、それをしていないと私は言っているだけだ。また、その態度とは、それもまた法律によって規定されていることも多々ある。例えば、引用は<q>公正な慣行</q>に基づいて行わなければならない。だから、<q>慣行</q>よりも<q>無秩序で刹那的な判断</q>を支持する徳保氏は、正しい引用法なんぞないと仰るのか、という私の皮肉も、そこにはあるのだ。</p>
<h3>2003/12/08:気づく</h3>
<p>徳保さんからのレスを発見。<a href="http://deztec.jp/mtr/06/conservative.shtml">保守をめぐるやりとり</a>。というか、日付の平成15年10月7日って嘘じゃないですか。</p>
<h3>2003/12/08:だめぽ</h3>
<p>久しぶりに登録ミス（割引のし忘れや個数間違い）を連続して、昨日はかなりへこんでいました。3・4週間一つもなかったのに、こういう時に限って客に「いつもなんだから、もう。返金するのに時間かかって大変でしょう」って怒られて、非常に遣る瀬無さを感じておりました。前までのミスは俺じゃねえっつーの（なんて言い訳は通じないのが社会）。ああ最悪。</p>
<h3>2003/12/07:買った本</h3>
<ul><li>『本居宣長』小林秀雄著(新潮社)</li><li>『無私の精神』小林秀雄著(文芸春秋)</li><li>『夏目漱石』江藤淳(勁草書房)</li><li>『日本の名著8 日蓮』(中央公論社)</li><li>『日本の名随筆73 火』古井由吉編(作品社)</li><li>『日本の名随筆5 陶』白洲正子編(作品社)</li></ul><p>かなりオーソドックスですが、実は実家にあるものも何冊か。『本居宣長』も補記も含めて全部読んだことがあるのですが、さっぱり内容を覚えていないので、また買いました。あと、小林のドストエフスキーやモーツァルト、ゴッホのあたりの評論も、手元になかったので、全部入っている『無私の精神』も購入。江藤さんのも途中まで読んだんですが、それから読んでいないので、改めて読み直そうかと。まあ後はごにょごにょ。</p>
<h3>2003/12/07:クリスマス仕様</h3>
<p>よく、イベントごとに一時だけスタイルを変えるサイトがあるけれど、あれってよいですよね。なんかいっせいに同じ課題を皆が競っているように見える。クリスマスも専用のスタイルを作るサイトもあるだろうなあ。うちもやりたいのですが、季節に左右されるデザインではないので、あまりしたくないというか、ただ面倒なのですが。やろうと思えば出来るけれどね。ヘッダ部分を赤と緑にするとか。</p>
<h3>2003/12/06:人生論</h3>
<p>たまには生き方について語ったりしないと、文章が現実離れしているように見えるので、書いてみたが、私は、人生論なんて下らないと思っている。人に生き方を教えてもらおうという時点で、その人の人生は終わっている。終わっている人に、語ることなんぞありはしない。</p>
<p>私は常々、スタイルを持つことが重要だと言い、また、実行せんとする者だが、そんなものは誰かから教わったものではない。いや、教わったにしても、直接聞いたり読んだりしたわけではない。自分の尊敬する人物を観察し、考察し、いくらか実行し、そうして導き出したものである。そういうものを、文章なり言葉なりで伝えるのは無理であるし、伝えられたとしても、その人の血肉になるうるものにはならない。で、あるから、人生論とは語り手の生き方の表明というだけに止まざるを得ないのである。そんなものは、ただ自意識が徹底していないだけなのだ。</p>
<h3>2003/12/06:感傷</h3>
<p>誰しも若い時は、感傷的な気分に陥いるものだ。しかし、年をとるにつれ、そういったものはみっともないものとして、捨て去ろうとするはずだ。私はそれが正常な大人だと思う。いつまでもセンチメンタルでいたいという人間は、結局、自分が恋しいだけなのだ。自分を哀れむために、自分のために泣くのだ。そういう人間は、悲しむべき人のために、悲しむことが出来ない。それは冷酷だ。</p>
<h3>2003/12/06:花の好みに人柄あり</h3>
<p>なんの根拠もなく思いついたのでメモ。人は、好きな花が、西洋のものであるか、日本のものであるかで、殆ど二つに性格が大別されるように思う。その二つがなんであるかはもうちょっと整理しないと分からないけれど、とにかく、この二つの感性が一つになることは、殆どないのではないか。すり合わせて妥協点を見つけることはできても、心底認めることは、できないのではないだろうか。もちろん、根拠がないのでなんとなくそう思っただけなのだけれど。</p>
<h3>2003/12/06:手直し</h3>
<p>CSSをちょっと手直しした。私としては、リンクの色が気に入らない。本当はデフォルトの色に近いものにしたかったのだが、どうもこのサイトの配色と合わない。あそこを変えられれば、insもデフォルトに近いものにできるのに。</p>
<p>で、今回私が一番気をかけたのは、デフォルトの状態をできるだけ残すということにつきる。CSSオフの時のUAのレンダリングは、UAごとに違うと言えども、かなり考えつくされたものであるから、構造美というものがあり、これを利用せぬ手はない。これに気づいたのは、6thスタイルをやめ、ISO-HTMLに以降する時、ノートブックで言えば、丁度徳保さんと論争していた時である。一時期、CSSの適用をやめ、素のHTML文章をサイトインデックスに表示していたが、その時である。</p>
<p>勿論、デフォルトに近いものが優れたCSSであるという短絡的な言い方はしないが、それでも、下手に弄って要素の違いも分からぬようなものより、ずっと優れている。私はデザインの才能がないから、こういう方法が一番最良のものに近くなるはずだ。</p>
<h3>2003/12/06:買い物</h3>
<p>今日は朝から買い物の予定。神保町に、友人と古本漁りをする。実家にある何千冊か分からぬ本の山を想像しつつ、それを今手元にある本と、新たに購入する本とをあわせて考えると、実に暗澹たる気分となる。もはや一箇所にまとめて置くことなぞ考えてはいられない。</p>
<p>それにしても、あれだだけ本を買いあさっていた私が、東京に来て一度も神保町に足を運んだことがないのはどう考えてもおかしい。また、そのため、いくまでに道に迷わないかも心配である。</p>
<h3>2003/12/05:哀れむ</h3>
<blockquote>
<dl><dt>平成十五年十二月四日</dt><dd>「諸君!」で田久保忠衞氏と西部邁が對談。田久保氏が西部の「テロ」と云ふ用語の定義を迫ると、西部は何だかんだ言つて話を逸らしてしまふ。</dd><dd>西部ら「反米保守派」は、「正しい用語」と稱しつゝ、單なるレツテル貼りをしてゐるに過ぎないのである。</dd></dl><p class="citation-origin"><cite><a href="http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/omake/diary.html">闇黒日記</a></cite></p>
</blockquote>
<p>よくもまあしゃあしゃあとこんなことが云えたものだ。これが<q cite="http://members.jcom.home.ne.jp/pctips/Tondemo/" title="「トンデモ」な「ホームページ入門」を斬るコーナ">「間違つてゐる」と言ふ際には、間違つてゐる理由をきちんと説明した積りです。</q>と誠実な言葉を記した男の書くことか。一体どのように<q>話を逸らして</q>いるのか、引用もせずただ<q>レツテル貼り</q>と決め付けるだけである。野嵜氏は、どちらが先にレッテルを貼ったのかも知らないのだろうか?いや、そんなことはあるまい。あれだけの読書の人だ。知らないわけがない。そうであるならば、野嵜氏が恣意的に文脈を省いて批判しているとしか考えられまい。これは今回だけではなく、前にもあったのだが。</p>
<blockquote>
<p>「発言者」で西部邁氏が小林よしのり氏に尻尾を振つてゐた。</p>
<p>「ポチ保守」と言ふ西部氏自身が小林氏のポチになつてゐる。</p>
<p class="citation-origin"><cite><a href="http://noz.hp.infoseek.co.jp/diary/20021002.html">闇黒日記(平成14年10月10日)</a></cite></p>
</blockquote>
<p><q cite="http://noz.hp.infoseek.co.jp/diary/20020403.html" title="闇黒日記(平成14年4月15日)">根據なんてないんですよ。單に、</q>西部邁<q>に惡い印象を與へられれば良いんです、あの人にとつては。</q></p>
<p>またはこうも言おうか。<q>人は自分を否定すべき文句でもつて、他人を罵る。</q></p>
<h3>2003/12/04:文体</h3>
<p>文体を意識的に変えても、使える語彙や句読点の打ち方、接続詞の入れるタイミングなど、まるで一緒なので、やっぱり僕は僕の文章しか書けないのでした。それが良質なものかどうなのかは別として。</p>
<h3>2003/12/04:お話の体験</h3>
<p>この間童話について書いた。殆どの人は、空想とか、理想とか、そういうものを鼻で笑うけれど、僕は、そういう人たちはかなり損をした人生を送っているのだな、と思う。きっと彼らは、ドラマチックな場面に遭遇した経験がないのだろう。信じられないことや、まるで後ろでBGMが鳴っているような場面を、経験したことがないのだろう。そしてさらには、経験しているにも関わらず、そうと知らずにいる感受性のなさが原因とくれば、もはや救うところなしといった感じだ。今僕はわざと紋切り型の表現で書いたのは、実のところ、こうとしか言いようのない場面が、実際に存在するのだと言いたいからだ。泣きじゃくりながら女の子に本気で首を絞められたり、クリスマスに最悪な出来事が起こったり、とにかく良くない場面かもしれないけれど、やっぱりお話のような体験なのだ。</p>
<p>嘲笑というのは、自分が弱いからするのだ。臆病なのだ。彼らは自分の経験の少なさを知っているから、嘲笑ったり皮肉を云ったりしている。そうとわかってしまえば、彼らを哀れむことができて、僕達はゆっくりとお話の世界で戯れることができる。</p>
<h3>2003/12/04:同感</h3>
<blockquote>
<p>多くの場合、「ごめん」という言葉に意味とか効力があるとは思えない。どうしてなのかは自分でもよくわからないけれど、その場しのぎのごまかし程度にしかならない軽さを感じてしまう。反射的に「ごめんね」なんて言えるやつはずる賢いに違いない。</p>
<p class="citation-origin"><a href="http://www.katch.ne.jp/~iso3329/days/200311.html">Days(2003/11/29 - Sat.)</a></p>
</blockquote>
<p>極めて同感。多少自意識の働く人なら、謝ることが、実は大して反省していないからであることを承知しているし、それゆえ軽々しく口にはできないのだ。ただまあそれは男の方に強くでる傾向で(以下自粛</p>
<h3>2003/12/04:更新情報</h3>
<p><a href="http://casa.s20.xrea.com/weblogs/iso_design.html">ISO-HTMLでのデザインを模索する</a>をアップしました。本当はノートブックに書いたんだけれど、長くなったので。というか最近これで一つのコンテンツができるというのが多いな。</p>
<h3>2003/12/04:宮崎・福田アンド……</h3>
<p>いつだったか宮崎哲弥が朝生に出た時、そうだ、あれは9・11テロの時だった、面白い発言をしていた。宮崎はその時小林・西部から突き放されて（犬死論争）西部氏にはあまりよい印象を持っていないにも関わらず、こう叫んだ。</p>
<p>「これはあきらかにグローバルスタンダードの崩壊ですよ!昔から西部さんが予言していたことが、現に起きたんだ」</p>
<p>これを、言論の誠実とみなすのは早計である。宮崎はもっと厄介な人物だ。彼は正しいことを正しいというだけでは、終わらない人なのだ。象の鼻は長いといって満足するような人ではない。</p>
<p>同じように福田和也もそうで、あちらに媚を売っているかと思えばすぐにこちらに媚を売るというような人で、それをもって非難する人が絶えないわけだが、宮崎もそれに近い。小林の戦争論3が出た時に、戦争論を批判したいた宮崎が、今度は支持するというようなアクロバティックな行動に出たのも、同じ文脈でみるべきなのだ。ただ、そういう芸当では福田のほうが上で、ちゃんとかぶききっているが、宮崎は、やっぱりいいところのおぼっちゃん、インテリが悪ぶっているようにしか見えないところが弱い。まあ、凡百の糞インテリどもよりもマシであるのは、正統であるものを認めるためには、異端を自ら演じるという芸ができるからなのだろう。逆に、なんの自意識も持たず、元気よく正しいことを書いている御人は、そりゃあ幸せなんだろうが、それまでであって、才能も何もない物書きで終わっているのは道理なのである。今待たれるのは、正しいことを書き、尚且つ道徳的であるが、それを半ば偽善として演じることができる人だろう。</p>
<h3>2003/12/03:童話を巡る論考</h3>
<p><a href="http://folio.daa.jp/">Folio</a>の第三号の特集の題名を見ていて、ふと思うところがあったので、ちょっと書いておきたい。</p>
<p>子供の頃に夢中になった童話は、大人になると、空想として、または児戯として、彼らの頭からは廃され、彼らがことあるごとに云う「現実」とやらで、頭は一杯になる。そしてその現実とは、金であり、人間関係であり、仕事であり、家庭である。しかし私は、結局彼らも童話に生き、童話で育ち、童話で死ぬ存在だと思っている。</p>
<p>G・K・チェスタトンが、かの著『正統とは何か』の「おとぎの国の倫理学」で指摘しているが、なぜおとぎ話が面白いのかといえば、それは主人公が正常であるがゆえに、まわりで起きるおかしな現象に対して挑むからであり、そもそも主人公がおかしいならば、挑むものはなくなる、つまり、おかしいものをおかしいと判断することが、大人の一つの条件だとすれば、即ちそれは童話の法則であるに違いないということだ。</p>
<p>子供が見る空想は、因果なき空想ではない。これは当たり前である。そもそも因果なるものを、いかに証明しようとしても、できうるはずがないからだ。そうであるならば、現実なるまったくもって不可解な場において、「理想」をただ「夢見がちな少年の空想」として切って捨てるほど愚かなことはない。</p>
<p><a href="http://folio.daa.jp/03/">Folio vol.3</a>の小見出しには、こうある。<q>童話に浸る 童話に遊ぶ</q>と。なるほど、まったくもって正解だが、<q>浸る</q>そのもの、<q>遊ぶ</q>そのものが、すでに我々の周りにあると知らなければ、やはり同じあやまちを繰り返しているに過ぎないのだ。</p>
<h3>2003/12/03:納得</h3>
<ul><li><a href="http://www.geocities.co.jp/SiliconValley-SantaClara/1308/">CSSでイケてるデザインサイトリンク集2</a></li><li><a href="http://thumbnail.dotnote.jp/standard_s.php">CSS でイケてるデザインサイトリンク集2(サムネイル版)</a></li></ul><p>最近無茶なカウントが多発していて、何事かと思っていたら、noteさんのカスイケリンク集2のサムネイル版が、ニュースサイトに取り上げられていたわけだ。なんか知らんがうちもリンク集に入っているので、そろそろ<a href="http://www.geocities.co.jp/SiliconValley-SantaClara/1308/banner.html">ニョォォォォ!!バナー</a>でもつけようかな。</p>
<h3>2003/12/02:大学について</h3>
<p>私が大学が嫌いなのは、講師や教授がくだらないと思っているからだ。なんと尊大で不遜な物言いかと罵られることうけあいだが、人前で「私はご飯を炊いたことがない」とか「実は自転車に乗ったことがない」などと云っているのだと知れば、そこそこ納得してもらえるかもしれない。</p>
<p>もちろん、そういうのは極端な例だが、彼らのように或る専門を持って職とする人間は、たいていの場合、一般生活者(庶民)の常識を持ち合わせていず、朝会えばあいさつをし、通り際には会釈をするというような感覚までも、人によってはない。今手元に資料がないので確かではないのだが、同じようなことを西部邁氏が云っていた。何人かで集まれば、普通は天気の話など世間話をするものだが、大学人が集まればただ沈黙するだけだという。彼らは専門的な知識だけを肥やしてきたから、人と付き合うという智恵が殆どないのだ。そんな人間に教わることなぞ、たかが知れているではないか。それよりも自分で本を読み、解釈し、文章にするほうが、何倍も勉強になるというものだ。</p>
<h3>2003/12/02:芸術</h3>
<blockquote>
<dl><dt>平成十五年十二月一日</dt><dd>惡い藝術は、充足感を與へるやうで、却つて現實に不滿を生じさせるものである。</dd><dd>良い藝術は、無闇な幻想を人に與へたりはしない。</dd></dl><p class="citation-origin"><cite><a href="http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/omake/diary.html">闇黒日記</a></cite></p>
</blockquote>
<p>芸術に良いも悪いもない。そういう価値基準を持ち込むのは、芸術に対する無理解の表れである。</p>
<blockquote>
<p>作品から思想ばかりを血眼になってあさっている態の評論は、見た目がどんなに痛烈にみえようが、所詮お上品な仕事だ。作者の臭いとこにも触れはしない。骨のある作家なら舌を出す。「私は、手袋をはめた手で、仕事をいじられたかない」</p>
<p class="citation-origin"><cite>「批評家失格T」 小林秀雄</cite></p>
</blockquote>
<p>芸術が美しいとか、なんとかと云って悦に入るくらい簡単なものはないが、そもそも芸術とは人が思うよりも美しくもなんでもないものだ、と言ったのも、小林秀雄であった。</p>
<p>野嵜氏は小林を評して次のように云っている。</p>
<blockquote>
<p>今日出海によれば死の直前、小林は病床で、セザンヌの「森」を見つめて身じろぎもしなかつたと云ふ。小林のゴッホに關する評論は、日本人がゴッホを持てはやす一因となつてゐるのであらう。しかし、ゴッホのファンが小林ほどにゴッホについて考へた事は少いだらうと思ふ。死ぬ間際の小林は身じろぎもせずに繪を見つめたが、そのやうに繪を見つめる人間は日本に何人ゐるだらうか。</p>
<p class="citation-origin"><cite><a href="http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/KOBAYASHI/hihyo.html">小林秀雄の批評に就いて</a></cite></p>
</blockquote>
<p><q>そのやうに繪を見つめる人間</q>を<q>信ずる</q>ならば、野嵜氏も<q>そのやうに</q><q>見つめ</q>なければならない。論争上の流れであったとしても、安易に良い悪いを云うのは、ただの思考の不精だ。</p>
	<h2 id="FOOTER">この文書について</h2>
	<dl id="STATUS">
		<dt>公開</dt>
		<dd>2003-12-02</dd>
		<dt>最終改定</dt>
		<dd><!--#config timefmt="%Y-%m-%d" --><!--#flastmod file="200312.html" --></dd>
		<dt>制作者</dt>
		<dd>加納　景 &lt;<a href="mailto:%77%65%62%6D%61%73%74%65%72%40%70%6F%65%73%69%61%2E%6A%70">webmaster&#64;poesia.jp</a>&gt;</dd>
	</dl>


</body>

</html>