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<h2 id="top">EV.Cafe　超進化論</h2>
<blockquote title="『EV.Cafe　超進化論』　村上龍　坂本龍一　（講談社文庫）　P84">
<p><em>坂本</em>　だから、内部的な言語というか、内部を想定さすようなシステムとしての言語というのが今だ力があってね。</p>
<p><em>村上</em>　力があるっていうか、もうそれしかないんだよね、たぶん。</p>
<p><em>坂本</em>　つまり、それはまだ生きていて、外部的な言語というのかな、それはもう数値に置き換えられてさ、コンピューター言語としてほとんどできていくわけだから、内部的な言語のほうに言語自体が押しやられていって、どんどん言語が閉鎖的になってるって感じが僕はする。僕は内部があるとかっていうことを信じてるわけじゃないけど。</p>
</blockquote>
<blockquote title="『EV.Cafe　超進化論』　村上龍　坂本龍一　（講談社文庫）　P157">
<p><em>浅田</em>　フランス語とかイタリア語とかはかなり統一性が強いんですよ。それに比べて、英語はムチャクチャなんだよね。大体ノルマン・コンクェストとかそういうことを経て出来上がってるから、そもそもハイブリッドなところがある。そういう異種交配による雑種性が、例えばシェークスピアからジョイスに至るあのムチャクチャにポリグロット（多言語併用的）な言語活動のこやしになってるんだよね。</p>
<p><em>村上</em>　そうだ。</p>
<p><em>浅田</em>　今のニューヨークなんてわりとそういう感じだし、映画の「ブレードランナー」に描かれた二〇一九年のLAというのもそういう感じじゃない？ああいうのは、言語的生産性というものが今後とりうる唯一の可能な姿のような気がするね。</p>
<p><em>坂本</em>　交通の一つとしてのね。</p>
<p><em>浅田</em>　英語自体にすら統一性がないのであれば、日本語がそういうハイブリッドな中に入っていくというのは、もちろんいいかどうかは別として、もはややけくその事実として認めざるを得ない。</p>
</blockquote>
<h2>生まじめな戯れ</h2>
<p>記号の街道を旅するものを三種（第一は専門学の旅人、第二は記号学の旅人、第三は解釈学の旅人）に分け、作者の立場と思想を語る文章。文中の引用はチェスタトンがニーチェについて語った箇所。</p>
<blockquote title="『生まじめな戯れ』　西部　邁　（筑摩書房）　P93">
<p>第一種のように強情でもなく、第二種のように傲慢でもないこの第三種の旅人は、いったいなにを頼りにすれば、信仰と懐疑あるいは受容と反発の二面作戦をつづけることができるのか。たぶん、「世間一般の道徳という巨大な実体」を頼りにしてである。というのも、世間そのものが信仰と懐疑との縦横にはしる旅路にほかならず、そしてそこにおける道徳とは旅の解釈学的方法について最も確かな経験を伝承してくれるものだからである。</p>
<p>しかし現代において、そんな世間もそんな道徳もとうに瓦解してしまったのなら、話は別である。もしそうなら、人間の記号化能力という始点も終点もない不条理の街道をひたはしる人びとの、つまり記号学の旅人たちの狂気にも言い分があるというわけである。</p>
</blockquote>

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