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	<title>説明とは何か -Poesia</title>
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<h1>説明とは何か</h1>
	<h2 lang="en">Explain oneself</h2>
		<h3>三つの可能性</h3>
		<p>アピアランスされた言葉が文章となり他者に解釈される時、大きく言って三つの可能性がある。第一に、その言葉が述べられるべくして述べられた、すなわち、その発言が必然性を帯びたものであるがゆえに、公への<dfn>説明責任</dfn>が生じるということ。第二に、価値の大海に投げ入られる可能性があるということ。そして第三に、無関心の空気に漂うということ。この三つである。多くの場合は一つ目の理由で発言されるから、人々はなぜ彼がそのような主張を展開しているのかを知りたがる、つまり、能動的なインプットを欲するのである（第一の可能性）。<dfn>説明責任</dfn>は英語でaccountabilityだが、これは"account"「説明」と、"able"「できる」の合わせた語だから、本来は「責任」といういささか消極的な言い回しではなく、説明を自ら欲するというような能動的な意味合いである。だから、彼は発言の意図や理由を述べ<em>たがる</em>し、ゆえに誠実に説得するはずなのである。しかし、それも内容によれば人々の価値観によって四散することもある（第二の可能性）。例えば「昼食はパンを食べるべし」とある人が言ったとて、昼食にご飯を食べる人もいれば麺を食べる人もいるといったように、ある程度普遍性や一般性がない発言は、価値観の相違として説明自体が成り立たない場合があるということである。更に、普遍性や一般性もなく、妥当性もないものは、人々の関心から離れてしまうということもありうる。また、一つの目可能性（説明責任を伴う発言）であっても、人々の関心自体がないという状況下でも起こりうるものだ（第三の可能性）。</p>
		<p>実際には、こういった三つの可能性が交差した点に発言がある場合が多々あり、一概に分類することは困難であるが、とりわけて述べるにはこれで充分だろう。</p>
		<h3>説明をするということ</h3>
		<p>上述したように、ある程度の普遍性と一般性、そして妥当性があるものは、とりあえず説明できる資格を持っているといえ、それが説明責任という言葉で表される。</p>
		<p>さて、ここで一つの問題が生じている。それは、「説明とは何か」という問いあるいは答えに対して、「普遍性と一般性、そして妥当性」があるか否かという問題である。つまり、ある人にとっては「説明」という行為が必要なかったり、もしくは無関心の領域に属する問題かもしれぬという問題である。しかしこれにはこう答えておこう。説明とは理由があるからされる行為であり、また人間とは社交せざるを得ない存在であるとするならば、他者にたいして理由を述べる行為は「普遍性と一般性、そして妥当性」があるということになる、と。</p>
		<p>しかしこの問いは、実は極めて深刻な問題を抱えてもいる。なぜなら現在、理由を意識しない行動が非常に多いからである。つまり「説明とは理由があるからされる行為であり、また人間とは社交せざるを得ない存在であるとするならば」という仮定自体が成り立たない状況が多いということである。たとえ第一の可能性に属する発言であっても、第二第三の可能性に分類され、価値や無関心を理由に説明すらできなくなるのだ。一言で言えば価値相対主義の時代である。八十年代に興ったポストモダンの悪所が、今なお無関心のうちに価値相対化させる悪循環を生んでいる。しかしこのような状況を肯んずることは決してできない。なぜといって、説明ができず、意見が対立した場合、とる行為は限られているからである。喧嘩することしかない。文明とはルールによって支えられているが、そのルールとは言葉のやりとりが前提である。その可能性を封じることは、非文明人を自称することに他ならない。喧嘩というのは、そういったプロセスがあって、はじめてなされるものである。少し前にマスコミでとりざたされた「キレる」少年も、この文脈において理解できる。</p>
		<p>つまるところ、説明という行為は理由と発意が前提であるから、価値相対志向の発言の出る幕はないということである。あっさりと言えば、己がその発言に説明を要すると思ったならば、そのために誠実に説明をすれば良いのである。それが間違いか否かはとりあえず関係ない。なぜなら、説明には「普遍性と一般性、そして妥当性」だけが必要であり、正当性自体は話合いの中で導き出せば良いからである。そして、もし貴方が説明をした上で、議論になり、相手方の説明に正当性があった場合は、素直に認めなければならない。それは、相手の説明が誠実であった証拠で、それに素直に応えるのが非文明人ではない行動となるからである。そうでなければ、価値相対志向の人間と変わりはなく、話合いや議論によって説明した、貴方の行動自体否定することになるのである。</p>
	<h2 id="FOOTER">この文書について</h2>
	<dl id="STATUS">
		<dt>公開</dt>
		<dd>2004-01-07</dd>
		<dt>改定</dt>
		<dd><!--#config timefmt="%Y-%m-%d" --><!--#flastmod file="explain.html" --></dd>
		<dt>制作</dt>
		<dd>加納　景 &lt;<a href="mailto:%77%65%62%6D%61%73%74%65%72%40%70%6F%65%73%69%61%2E%6A%70">webmaster&#64;poesia.jp</a>&gt;</dd>
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