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	<meta name="author" content="加納　景">
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	<title>Other Voices（2004-12） -Poesia</title>
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<h1 lang="en">Other Voices（2004-12）</h1>
	<h2 id="DATE041216">2004-12-16</h2>
		<h3 id="DOC041216_03">解説</h3>
		<p><a href="http://jrw.to/wslash/diary/2004_12_13.html#timestamp1102977718">「無題」黎明日記 2004-12-13</a>が、その典型を示してゐる。それはかういふことだ。</p>
		<p>テオリア氏は、果して私を非難してゐるだらうか？それは、「否」である。なぜといつて、テオリア氏が言及してゐるのは、野嵜氏が批判する私の態度であつて、テオリア氏はそれが私の態度であるとは言つてゐないからだ。或いは、野嵜氏の批判する私の態度を、私が実際にしてゐるか否かといふことには言及せずに、野嵜氏が批判する架空の態度に対して左翼的であると言つてゐるに過ぎないからだ。それゆゑ、私が左翼的であると言つて非難してゐるわけではない。だからこそ、私は何も反論することはできない。ここで議論になるとすれば、私が左翼か否かではなく、「左翼的なレトリックとはさういふものではない」と主張するしかない。そして、私はそれを否定してゐない。ゆゑに、これは議論の問題ではなく、ただの会話のための会話、或いは言及のための言及といつた、野嵜氏が大層疑問にお思ひの、<q>トートロジー</q>である。</p>
		<p>だが、追記として書かれた文章により、それは一変した。つまり、<q>即ち加納氏が左翼の「レトリック」を使った、と云うこと。</q>の文章である。</p>
		<p>私は、野嵜氏が批判する根拠――難癖であれ言ひ掛かりであれ――を否定してゐる。つまり、私が<q>左翼の「レトリック」を使った</q>とする前提がそもそも問題なのだ。この前提の答へを出さないうちに、<q>レトリック</q>と言つて更に<q>レトリック</q>を重ねる野嵜氏の手法に対して私は怒つてゐる。それは単に議論を長引かせようとするもの以外の何物でもないと。さらに、その手の手法はかつて左翼がやつたものであると。ゆゑに自分を否定すべき文句をもつて他人を罵つてゐると。さう言つてゐるのである。</p>
		<p>ウェブは、日常生活と切り離してはならぬと私は考へてゐる。それゆゑに、生活上で起こることも当然ウェブで起こるべきだと思ふし、実際起こつてゐる。たとへば、ああこの文章は面白いな、と思つた文章に対して、コメント欄にコメントする、それは、日常われわれが行なつてゐることだ。しかし、野嵜氏はそれを<q>トートロジー</q>として認めない。なぜか。それは、何かの言及がすべて議論、勝負事だと思つてゐるからだ。ゆゑに、テオリア氏の文章も、自分を否定するものだと早とちりした。或いは、私が文学と政治に関する言及をしたときもさうだつた。では、日常で野嵜氏はいつもさうしてゐるのかと私は問ふた。さうではないだらう。</p>
		<p>或いは、別の見方を示したはうが、公正かもしれない。野嵜氏は、自身を「西欧的」といふ枠組みで規定してゐるが、それは、前近代的な「西欧的」と言つたはうがより正確であるやうに思はれる。私なりに言へば、それは形而上学である。</p>
		<p>象牙の塔に籠つてあれやこれやと論を組み立てると言へば非難がましく聞こえるが（そして私が批判するのもその点なのだが）、西欧がその過程を経てやうやくハイデガー等を輩出したのだ、といふ点から言へば、中々説得力のある言分ではある。しかし、それは結果地に足のつかない浮遊せる思想であるといふ批判は、されて然るべきだ。そして、野嵜氏はその批判を受け入れる。つまり、「敢へて」このやうにやつてゐるのだ、といふ主張である。むろん、私はそれに文句は言はない。だが、それをもつて批判するのは馬鹿げた所業だ。氏の、日常と思想の乖離は、この文脈で私は見てゐる。</p>
		<p>私は以下、野嵜氏に悪罵を投げかけてゐる。それは、むろん本当に怒つてもゐるのだが、野嵜氏が今まで積み上げてきた成果を、氏自身が否定する所業であり、それにイラついてゐるといふことでもある。それを、どうか分かつてもらひたい。野嵜氏は、本当は文章の読める人であるはずだ。今まではさうだつた。</p>
		<h3 id="DOC041216_01">論点のすり替へ</h3>
		<blockquote cite="http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/omake/diary.html" title="闇黒日記">
			<dl>
				<dt>平成十六年十二月十四日</dt>
				<dd><q>そのやり取りに口をはさんだ野嵜氏は何を言つたのかと言へば、「異常者の共同体」は「ネット全体」をさしてゐる、つまり「「ある〜は…である」の論理性を強調し以って「すべて〜は…であると思え」の説得力を弱めんとする」ことであつた。しかし、そもそも私とこば氏とで、<em>そのやうなやり取りは存在しない</em>。</q>と加納氏は言ふ。しかし、加納氏とkoba-koba氏のやり取り等何うでも良いのであつて、koba-koba氏の文章が表現してゐたのは<q>「異常者の共同体」は「ネット全体」をさしてゐる、つまり「「ある〜は…である」の論理性を強調し以って「すべて〜は…であると思え」の説得力を弱めんとする」こと</q>であるから、koba-koba氏の發言を私は正しく讀取つてゐたのだし、加納氏はkoba-koba氏の發言の意圖とは全然關係のない事で言ひがかりをつけたのである。そして、言ひがかりをつけた時點で、加納氏がをかしい事は明かである。</dd>
			</dl>
		</blockquote>
		<p>とぼけるな。馬鹿。御前はかう書いただらう。</p>
		<blockquote>
			<dl>
				<dt>平成十六年十二月一日</dt>
				<dd>koba-koba氏の方が分が良いやうに思はれる。</dd>
				<dd><q title="新ゴーマニズム宣言第二百十章:ただし孫引き">わしに言わせれば、ネットは『便所の落書き』である。しかも己れのクソで書いた落書きである。</q></dd>
				<dd><q title="新ゴーマニズム宣言第二百十章:ただし孫引き">日本社会は急速に「ネット思考」と「短絡世論」に落ちていっている。ネットだのチャットだのは、異常者の共同体だと思え。大人たちよ、少年少女を、意識下の迷路から救い出せ！</q></dd>
				<dd>何う見ても、小林氏の「ネットは『便所の落書き』である」は、全稱命題の發言――即ち「全てのネットは『便所の落書き』である」――である。少くとも、小林氏の頭の中では、さうである。それを受けてゐる下の文章は、だから、やはり全稱命題の文章であり、「ネット」は<q cite="http://d.hatena.ne.jp/koba-koba/20041127#p1">ネット全体を指している</q>と判斷出來る。</dd>
				<dd>もちろん、加納氏の解釋は、論理的には可能である。が、論理的には、koba-koba氏の解釋も「あり」である。そして、加納氏の解釋だけが唯一の解釋でないとしたら、論理的にkoba-koba氏の最初の補記は「あり」である事になる。ならば、加納氏が文句を言へた筋合ではない。</dd>
			</dl>
		</blockquote>
		<p>私とこば氏のやり取りの一端を見て<q>koba-koba氏の方が分が良いやうに思はれる。</q>なんぞと言つてゐたのはあんただらう。それが今になつて<q>加納氏とkoba-koba氏のやり取り等何うでも良い</q>と言ふのである。ぢやあ何がこの話の論点なのか、言つてみたまへ。それは、私とこば氏とのやり取りに関する評価でしかない。後のものはそれから派生したものだ。評価は、そのやり取りにおいてのものしかありえない。それ以外は、「そもそも」の話として私の何が悪かつたのかを論ずればよい。野嵜氏は、その区別をつけずにレトリックを構築する。だから、論点をすり替へても平然としてゐる。それは左翼が「従軍慰安婦」問題でやつた手口と同じだ。野嵜氏は左翼シンパである。</p>
		<p>それと、何度も言はせていただくが、私はこば氏の意図など読み違へてゐない。なぜなら、私はかう書いてゐるからだ。</p>
		<ul>
			<li><q cite="http://d.hatena.ne.jp/kanou/20041129#20041129fn1">小林氏はそのような全体性を問題としている。</q></li>
			<li><q cite="http://d.hatena.ne.jp/kanou/20041204#p15">私の解釈は、「ネット全体を指している」のは「ネットやチャットは異常者の共同体」だといふ、小林氏の一般化できない決め付けであるといふ点で、こば氏と（或いは野嵜氏と）一致してゐる（「情論を前提（「驚いたな、こりゃ！」）とし、一般論ではない（「わしに言わせれば」）ことを断った上で」）のだ。さうではなく、（当初の私の疑問では）「思え」といふ言葉によつて、覚悟を促してゐるのではないか、つまり、小林氏の判断や思想が提示されてゐるだけではないかと言つてゐたのだ。</q></li>
		</ul>
		<p><q>加納氏はkoba-koba氏の發言の意圖とは全然關係のない事で言ひがかりをつけたのである。</q>といふのは、なるほど言ひやうといふものは便利ですねとせせら笑つてやりたいものだが、これこそ「自らを否定すべき文句で以つて他人を罵る」類のものであつて、私とこば氏とのやりとりの意図とは全然関係のないものをすり替へて持ち出したのは野嵜氏、あんたではないか。</p>
		<p><q>それなら加納氏は、可能な加納氏の動機を擧げてみたら良からう。</q></p>
		<p>いい加減にしろ、文盲。何度も書いただらうが。読めないなら黙れ。判る人には判る。</p>
		<p><q>加納氏の論理主義は、論理主義が出發點であり到着點である。</q></p>
		<p><q>論理主義が出發點であり到着點で</q>はないことを過去に書いた。そして、それをとぼけて忘れるふりをするのである。ふざけるな馬鹿野郎。</p>
		<p><q>加納氏は、自分勝手な解釋で「疑問」の形で言ひがかりをつけ、koba-koba氏を困惑させ、さらに應對の「態度」を問題にして論點を摩り替へ、 koba-koba氏に居丈高な態度で説教をかまし、koba-koba氏が示した文章を罵り、剩へ、野嵜に批判されると、自分がずらした論點に野嵜が反應しない、或は加納氏が期待したやうに反應しない、と言つて、野嵜を罵り、厚顔無恥にも、自分がやらかした誤を認めてゐるにもかかはらず居丈高な態度を改めない。</q></p>
		<p>この人、本当に嫌になるね。<q>言ひがかりをつけ</q>てなんぞゐない、<q>應對の「態度」を問題にして論點を摩り替へ</q>てなどゐず疑問に対する回答には応へた、<q>koba-koba氏が示した文章を罵り</q>「資料」のことならば、間違つてゐたのだから当然だ、<q>自分がずらした論點に野嵜が反應しない</q>とは厚顔もいいところで、自分が論点をズラしてゐるのだ、<q>自分がやらかした誤を認めてゐるにもかかはらず居丈高な態度を改めない</q>との仰せには、態度を問題にしてはならぬと仰る氏にしては隨分と態度を問題にしますねと応対してもよいし、或いは、間違つてゐたところは素直に認めてゐるし、謝罪もしてゐるが、それ以外の箇所については引く道理なんぞありはしないと応へておくが、何れにせよ何度も書いたことである。文盲には読めないだらうが。</p>
		<p><q>加納氏は、かう云ふ人を食つたやうな態度で話をする惡癖がある。しかし、かう云ふ事を平氣でやる人間は、かのアレクセイもさうだが、論理だの何だのと言つても、結局は保身が大事なだけなのである。或は、ふざけるな、と言ひたい。何が「偉い人＝野嵜さん」だ。馬鹿野郎。加納氏には、人と眞面目に話をする氣がない。koba-koba氏に對しても、野嵜に對しても、加納氏は眞面目に話をしようとしてゐない。koba-koba氏に對しては居丈高に、野嵜に對してはおちよくるやうに、加納氏は應對してゐる。眞面目に議論をしようとしないで、覺悟も糞もあつたものではない。結局、小林よしのりも加納氏は讀めてゐないのである。</q></p>
		<p>当り前だ。何度も同じことを繰り返し言はせて無視し、あまつさへ文章もろくに読めないでゐるあんたを馬鹿にして見下してゐるのだから。当初はきちんと読んで理解してくれるかもしれないといふ期待があつたが、今となつては全くその期待は失せた。なぜかこの人は、私相手になると文章を読めなくなる。読まなくとも判れば、まあいいだらう。しかし、判らないのであれば読むべきである。そして、それをレトリックと言ひながらまたレトリックを重ね、真面目に議論しようとする意図はどうやらないらしい。さう、野嵜氏は散々、自らを否定すべき文句で以つて他人を罵つてゐるのだ。</p>
		<p><q>或は、「Xと思へ」と言つてゐる、その「思へ」と命令されてゐる内容Xについて、koba-koba氏は否定的な態度をとつてゐる。それに對して、「Xと思へ」全體の意義を論じなければならない、と加納氏は命令した。しかし、koba-koba氏は、さう思つた結果の效能については觸れてゐないのだし、ただ、Xであるかどうかだけを、日記の或日の記事で書いてゐるだけである。</q></p>
		<p>こばさんは的外れと言ひましたね。それは小林よしのりの意見についてですね。それでは小林氏の意見が的外れか否かは小林氏の文脈を無視しては語れないはずですね。それとも<em>あなた</em>のやうに、自分の都合のよいやうに解釈しそれを前提にすればよいといふことでない限り、その読み方は有効ですね。</p>
		<p><q>以下は加納氏の言動が全體としてをかしい事を言つてゐるに過ぎない。加納氏の最初の行動――疑問を呈した事――は、小林擁護と云ふ動機を以て説明しない限り、意味不明である。私は、心理的に意味不明と言つてゐる。それに對して、加納氏は、論理的な根據の提示ナシに疑問を呈するのは許されないとして、野嵜を非難してゐる。しかし、加納氏の全體の言動に、「論理的な筋」以外の動機が何一つ見出せないとしたら、それこそをかしいのではないか。狂人とは、論理を失つた人間の事ではなく、論理以外の全てを失つた人間の事である。</q></p>
		<p>チェスタトンの「狂人とは理性を失つた人ではない。狂人とは理性以外のあらゆる物を失つた人である」といふ言葉を捩つて何か言つた気になられても困る。そして実際、この文章はスッカラカンである。なぜなら、今まで私が応へてきたことをすべて無視してゐるからだ。野嵜氏は、相手の言つてゐることを無視して罵れば勝てると思つてゐる。そんな馬鹿なことはない。そして、その手の議論に勝つための手法ばかり逞しくしてゐる。それは、狂人の所業だ。</p>
		<p><q>そもそもの出發點からして、論點がずらされてゐるのである。それが惡い。この、そもそもの論點――否、「論點ずらし」をした事について加納氏が負けを認め、それによつて今までの議論の全てが崩潰する事を加納氏が認めなければ、言爭ひは終らない。</q></p>
		<p>この人は、なんでも自分の都合でしか解釈しない。ここまで自分勝手に議論する人間もはじめてだが、ここまで食ひ下がる人間もはじめてだ。小林氏の判断を的外れとするならば、小林氏の文脈を読まなければならない。それが、「思え」の解釈のことである。だから、こば氏も「思え」の解釈を示した。私はこば氏の解釈は、議論ともなれば否といふが、議論ではないのだから、さうか、さういふ解釈もあるのか、で終はりである。同様に、野嵜氏も、私なりこば氏なりの意見を的外れだと言ふならば、私やこば氏の文脈を読まなければいけない。それが、野嵜氏には最後まで分からないのだ。かういふ人間には何を言つても無駄である。私は今諦めた。</p>
		<h3 id="DOC041216_02">読めないなら黙れと何度でも言はう。</h3>
		<blockquote>
			<dl>
				<dt>平成十六年十二月十四日</dt>
				<dd>あと、<q cite="http://www.poesia.jp/notebook/0412.html">つまりかういふこと</q>と言つて、野嵜が常に文意を讀取れないかのやうに見せかける「印象操作」を加納氏はやつてゐる訣だが、加納氏に自覺はあるのだらうか。</dd>
				<dd><q>例によつて例のごとく</q>とか<q>やはり文章が読めない人なのではないか</q>とか、文章の表現に意圖は顯れる。</dd>
			</dl>
		</blockquote>
		<p>アホ。後の文章を読め。</p>
		<blockquote>
			<p>と、このやうに述べる（「をかしい」とか）のが正邪の論争足りうるのだが、野嵜氏は単に早とちりをしてしまつただけなのかもしれない。恣意的に読み違へてゐるわけではないかもしれない。それは私のあずかりしらぬことである。だから、私ならば「二通りの解釈が出来ますが、さうすると野嵜さんの論理は成り立たなくなりますよ」と掲示板に書くだらう。これは解釈の問題である。そして野嵜氏が、「ああ、さうでしたね」と述べたところで、別に野嵜氏の「負け」ではない。私の「勝ち」でもない。かういふことが、野嵜氏は分からないのだらうか。</p>
		</blockquote>
		<p>この文章の意図は、議論になりうるものとさうでないものの区別の例を出して、それが「つまりかういふこと」なのだが。しかし、私が出した早とちりの可能性も、そろそろ撤回すべきだらう。ここまで何度も何度も読めないなら、さう思つてもよいだらう。</p>
		<h3 id="DOC041214_03">つまりかういふこと</h3>
		<blockquote cite="http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/omake/diary.html" title="闇黒日記">
		<dl>
			<dt>平成十六年十二月十三日</dt>
			<dd><a href="http://jrw.to/wslash/diary/2004_12_11.html">http://jrw.to/wslash/diary/2004_12_11.html</a></dd>
			<dd><q>左翼の論客が良く使う「レトリック」ですな。</q>と言はれてゐるのだけれども、それでは福田恆存は左翼だつたのだらうか。</dd>
			<dd>「中立」を標榜する新聞を批判して、福田氏は公正とはどう云ふ事かを論じた。私は、福田氏の主張を尤もだと思つてゐるから、それに從つてゐる。</dd>
		</dl>
		</blockquote>
		<p>例によつて例のごとく、野嵜氏の読解力はをかしい。テオリア氏の文章はかうである。</p>
		<blockquote cite="http://jrw.to/wslash/diary/2004_12_11.html#timestamp1102769589" title="「無題」黎明日記 2004-12-11">
			<blockquote title="闇黒日記 2004-12-11" cite="http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/omake/diary.html">
				<p>加納氏は、「氏は」「氏は」と言つて、野嵜の事を非難してゐる。一方、加納氏自身の立場は、相變らず、曖昧なまゝである。加納氏は、私の思想とはかけ離れたものを例として持ち出せれてゐる。と常に言ふ。さうやつて自分の立場を曖昧にし、誤魔化し續ける事で、加納氏は「私の立場を理解できないあんたは馬鹿」と極附ける。しかし、その曖昧な態度が、私には非常に汚らはしいものに見える。人は、自らの立場を鮮明にして、論爭に挑むべきである。さうしないと、論爭の決着が附かないからである。物事の正邪を重視する立場である私は、だからこそ、物事の如何なる事が正しい事であるか、をはつきり意識した上で、論爭しなければならない、と考へる。加納氏のやうに、ただ「疑惑」を表明し「説明して下さい」とだけ言つて、相手に何であれ難癖をつけて、何時までもずるずると「会話」をし續けて、相手を困らせる、と云ふ風になつてしまつてはならない。</p>
			</blockquote>
			<p>左翼の論客が良く使う「レトリック」ですな。</p>
		</blockquote>
		<p>この文脈で言へば、二通りの解釈ができる。一つは、私の<q>「レトリック」</q>が<q>左翼の論客が良く使う</q>ものであるといふものである。なぜなら、テオリア氏の言及先が野嵜氏の文章であり、その文章は私の言論のやり方を論難してゐるものだからだ。それに<q>左翼の論客が良く使う「レトリック」ですな。</q>と賛同して書かれてゐると読めるだらう。二つ目は、野嵜氏がさうであるといふものである。むろん、どちらのことか分からないことを書いたテオリア氏の責任はあるにせよ、判断の保留を述べずに自分のことだと早とちりする野嵜氏は、やはり文章が読めない人なのではないか。</p>
		<p>と、このやうに述べる（「をかしい」とか）のが正邪の論争足りうるのだが、野嵜氏は単に早とちりをしてしまつただけなのかもしれない。恣意的に読み違へてゐるわけではないかもしれない。それは私のあずかりしらぬことである。だから、私ならば「二通りの解釈が出来ますが、さうすると野嵜さんの論理は成り立たなくなりますよ」と掲示板に書くだらう。これは解釈の問題である。そして野嵜氏が、「ああ、さうでしたね」と述べたところで、別に野嵜氏の「負け」ではない。私の「勝ち」でもない。かういふことが、野嵜氏は分からないのだらうか。</p>
		<h3 id="DOC041214_01">結局野嵜氏はどうかしてゐるといふこと</h3>
		<p>程度の低い言ひあらそひである。この様子を見てゐた友人は笑つてゐたけれども、それは正常な反応だらう。</p>
		<p>野嵜氏はどうもをかしい。それは、文脈を無視し、自分の主張する方向に文脈を無理矢理捻じ曲げて仕舞ふ氏の悪癖のせゐである。私の掲示板に、このたびのことに関する感想を書いて下さつた方がいらつしやる。私の意見と合はせて読めば、野嵜氏が誤解（さう、野嵜氏は意図的に曲解してゐるわけではないのだ。なぜなら、それは「論理」的には筋が通つてゐるからだ。しかし、その「論理」が、文脈を如何に解釈するかといふ本来あるべき方向に向いてはをらず、結果、出鱈目な迷走を引き起こしてゐる）して仕舞つてゐることが分かるだらう。それは、かういふことだ。</p>
			<h4>掲示板にて</h4>
			<blockquote cite="http://www.poesia.jp/bbs/bbs.cgi" title="「No.631 存在と当為、事実と価値」Notice Board -Poesia">
				<dl>
					<dt>投稿者：尾崎 投稿日：2004/12/12(Sun) 12:20</dt>
					<dd>　「〜と思え」という命令的機能の文は一種の当為言明ないし価値言明であり、論理的な意味での真偽の区別がつかないので一般に論理学の対象とはなりませんが、他方、「すべて〜は…である」という全称肯定命題の形をとった文は存在および事実に関する言明であり、論理的な意味での真偽の判断が可能ですので、一般に論理学の対象となりえ、つまり、前者は当為ないし価値、後者は存在ないし事実に関わる言明として、二元平行的な関係にあります。</dd>
					<dd>（中略）</dd>
					<dd>加納さんと野嵜さんの論争の場合でいえば、加納さんの立場は、「すべて〜は…である」をもって「すべて〜は…であると思え」の反論とすることの非論理性を強調する上でいうところの最初の立場で、つまり、「すべて〜は…である」と「すべて〜は…であると思え」の論理的な境界に忠実であろうと主張する立場でありますが、野嵜さんの立場は「ある〜は…である」の論理性を強調し以って「すべて〜は…であると思え」の説得力を弱めんとする、上でいうところの後の立場で、つまり、当為言明による価値の押し付けに対する論理的なレジスタンス・自衛の可能性を守ろうとする立場である、と考えられます。</dd>
				</dl>
			</blockquote>
			<p>私と野嵜氏の喧嘩半分論理半分の無茶なやり取りを、他者がここまで正確に読みとつてくれるのはうれしくもあり、また、己れの方法をもう少しなんとかしなければならぬとも思はされる。それはさうと、尾崎氏の説明は八割くらゐはこのあらそひをいひあててゐるだらう。といふのは、私が問題にしたのは、尾崎氏の論理学的な解説のとほり、全体の非全体性なるものであつて、つまり、「ネットは異常者の共同体」だといふのは「ネット全体」を指すが、そもそも小林氏の文脈では「ネット全体」が「異常者の共同体」であるといふことではなく、そのやうな傾向が見受けられるので子供をネットから遠ざけようといふものであるから、「ネット全体」を非難するといふ文脈ではなく、教育的な文脈として読むべきで、それを前提にすれば「アホか」といふ反応は成り立たない、<q>「すべて〜は…である」をもって「すべて〜は…であると思え」の反論とすることの非論理性を強調する</q>わけである。</p>
			<p>そこでこば氏は、<q>「すべて〜は…である」</q>式の反論ではなく、「思え」の解釈について、他の解釈を述べた。それは、<q>「すべて〜は…であると思え」の反論</q>であり、論理的である。だから、その反論は成立するのだ。しかし、尾崎氏もさすがにあの長大かつ無意味なやり取りを全て理解することはできなかつたやうで、それは当然だし私の責任でもあるのだが、そのやり取りに口をはさんだ野嵜氏は何を言つたのかと言へば、「異常者の共同体」は「ネット全体」をさしてゐる、つまり<q>「ある〜は…である」の論理性を強調し以って「すべて〜は…であると思え」の説得力を弱めんとする</q>ことであつた。しかし、そもそも私とこば氏とで、<strong>そのやうなやり取りは存在しない</strong>。違ふ言ひ方をすれば、小林氏の判断（「ネット全体」が「異常者の共同体」であるといふ判断のことではなく、それを前提とした判断）を問題にしてゐない。私が一貫して解釈の問題であると述べてきた由である。ところが、野嵜氏は、そのやうなやり取りの流れや文脈を、読んでゐないせゐで理解できてゐないにも関らず、こば氏優勢なる判断を下したのだ。そして、読んでゐるうちに分かつてきたの<em>だらう</em>、今度は私が「小林シンパ」であるなぞといふ新たな材料を持ち出して、こば氏とのやり取りは解釈の問題ではなく正邪の問題であると言ひ出した。私から見れば野嵜氏の弁明こそ自己正当化なのだが、氏はさらにそれを、私が疑問を書いたことから疑問なら何でも書いてよいのだらうといふことをもつて<q>レトリック</q>と称し、私と徳保氏（<span class="note">*</span>）を並べた。或いは、疑問などの不確かなことを根拠にしてよいならば、私を「小林シンパ」と断じてよいはずだといふわけである。しかし、私は論理的に妥当な諸条件を突き詰めて解釈なり疑問なりを述べなければならぬと言つてゐる。それを、野嵜氏は当初無視をして<q>レトリック</q>を展開した。それが詭弁でありレトリックのためのレトリックに、詭弁の上塗りになるといふのは、指摘するまでもないだらう。</p>
			<p class="note">（* 私や野嵜氏に、その価値相対主義的な態度を批判された大手サイト「趣味のウェブデザイン」の管理人でありFolioの執筆人。ちなみに、私は徳保氏とFolioで多少の接点があるために、徳保氏の性格の一端を知つた。そこから徳保氏のダンディズムを見て取り、氏の価値相対主義が、氏の生き方から敷衍して考へれば当然であるといふ風に見て、それはそれで中々立派な振る舞ひをされてゐることから、今はその半分は認めてゐるが、意見を書く場合はやはりさうであつてはならないといふ私の考へは変らない）</p>
		<h3 id="DOC041214_02">嘘つきの恥知らず</h3>
		<p>一々応答しては話をズラして<q>レトリック</q>を展開するのが野嵜氏の常套手段なので、もうそんなことはしない。そのために、事態の推移を上に書いたことで、野嵜氏の主張は根底から間違つてゐることを説明した。興味がある人は平成十六年十二月十一日近辺の闇黒日記と読み比べればよい。如何に氏が読み違へ、それをもとに「論理」を展開し、人を罵つてゐるのか。野嵜氏は結果、嘘つきなのであり、それを認めない厚顔、恥知らずの醜態を世に晒してゐるが、それでいいのか。</p>
		<p>といふか、野嵜氏は前提を固めてから論理を構築するといふことからやつて欲しいものだ。前提が不確かなまゝに<q>レトリック</q>なんぞと言つてやるから話が紛糾することになる。違ふ言ひ方をすれば、野嵜氏は話を纏める気なんぞないのである。その手の議論のための議論をする（<q>トートロジー</q>）人がウェブにゐるといふこと。まつたく、<q cite="http://543.teacup.com/No_Z/bbs" title="「(無題)　投稿者：野嵜 　投稿日：12月 3日(金)21時13分5秒 210-194-246-191.rev.home.ne.jp」 正字正かな掲示板">ウェブとは恐いところです。苦笑。</q></p>
		<h3 id="DOC041214_04">といふかね</h3>
		<p>クリスマス・イヴが近づいてプレゼントを悩んだり体調が悪くなつたり年末進行的なアレな具合の時に、こんなに無意味なことをしてゐられないのですが。どうにかしてください。偉い人＝野嵜さん。</p>

	<h2 id="DATE041211">2004-12-11</h2>
		<h3 id="DOC041211_01">応答2</h3>
		<p><q>「説明してください」→「説明できなければお前は間違つてゐる」＝「批判」。</q></p>
		<p>殆ど言ふことは言つたので今更言つても無駄だらう。無駄と思ひつゝ溜息を吐きながら述べれば、<q>説明できなければお前は間違つてゐる</q>なんて論理的にをかしいことを野嵜氏はつひに気付かないのである。説明できなくとも正しいこともあるだらう。その程度の了解は常識として通用するはずである。私は、それでも相手に分かつてもらひたいし、それが人間の対話する欲求の根源なのだから、きちんと説明したいと思ふが、ただの会話で相手がそれを出来なくとも、自分が勝つたなんて思はない。そして、説得力がなければ間違ひと断じ、批判と捉へる氏は、説得力よりも正しいことを求める云々と言つておきながら、実のところ説得力を重視してゐるのだ。支離滅裂である。</p>
		<p><q>「〜と思え」の「〜」について、koba-koba氏は述べてゐます。そして、「思え」と言はれても、「〜」即ち「ネットは異常者の共同体である」は事實に反する、とkoba-koba氏は指摘しました。それに對して、「思え」だから「覚悟」と云ふ批判は、批判になりません。</q></p>
		<p>批判ではない。と何回も言ふのだが。意地でも野嵜氏は認めるつもりはないのである。当初の議論は「思え」によつて一般化を避けてゐるのだから、「ネットは異常者の共同体である」といふのは、論理的にきちんと答への出るやうな百パーセントの一般論としての「全体」として小林氏は述べてゐない、と言つてゐるのだ。</p>
		<p><q>しかし、<em>全ての</em>「ネット」が「異常者の共同体」である訣ではありませんから、論理的に、小林氏の「思え」と言つてゐる事は事實に反します。そして、<em>一部の</em>「ネット」に「異常者の共同体」が「ある」事をkoba-koba氏は認めて、だから「小林の言ふ事にも一理ある」と述べたのです。</q></p>
		<p>野嵜氏は教育といふことについて何も知らないのではないか。あれだけ道徳的な葛藤を問題にしてゐたはずだ（私もそれには賛成する）。それなのに、教育的に「覚悟しておけ」といふ、むろん全体ではないが、さう思はせることで教育させるといふ手法が、ほぼ常識としてあることを、野嵜氏は無視してゐる。本当は一部も健全なユーザがゐます、と事実としての正しいことを言ひたいが、子供に警戒心を抱かせるために「全て」と敢へて言ふやうなことは常識だと私は思ふが、野嵜氏はさうではないのである。<q>事實に反</q>するから<q cite="http://d.hatena.ne.jp/koba-koba/20041127#p1">アホか</q>と読むのは文脈をかへりみないで書かれたものなのである。そして、その文脈から外れたままこば氏は一部の主張を認める。行つたり来たりしてゐる。それは悪いわけではないが（良い文章とは言へないが）、正確に解釈してはゐない。そして、これを声高に主張すれば解釈の正邪論争だが、さうではないのである。さうではないから、私もこば氏も別に勝ち負けはない。何度も言つてゐることだ。</p>
		<p><q>ただの傍注である事が判つてゐて、それなのにわざわざ「説明しろ」＝「説明できなければお前は間違つてゐる」と非難するのは、如何なものかと。しかも、その時點で、加納氏は原典を持つてをらず、また、論理ではなく、解釋の話をしてゐたのであり、確かな根據をもつて絶對的にkoba-koba氏を否定出來る立場になかつた。そして、加納氏のやつた「説明しろ」は、加納氏が如何にレトリックで批判でない事に見せかけようとしても、實質的に批判である。これは何う考へてもをかしい。</q></p>
		<p><q>「説明しろ」＝「説明できなければお前は間違つてゐる」と非難</q>してゐないことは先ほど説明した（といふか何回もした）。だから後の文章に反応する。<q>加納氏のやつた「説明しろ」は、加納氏が如何にレトリックで批判でない事に見せかけようとしても、實質的に批判である</q>。私が野嵜氏の詭弁を指摘したやうに、野嵜氏もその<q>レトリック</q>とやらを指摘すればよいものだが、出来ないのだらう。私はレトリックなんぞ、修辞以外の意味では使つてゐない（と<q>宣言</q>する）。使つてゐるといふならば指摘してください。</p>
		<p>以下一緒のことを言つてゐるのでリストで。</p>
		<ul>
			<li><q>koba-koba氏が加納氏の期待した答へ方をしない事を、「きちんと答へない」と言ふのは、如何なものか。寧ろ、加納氏が、何を期待したのかを最初にきちんと説明しないで、一方的にkoba-koba氏を責めたのが惡い。</q></li>
			<li><q>甘んじて受けなければならないと思つてゐるのならば、何故いつまでも加納氏は自己正當化を續けてゐるのか。「批判」を「説明を求めた」にすりかへたり、「自己正當化」を繼續しながら「批判は甘んじて受ける」と言つたり、加納氏の言動はちぐはぐだ。</q></li>
		</ul>
		<p>上のはうは確かにそのとほりなので。それは反省する（私は利口でありたいから反省する）。すでに書いたことですが。しかし、下のはないだらう。自分の考へを主張することは全て<q>自己正當化</q>か。むろん、さう思はせるやうに書いた私の文章技術も駄目なのだ（でも、さういふ風にとらはれるのが嫌なので、私は論理的に書いたつもりなのだ）が。しかし私の主張はその反省すべき点だけではなかつたはずだが。それ以外は正当性を主張して当然だと思ふが。どこも<q>ちぐはぐ</q>ではないはずだが。といふか、ひよつとして、その<q>「自己正當化」</q>は、野嵜氏の鉤括弧の使ひ方から考へてよいものなのだらうか。もしさうならば、野嵜氏の解釈といふことで（正しいか否かは別として）一応筋のとほつた文章といふことになりますね。どちらでせうか。</p>
		<p><q>私が正しい、と言つてゐるのだから、加納氏は正邪を爭つたのである。ならば、解釋の話ではなく、解釋の正邪の話である。</q></p>
		<p>こば氏の解釈については（こば氏とのやり取りでは）<q>私が正しい</q>と言つてゐない。こば氏の態度の問題では<q>私が正しい</q>と言つた。全て同列に扱つて事実を捻じ曲げてはいけない。野嵜氏は屡々この手を使ふ。それは新聞がよくやる印象操作の手法である。</p>
		<p><q>ここで加納氏は、結論として「自分が正しい」と言張つて、そちらの議論に持込む事で、「解釋の議論」か「解釋の正邪の議論」かと云ふテーマから話を逸らさうとしてゐる。だが、私は加納氏の手には乘らない。</q></p>
		<p><q>結論として「自分が正しい」と言張つて</q>なんかゐないだらう。<q>話を逸らさうとしてゐる</q>もなにも、実際さうなのだが。<q>手には乘らない</q>とかなんとか、とにかく何の論証もせずに言はれても、ただ意固地になつてゐるだけとしか思へない。<q>あと</q>以下はさつき説明したので省略。</p>
		<p><q>しかしながら、その種の疑惑を私が表明する事は、自分が最初に疑惑で以つて議論を吹つ掛けた加納氏が、否定出來ない事である。</q></p>
		<p>詭弁。単なる言葉遊び。なぜなら、私がこば氏に呈した疑問が議論の方向に（少なくとも私の中では）向いてゐないのに対し、野嵜氏のそれは<q>レトリック</q>と称した悪意から発してゐるからである。また、このやうな「客観的な事実的根拠に裏打ちされてゐないもの」が信用ならぬといふならば、私と野嵜氏との疑問なり<q>疑惑</q>なりの違ひを見ればいい。全然違ふではないか。悪意ではないと野嵜氏は言ふだらう。それならば、<q>レトリック</q>のための<q>レトリック</q>といはうか。その手の詭弁の上塗りには私は騙されない。</p>
		<p><q>納得なら</q>以下は説明したので省略。</p>
		<p><q>しかし、<q>会話のため</q>に會話する、と云ふ加納氏の説明は、トートロジーの一種であつて、誰も納得出來る説明ではない。そして、あとで加納氏は、自分がいかに小林よしのりを讀んでゐるかを説明してゐる。また、西部邁のファンだか何だかである事も明かである。「加納氏が小林シンパである」と云ふのは、誰もが普通に持つ印象である。それを加納氏は、論理で否定しようとしてゐるが、私は常識に從ふ。</q></p>
		<p>野嵜氏の常識には鉤括弧を私はつけたい。ふつう、会話のために会話することがあることは常識ではないですか。何がをかしいのだらう。価値観の問題ですか？私はさうぢやないと思ふけれども。今となつては実現しなかつたが、こば氏の文章を引いて文章を書かうともしてゐたわけで。それと、野嵜氏や読者が、私を西部シンパだとか小林シンパだとか思ふのは全然かまはない。それは私が決めることではない。だが、それをもとに公に文章を公開して批判するのは如何なものか。</p>
		<p><q>あの程度だらうがこの程度だらうが、「説明しろ」は「説明できなければお前は間違つてゐる」と云ふ<em>己の主張</em>に他ならない。何故か加納氏はそれを認めない。しかも、事實として、加納氏は「こば氏は間違つてゐる」「私の解釋が正しい」と書いてゐるのであつて、「説明しろ」が批判であり、批判であるからには主張である事は、明かである。</q></p>
		<p><q><em>己の主張</em>に他ならな</q>くはないことは説明したので省略。<q>事實として、加納氏は「こば氏は間違つてゐる」「私の解釋が正しい」と書いてゐる</q>のは野嵜氏とのやり取りにおいてでせうが。こば氏とのやり取りではそれはテーマではないだらうが。なぜか野嵜氏はとぼける。強引に異る事実を繋げる野嵜氏の手法はここにも見られる。</p>
		<p><q>實際、koba-koba氏のあの<q>私の解釈ではネット全体を指しているので、私としては的外れな意見には違い無いですが。</q>と云ふコメントは、短いが、koba-koba氏の主張であり、それに反論した――しかし、koba-koba氏の考へてゐた「ネットは異常者の共同体」の是非ではなく、「〜と思え」と云ふ言ひ方から何を讀み取るべきかに拘つたのだから、讀み違へに基いて的外れな「反論」をしたのだが――加納氏は、主張をしたのである。普通はさう見る。</q></p>
		<p>誤解されてゐるかもしれないが、<q>私の解釈では</q>と<q>私としては</q>は後になつてこば氏が付加へたものです（しかし、記事を訂正してくれとは言つてゐないと書いたはずだが）。それを前提に話を進めると、<q>「〜と思え」と云ふ言ひ方から何を讀み取るべきかに拘つた</q>のは、解釈の問題なのだから当り前。といふか、こば氏の回答は野嵜氏のそれとは違ふものだといふことに、氏は気付いてゐないのだらうか。野嵜氏の力説してゐるネット全体をさしてゐる云々は私もこば氏も解釈を異にしてゐない（と前にも書いた）。しかし、その「思え」があることによつて、小林氏の発言が「アホ」や「的外れ」と言へないものになるのではないか、と私は聞き、それに対してこば氏は最終的に、<q cite="http://d.hatena.ne.jp/koba-koba/20041202#p1">「このことからはこの文章が小林よしのりの感情論である事が分かるだけ。」→「なので文脈的に『思え』という表現は特に覚悟を促す記述では無い。」</q>と解釈をしめしたのだ。それで、ああ、なるほど、となつたわけである。</p>
		<p><q>「その後の態度」に論點を移す事自體が許されない。「当初のやり取り」だけが許される。加納氏は、「怒りの矛先」を、「解釈」から「態度」に移した。さう云ふ「戰線の擴大」が私には許し難いものに見える。</q></p>
		<p>特に反応することはないかと。「議論になりうる（か否かは野嵜氏との議論に持ち越されてはゐるが）。」と書いてゐるので。私は、さういふ野嵜氏の態度が<q>許し難いものに見える</q>。</p>
		<h3 id="DOC041211_02">応答3</h3>
		<p><q>積極的に否定してゐないが、無視は否定を意味する。</q>のださうで。では<a href="http://www.poesia.jp/weblogs/text/text01.html">不愉快なテクスト 第一回 -Poesia</a>で私が同じやうなことを主張してゐることも付加へておきます。といふか、「あれかこれか」の二者択一に私は賛同しない。あれとこれの間で如何なる風に平衡を維持するかが重要だと考へる私には到底賛同できない主張である。</p>
		<p><q>「koba-koba氏に絡んだの」</q>云々は<a href="#DOC041211_01">応答2</a>で書いたので省略。</p>
		<p><q>「加納氏は、宣言してゐる自分の立場と、自分がやつてゐる事とが一致してゐない」と私は指摘してゐる。言行不一致だと。</q></p>
		<p>どう<q>言行不一致</q>なのか説明してください。ちなみに、生き方を一貫させ考へるために論理はある、といふのと、論理は生き方に即していなければならないといふ主張をトートロジーだといふならば、それは当り前のことでせう。</p>
		<p><q>「それは本當に正しいのか」と加納氏はkoba-koba氏に「質問」したのだが、さう云ふ質問は批判であり、正邪を分かつべきであるとする態度に基いてゐるのであり、正義を問うてゐるのである。が、加納氏は「正義ではない」と主張してゐる。しかし、いくら「正義ではない」「説明を求めただけだ」と加納氏が宣言しようとも、加納氏のした事は正義を問ふ事であつた――否、<em>普通は</em>正義を問ふ事でなければならない。</q></p>
		<p>野嵜氏はそのやうに生きてこられたのですか。なんでも正邪に分けて考へてこられたのですか。それが野嵜氏の二元論ですか。普通はそんなことをしない。少なくとも日本人はしない。いくら野嵜氏が正邪を問はなければならないと<q>宣言</q>しても。</p>
		<p><q>一度整理してみる。加納氏は最初、會話するのが目的で、小林の發言の事實としての正邪なんてものに關心がない。だから、小林の發言の正邪を問ふてゐない。だが、加納氏は、物事の正邪は閑却してゐない。――。</q></p>
		<p>そのとほりなのだが。といふか、さうとしか読めないはずである。しかし、野嵜氏は批判する。その根拠を、以下のやうに述べる。</p>
		<p><q>「ない」「ない」「ない」が連續してゐる。かう言ふのは怪しい、さう私は見る。「ない」を除くと、加納氏が求めてゐる物は「會話」だ、と云ふ事になる。だが、「會話の爲の會話」なるトートロジーは、認められたものではない。</q></p>
		<p>私が指摘するまでもなく、相変らず<q>怪しい</q>が根拠なのだ。<q>怪しい</q>を根拠にして正邪をあらそつてはいけない。</p>
		<p><q>しかし、さう云ふ目的で加納氏は「質問」してゐないのである。加納氏は、koba-koba氏の日記のコメント欄で、明かに、koba-koba氏の發言を批評してゐたのである。そして、批評對象を「小林よしのり」とするか、「koba-koba氏」とするかで、話は全然違つたものになつてしまふ。加納氏は、議題を取違へてゐるのである。</q></p>
		<p>取り違へてゐるのはどつちだ。私はさうではない（「正義の議論」ではない）と述べてゐるではないか。いい加減にしてくれ。</p>
		<p><q>議題が「親米か反米か」であれば、「西尾シンパ」として私は振舞ふだらう。高坂氏のサイトの掲示板で、事實上、そのやうな振舞ひをしてゐる。</q></p>
		<p>さうですか。私には野嵜氏が西尾シンパには見えませんが、野嵜氏がさう仰るならばそれでよいでせう。私は苦笑ひするしかできません。そして、野嵜氏がその前提で仰るならば、私のことを小林シンパと思つて下さつて構ひません。</p>
		<p><q>文脈に沿つて話をする際には、一般論に話を還元してはならない。これは議論の鐵則である。加納氏こそ、一般論に我々の議論を當嵌めようとしてゐる。しかし、一般論は一般論であり、特殊の事例にはその事例毎に特殊な檢討が必要である。</q></p>
		<p><q>特殊の事例にはその事例毎に特殊な檢討が必要である</q>といふのは一般論にならないのですか。</p>
		<h3 id="DOC041211_03">応答4</h3>
		<p><q>實に下らない言爭ひで、讀者も飽き飽きしてゐるだらうが、筆者である野嵜も飽き飽きしてゐる。</q></p>
		<p>本当にそのとほりである。野嵜氏が文章を読めないで誤解曲解の言説を撒き散らしてゐることを一々指摘するのは筆者である加納も飽き飽きしてゐる。と言ふか、体力的時間的に無理が生じてゐる。</p>
		<p><q>と言ふか。「加納氏は、加納氏自身にどのやうな積極的な主張があつて、それで何を目的に物を言つてゐるのか」がさつぱり見えて來ない。單なる自己正當化が目的としか思はれないのだが、それだとこちらが引つ込まない限り何時までも加納氏は話を續ける筈で、迷惑この上ない。「さうではない」「俺は自己正當化したいのではない」と加納氏は言ふかも知れないが、しかし、さう言ふ加納氏が、話の決着の附くべき地點を決める論點を確定せずに議論を仕掛けてゐる以上、何であれこちらを言負かしたいのが動機であると判斷せざるを得ないのである。</q></p>
		<p><q>積極的な主張</q>もなにも。野嵜氏が御前は間違つてゐると言つたんだらう。それに答へれば<q>自己正當化</q>か。それなら野嵜氏は、私にそのやうな批判をされ、一応答へてゐるが、それも<q>自己正當化</q>か。どうしても自分が勝利してゐるといふ風な印象を与へたいから野嵜氏は<q>飽き飽きしてゐる</q>と言ひながらこんなことを書いてゐるのだらう。それだと<q>こちらが引つ込まない限り何時までも</q>野嵜<q>氏は話を續ける筈で、迷惑この上ない。</q>論点が明確ではない？とぼけるのもいい加減にしたらどうだ。これだけ繰り返し同じことを説明し指摘してゐるのに明確も糞もあるか。</p>
		<p>と言ふか。吐いた胃液の中に血が混じつてゐる状態で、誰がこんな無意味な言ひ爭いを好んでするか。私からすれば、非常に迷惑な話でしかない。それとも、両方が迷惑なら「一二の三」で二人とも同時に黙るのが良いのか。しかし、そんな話ではないだらう。いや、さうしようと仰るならばさうしますが。</p>

	<h2 id="DATE041210">2004-12-10</h2>
		<h3 id="DOC041210_01">応答</h3>
		<p><q>解らなければ自分で調べればよろしい。koba-koba氏の言つてゐる事が怪しいからと言つて、さう指摘するのは、をかしい。</q></p>
		<p>どうしてをかしいのでせうか。Aが成立すればBは成り立たないやうですので説明してくださいと言ふことの何がをかしいのでせうか。作者は突込まれないやうな文章を予め書かうとすべきだと私は思つてゐますが。釣りではあるまいし、そんなことをする人間は酔狂としか思へない。</p>
		<p><q>加納氏は、「怪しい」と云ふ印象から、koba-koba氏に「説明」を求めてゐる。その加納氏が、「怪しさ」を根據にするな、と云ふ事は許されない。</q></p>
		<p>私は野嵜氏のやうな、論理的な検証を経ないで「怪しい」と言つてゐない。論理的に考へてかう云ふことが考へられるから「怪しい」と言つてゐる。私の論理は読めば明白である。野嵜氏はそれに対する明確な反論をまだしてゐない。</p>
		<p><q>論理的だと宣言する事は勝手だが、私に加納氏の「論理的」は、とても論理的なものに見えなかつた。</q></p>
		<p>さうですか？私は妥当だと思ふし、正当だと思ひます。今更掘り起こすなと言はれさうですが、どう読んでも「思え」は覚悟を促す記述だからです。なぜなら、あの章は少女をネットから救ひ出すには如何にすればよいかといふことが問はれてゐたからです。そのために、ネットは異常者の共同体だと思ひ教育しろといふのがあの漫画の文（？）脈なのです。しかし、ただの傍注だから、そんなことを言つてもしやうがない。だから、違ふ解釈があれば説明してくれと言つただけなのだ。あの場できちんとこば氏が答へてくれたら、「あー、なるほど」と言つて、「しかしあのやうな騒ぎは本当に問題ですね」なんてコメントになつたかもしれないのである。</p>
		<p><q>「飽くまで説明を求めただけである」と加納氏は言ふのであるが、しかし、ならばなぜ、すぐにkoba-koba氏に「論理的でない」と説教をしたのか。 koba-koba氏の説明が惡い、と加納氏は答へるだらうが、それは理由にならない。そもそも、加納氏の聞き方がをかしいからである。</q></p>
		<p>その指摘は甘んじて受けなければならない、といふことを、<a href="http://d.hatena.ne.jp/kanou/20041204#p12">野嵜氏の読み違へ</a>で書いたのだが、氏はそれをしてもまだ責めるやうだ。それはそれで構はないし、間違へた私が悪いのだからしやうがあるまい。けれども、野嵜氏が私に対して投げかけた悪罵や誤解の数々はなかつたことにするのだらうか。私は徳保氏ぢやないから、「いい加減な『解釈』されても構ひません」なんて言はない。</p>
		<p><q>加納氏の「解釈」と云ふ用語には、特殊な意味があるらしい。だが、解釋には、正しい解釋と、間違つた解釋とがある。ならば、解釋の正邪を爭ふのは正義の爭ひである。</q></p>
		<p>どこをどう読んだら<q>解釋の正邪を爭</q>つてゐると読み取れるのか……。<q>正邪を爭ふ</q>ならば、まだ私はこば氏とやりあつてゐるだらう。なぜなら、私の解釈が正しい解釈だからである。</p>
		<p><q>それでは、加納氏がkoba-koba氏の些細なコメントになぜつつかかつて行つた――加納氏の言ふ「説明を求めた」――のかが、説明出來ない。加納氏が何故あんなちよつとした事に向きになつたのか、加納氏の動機が知りたい。私の「加納氏は小林よしのりが好きだから、小林批判であるkoba-koba氏の言及に腹を立てた」とする解釋は、心理的には誰でも納得出來る筈のものである。加納氏は「違ふ」「そんな事は言つてゐない」と言ふが、積極的な反論は現在までに何もない。</q></p>
		<p>私の動機ですか。それを述べても野嵜氏は<q>宣言</q>といふのでせう。違ふのですか。客観的な事実的根拠に裏打ちされてゐないものを述べても野嵜氏は認めないのでせう。自分はさういつた<q>心理的</q>なもの（客観的な事実的根拠に裏打ちされてゐないもの）を根拠にしながら私に向かつては<q>宣言</q>と断じる。そのバランスはどこでとつてゐるのですか。さういつたことを全て言つた後で動機を述べるが、そんな大仰なことではないことは、最初のやり取りを見れば明白なのであつて、先ほども言つたやうに、「いやいや、それでは辻褄があはないやうですよ」「それはかういふことだからです」「ああ、なるほど。さういふ風に考へれば納得がゆきますね。しかしさっきコメントしたやつもさうだが、確かに異常者は多いですね」なんて会話のためである。これを動機と言ひたいのなら言つてもいいが、その程度のことを殊更とりあげて論難するはうが、私としては<q>怪しい</q>と言ひたい。</p>
		<p><q>加納氏に申し上げるが、加納氏の主張が「ない」事が、今囘の言爭ひの最大の問題となつてゐる。私は、なぜ加納氏が、積極的な主調を持たないのに、他人につつかかるのかが理解出來ない。加納氏には、何が正しい、と云ふ觀念がない。それは、暫定的なものであるにしても、少くとも、加納氏が相手と議論する中において、今のところ、一貫してさうである事は、否定出來ない事實である。が、それなら、「正しい物等何もない」と積極的に主張しつゝ他人を批判する徳保氏と變らないではないか。否、最後に正しい物を選ぶんだ、と加納氏は言ふかも知れない。だが、それならば最後まで下手に出なければならないのであり、koba -koba氏に對して居丈高に「論理的でない」等と説教をかます權利は加納氏にはない。</q></p>
		<p>何度も言はせて頂くが、あの程度の会話で<q>主張が「ない」</q>のは当然でせう。私はコメント欄に己れの主張を繰り広げるやうなことはしないと何回も書いたではないか。そして、勝手に<q>加納氏には、何が正しい、と云ふ觀念がない</q>なんて言つてをられるが、そんな馬鹿なことを私が言つてゐたら、野嵜氏が相手をしてゐるのはどこのどいつなのかといふことになるでせう。こば氏との当初のやり取りは議論ではない。こば氏のその後の態度は正義の問題で議論になりうる（か否かは野嵜氏との議論に持ち越されてはゐるが）。どうしてさういふことを読み違へるのですか。</p>
		<p><q>しかし、それならば加納氏には、「文學と道徳とを峻別すべきだ」と云ふ私の主張を否定する動機がない筈である。加納氏は、ことさら否定する必要もないのに、相手に「説明」を求め、反論させては「そんな事言つてませーん」と返す。加納氏は、ただ相手を馬鹿にしたいだけなのではないか。koba-koba氏に「論理的でない」云々と説教して見下した加納氏の態度も含め、加納氏の全體の言動を巧く説明出來る説明は、ほかにはない筈である。</q></p>
		<p>あげあしと思はれたくはないのですが、「文学と政治を峻別」ではないかと。一応その前提で話を進めますが、私は野嵜氏の文学と「政治」を峻別することが道徳的だといふ主張を<q>否定</q>してゐない。野嵜氏の言ふとほりの意味での「政治」ならば賛成するが、本来的な意味での政治ならば反対するといふことを言つたまでだ。どうしてかうも野嵜氏は読み間違へするのだらうか。ひよつとして私の書き方が悪いのか？取り敢へずその判断は留保するにしても、自分が読み間違つておいて、私はそんなことを言つてゐないと言へば、<q>相手を馬鹿にしたいだけなのではないか</q>などととぼけるはうが、よほど<q>相手を馬鹿にした</q>言ひ草だ。</p>
		<p>見えない云々の主観で根拠のないものを言はれてもどうしやうもないので、後半の<q>だが、論理が出發點であり目的地である、とする加納氏の態度は、人間の態度としてはをかしい。論理的でない。人間ならば動機がある。</q>といふものに反論しておく。</p>
		<p>本当にいい加減にしてもらひたいが、私は<q>論理が出發點であり目的地である</q>といつ言つたのだ。私は礼儀や態度が前提にあつて初めて論理が成り立つといふ立場であることは、氏も知つてゐるではないか。そして、論理がその礼儀や態度、すなはち生き方を一貫させ、考へるための方法であるといふことも、再三述べてきたではないか。知つてゐるはずなのにとぼけて非難する野嵜氏は悪質である。</p>
		<p><q>となると、既に指摘した通り、加納氏は正義の議論をしてゐたのであり、正義とは別次元の「單なる解釋」の議論をしてゐた訣ではない、と云ふ事になる。加納氏の自分の言動に關する説明は、一貫してゐない。</q></p>
		<p>だーかーらー。野嵜氏は会話で一々正義を問ふのですか。前にも述べたが、これが小林よしのりの思想を批評したり、あの章そのものを批評したりする目的であれば（正しい解釈が必要になるから）私は<q>正義の議論</q>をしただらう。何が一貫してゐないのだ。</p>
		<p><q>しかし、これは逆に加納氏が政治と道徳の峻別が出來てゐない事を證明する。政治に於ては、思想に全て同調する必要はない。大體一致してゐれば、否、特定の目的に一致してゐれば、政治的には「同志」である。そして、親米か反米かは、koba-koba氏の文章と何ら關係のない話である。加納氏の反論は、論理的に決定的な有效性を持たない。<q>もし私が「小林シンパ」ならば、むろん小泉氏の発言にも小林氏と同様の考へを披露するだらう。</q>と云ふ主張も、やはり有效性を持たない。</q></p>
		<p>かういふのを詭弁と言ふ。では、野嵜氏は西尾シンパか。野嵜氏は親米なんだらう。<q>特定の目的に一致してゐ</q>るから西尾シンパだらう。</p>
		<p>私がわざわざ他の人も引ける辞書から引用してゐるのは、語彙の意味を四散させないためである。野嵜氏は、自分の「政治」の解釈からシンパの意味を拡大して解釈してゐるのである。そして、無理矢理私をそこに当てはめようとする。野嵜氏流にその<q>動機</q>をお聞きしたいが、聞いても詮無いことなのでしない。</p>
		<h3 id="DOC041210_02">人効論</h3>
		<p>これについては近々アップするつもり。早くて今晩。</p>
	<h2 id="DATE041209">2004-12-09</h2>
		<h3 id="DOC041209_01">感謝</h3>
		<blockquote cite="http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/omake/diary.html" title="闇黒日記">
			<dl>
				<dt>平成十六年十二月六日</dt>
				<dd><a href="http://d.hatena.ne.jp/kanou/20041204#p1">http://d.hatena.ne.jp/kanou/20041204#p1</a></dd>
				<dd>どうぞおだいじに。</dd>
				<dd>加納氏個人には何の恨みもないし、こちらもそんなに體調が良い訣でもないので同病相憐れむの精神で。</dd>
			</dl>
		</blockquote>
		<p>ありがたうございます。野嵜氏もお体には御気をつけ下さい。</p>
		<p>といふか、<q>何の恨みもない</q>から「氏」つきで双方呼んでゐることに、周りももう少し気付いて欲しいとかいつてみたり。まるで目の敵のやうに私が野嵜氏を、野嵜氏が私を批判してゐるやうに思はれ、書かれるのは心外。</p>
		<h3 id="DOC041209_02">こば氏とのやり取りについて</h3>
		<p><q title="平成十六年十二月三日">しかし、加納氏の今囘の疑惑の表明は、單なるkoba-koba氏の解釋の相對化であり、絶對的・斷定的な否定ではありません。今囘のやうな加納氏の批判の仕方は、をかしい。</q>だから。最初はそれだけならば分からないから<em>説明</em>してくれと言つてゐた。<q>批判</q>はしてゐない。だから解釈の問題でありより正確な解釈を提示してくだされば、その解釈が有効なのである。ただそれだけのことをしようとしたからこそ、私は日記ではなくコメント欄に書いたのだ。ゆゑに、<q title="平成十六年十二月二日">「言つてゐる事は正しいが、お前の態度が氣に入らない」なんて言つて人を攻撃</q>してゐないのである。読んでゐれば<em>正確に</em>話の流れが分かる<em>筈</em>なのだが、私にはこば氏の<q>言つてゐる事は正しい</q>などといふ前提がないのである。正しいのか正しくないのか分からないから説明してくれと言つてゐたのだ。それを承知の上で、<q>批判</q>ととらへる野嵜氏はわざととぼけて私を批判してゐるのではないか。</p>
		<blockquote cite="http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/omake/diary.html" title="闇黒日記">
			<dl>
				<dt>平成十六年十二月四日</dt>
				<dd><q>私は「小林シンパ」なる「解釈」には論理的な妥当性がないといふことをいくども述べた。</q>
				<dd>その加納氏の反論が、どれも「一解釈」に過ぎない事、私の「解釈」を否定するものでない事は、自明である。</dd>
			</dl>
		</blockquote>
		<p><a href="http://d.hatena.ne.jp/kanou/20041204#p8">解釈とは何か</a>を読んでゐないことは明白であり、<em>読んでゐればこんなことは絶対に言へないはずである</em>。私は、「解釈」ではなく解釈を、つまり、論理的に妥当だと思はれる諸条件を突き詰めた解釈をすべきだと言つてゐるのであつて、印象や非論理的なことを突き詰めて「解釈」しろとは言つてゐない。そして、私は自分で考へうる限りの「妥当だと思はれる諸条件」を論理的に解釈をしてこば氏に疑問を投げかけたのだ。野嵜氏は、<q>レトリック</q>と称して自分自身の「解釈」を相対化させ、「御前のやつてゐることは相対的な批判だ」といふわけの分からないことを言つてゐるに過ぎない。私は批判なんてしてゐないのである。</p>
		<p>野嵜氏が、私とこば氏のやり取りを誤解して仕舞ふのは、致し方のない氏の性格のせゐなのではないかと私は最近思ふやうになつてゐる。氏は、話合ひはなんでも勝ち負けのつく「勝負」だと思つてゐるのではないか。私はさうではないと思ふ。正義の問題において勝ち負けがつくのである。こば氏とのやり取りは正義の問題ではなく解釈の問題なのである。こば氏は、どうやら小林氏の著作を結構読んでゐるやうだが、小林氏シンパではないだらうし、私も同様である。小林氏の思想の是非（正義）を巡つて論争してゐると仰るのならば、その証拠を挙げるべきである。どこにも、小林氏の思想を支持し、それの是非を論じてゐる箇所はないはずである。</p>
		<h3 id="DOC041209_03">左翼</h3>
		<p><q>野嵜氏は過去に自分の書いたことを覚えてゐるだらうか。これらはすべて闇黒日記のバックナンバーからの引用である。</q></p>
		<p><q>鉤括弧附きの語を含んでゐたりするのも何うかと思ふが、<q>わざわざ左翼は、戰略的に、疑惑を仄めかす事が多い。自分の氣に入らない對象に惡い印象を與へる爲だ。</q>を加納氏が引用したのは、それこそ如何なものか。加納氏こそ、最初にkoba-koba氏の引用に疑惑を仄めかしたのである。</q></p>
		<p>ご自分の書いた文章くらゐきちんと読んでもらひたい。<q><em title="強調加納">戰略的に</em>、疑惑を仄めかす</q>のと<q>koba-koba氏の引用に疑惑を仄めかした</q>の違ひは何か、お分かりになるだらう。左翼は「左翼の主張」を肯定しようとするから<q>戰略的に、疑惑を仄めかす</q>のであつて、私は「私の主張」といふものがそもそもない段階なのだから<q>戰略的に、疑惑を仄めかす</q>ことなどできないのである。</p>
		<h3 id="DOC041209_04">悪しきレトリック？</h3>
		<p>私が「それはそのとほりなのだが、私は否定してゐないし、それが「正しい」と思つてゐる。にも関らず野嵜氏は私を<q>非道徳的</q>であると言つて批判するのだが、それは、氏が相変らず文章を読めてゐないからだ。私は文学は政治を書いてもよいと言つただけで道徳的な葛藤を問題にしてゐない。」と言つたことについて。</p>
		<p><q>だが、加納氏は「スルー」したのである。書かれてゐないものを「嫁」と言はれても、私には讀めない。書かれてゐないものを讀み取るのは、しては行けない事である。と言ふか、「スルー」した事がそれ自體、非道徳的だ、と書いてゐるのに、加納氏はそれに對して根據ナシに「私は否定してゐない」と言つて、私の批判をスルーして、誤魔化してゐる。かう云ふやり方で、加納氏は私が「反論しない」と言ふのである。惡きレトリックである。</q></p>
		<p><q>書かれてゐないものを「嫁」と言</q>つてなどゐない。私の結論は「文学で政治を書いてもよい」といふものだからだ。 この結論を述べるために必要な前提と論証は私はこなしてゐる。そして当然、野嵜氏の言ふ「道徳的な葛藤」は、結論に至るまでには入つてしかるべき道筋である。その理由は野嵜氏が書いてゐるとほりである。しかし、この結論を述べるためにとりあげる必要はどこにもない。</p>
		<h3 id="DOC041209_05">自らを否定すべき云々</h3>
		<blockquote title="闇黒日記" cite="http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/omake/diary.html">
			<dl>
				<dt>平成十六年十二月四日</dt>
				<dd><q>「飽くまで疑念を呈してゐる」とはよくいつたもので、その「疑念」から徳保氏流の「論理」を「レトリック」と称して書いたことはもう忘れてゐるらしい。</q></dd>
				<dd>加納氏は、自らを否定すべき文句で以つて他人を罵つてゐる。</dd>
				<dd><q>そして、「シンプルに説明出來る」からそれが「正しい」わけではないし、そもそもその手の「疑念」を前提にした時点で論理的ではなく「論證」でもない。</q></dd>
				<dd>加納氏は、論理學のいろはを知らない。</dd>
			</dl>
		</blockquote>
		<p>私は最後まで解釈<em>について</em>の論理を述べたのだ。より簡単に言へば、「私はかう解釈しました」→「なぜならば（X）だからです」といふことである。しかし野嵜氏の「徳保氏流の『論理』を『レトリック』と称して書いた」ことは、解釈の論理的な説明ではない。「私はかう解釈しました」→「だから（Y）といふことです」といふ、論理の展開である。そこには「正確」な解釈を導くための論理的な検証がないのである。それは私のやつたこととは違ふ。そして、<q>加納氏は、論理學のいろはを知らない。</q>とのこと。氏は面倒になつて煽りだけで済ましてゐるやうなので感情的な罵りは避ける。この文だけでは確かにそのとほりだが、私は一貫して正確な、妥当な論理を求めてゐるといふ文脈を忘れられては困る。そのためには検証の作業が必要なのである。「所与の前提から導出された所与の命題は、それを否定する証拠が挙がらないかぎり棄却されえない」（カール・ポパー）といふ「反証」の作業を忘れてはならない。そのために、私は野嵜氏が多分に戦略的に言つてゐる<em>はず</em>の、「加納は小林シンパだ」なる「命題」に、否定する「証拠」を挙げた。今まで言つてきたことを繰りかへしてもまた無視されるし、野嵜氏にとつては<q>宣言</q>とされるから、今度は違ふ「証拠」を挙げたいと思ふ。</p>
		<p>シンパとは<q cite="http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%A5%B7%A5%F3%A5%D1&amp;kind=jn">同調者。特に、特定の運動に共鳴して、陰で精神的・物質的な支持援助をする人。</q>のことである。私は、小林氏の思想に全て同調してゐるわけではない。なぜなら、たとへば氏の反米論をとつてみてもそれは私とは隨分と違ふものだからだ。私は、小泉首相が政治的な意図を前提に発言するのは当り前のことだと思つてゐる。たとへば、こんなことを私は過去に言つてゐる。「政府がイラクに自衞隊を派遣するにあたつて、「説明責任」を果たしてゐないとマスコミを始め國民が擧つて言ふ。彼らは心の機微を感ぜられぬ非道の人間であるとわたくしは思つてゐる。小泉總理にしろ、アキレス腱にはやはり觸れたくはないであらうが、しかしさうもいかず、仕方無く派遣といふ手段を選んだのではないか。さうであれば、突込まれれば答<del datetime="2004-12-07T08:35:04+09:00">え</del><ins datetime="2004-12-07T08:35:04+09:00">へ</ins>られないのはわかりきつてゐるのだから、わざわざそれを詰問するやうな眞似をすべきではない。」（<cite><a href="http://www.poesia.jp/notebook/0401.html">2004/01/26(Mon)「『説明責任』といふ妄言」</a></cite>）しかし、小林氏は小泉氏が墨子を引いて発言した件を挙げ、墨子の思想とは全然違ふぢやないかといふ批判を行なつた。（<cite>「第二百章　小泉が『墨子』を引いて語る愚」『新・ゴーマニズム宣言14　勝者の余裕』（小学館）所収</cite>）私から言はせれば、小泉氏が政治的な意図の上にそのやうな発言をするのは当り前なのだから、一々指摘するのは愚かである、といふことになる。もし私が「小林シンパ」ならば、むろん小泉氏の発言にも小林氏と同様の考へを披露するだらう。だがさうではないのだから、私は「小林シンパ」ではない。</p>
		<h3 id="DOC041209_06">科学的であることは生活的観念的ではない</h3>
		<blockquote cite="http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/omake/diary.html" title="闇黒日記">
			<dl>
				<dt>平成十六年十二月四日</dt>
				<dd>加納氏は人效論に據つてゐて、私は事效論に據つてゐる。</dd>
				<dd>私は、論じ方によつて醸し出される説得力が何うであれ、論理さへ確りしてゐて、正しい結論が出てゐれば、それでよろしいと考へる。加納氏は、結論の正邪よりも、説得力のある論じ方をする事の方が重要だ、と考へてゐる。否、論じ方と論の結論とが大事だ、と加納氏は言ふだらうが、結論の正邪を重視する私の立場に比べれば、加納氏は結論の正邪を輕視して論の持つて行き方を重視してゐると言へる。</dd>
				<dd>加納氏の立場から言へば、地動説を主張しておきながら教會の壓力に屈したガリレイは許し難いものとなるだらう。ガリレイはもつと説得力のある主張をして教會を言ひ負かさなければならないと、加納氏は考へねばならないからである。一方、ブルーノは自分の立場を讓らないで刑死した。加納氏は、ブルーノを支持するであらう。しかし、ヤスパースは兩者とも偉大であつたと述べる。地動説は科學的眞理であつて第三者による檢證が可能であり、後世の科學の進歩で必ず發見されたであらうからである。ガリレイ一人が頑張らなければならないものではなかつた。事實そのものは、説得力のある説明とは、相對的に獨立のものである。ガリレイが教會によつて意見を壓殺されたとしても、地球が太陽の周りを囘つてゐる事實は變らない。加納氏は、しかし、地球が太陽の周りを囘つてゐる説明をして、説得出來なければ、地動説は事實とならない、と考へる。それが加納氏の立場である。私は、ガリレイが發言を翻させられようが何うだらうが、或は、ガリレイ以前だらうが以後だらうが、地球が太陽の周りを囘つてゐる地動説は「正しい」とする立場である。</dd>
			</dl>
		</blockquote>
		<p>私の思想とはかけ離れたものを例として持ち出せれてゐる。それを前提に<q>考へねばならない</q>と言はれても困る。ガリレイやブルーノが主張してゐるのは科学的な問題であり、それは人間がどう生きるのかといふ問題とは基本的に違ふ。地球が周つてゐことと、愛する人や国を守るために死ぬべきかといふ問ひは違ふ。地球が周つてゐなくても人は愛する人のために身を投げ出すこともあるのであり、逃げることもあるのである。ブルーノが自説を固持して死んでも、それはブルーノの生き方として存在しうるが、その自説は科学的なものであり、人間が如何にして生きてゆくかといふ問題には繋がらないのである。</p>
		<p>私の思想と野嵜氏のそれとを比較し検討するための妥当な譬へは、以下のやうなものだらう。</p>
		<p>自分の国が、侵略を受けて戦争になつた。日ごろから国のために死ぬべきだと考へてゐたAさんとBさんは、しかし、それぞれ違ふ立場を採つた。Aさんは、自分が今まで主張してきたことを成し遂げた、つまり、戦争に行き死んで仕舞つた。一方Bさんは、徴集がかかつたときに逃げて仕舞つた。さて、ではAさんとBさんはどちらが正しいのだらうか。確かにAさんもBさんも、同じ主張をしてゐた。そしてどちらも正しい主張であると仮定した時、彼らの生き方として正しいものはどちらだつたのか。私はAさんが正しかつたと言ふ。しかし野嵜氏は、AさんもBさんも正しかつたと言ふはずである。なぜなら、二人の主張はどちらも同じく正しかつたからだ。</p>
		<p>しかし、実際に逃げて仕舞つたBさんが、「私は正しい」と言つても詮無い話である。彼は、逃げてしまつて、己れの主張を覆して仕舞つたからだ。日ごろ言つてゐたのは何のためだつたのかといふことになるからだ。</p>
		<p>むろん、言ふまでもなく、主張として、論理として彼らはどちらも正しかつた。だが、その論理とは何のためにあるのか。これも言ふまでもなく己れの生き死にをどう捉へ、実行するかといふもののためである。論理が正しくとも生き方が正しくなくては駄目だとはさういふことであり、野嵜氏の<q>論理さへ確りしてゐて、正しい結論が出てゐれば、それでよろしい</q>といふ考へは非道徳的な考へである。</p>
		<h3 id="DOC041207_07">引用について</h3>
		<p>野嵜氏から指摘された引用に関する文章を今読みこなしてゐる最中なので、引用の議論は少し待つてください。なんか発掘作業にも似たもので、大変ですが、これは野嵜氏と論争する上で当り前だと思ひます。あと、『権力と栄光』は読んだことがないので、これからAmazonで買つて読みます。</p>
		<h3 id="DOC041209_08">人効論と事効論</h3>
		<p>平成十六年十二月七日の人効論と事効論をまとめた野嵜氏の文章は素晴らしいもので、それに反論する身としてはいささかならぬ緊張を強いられる。論理、文体、構成、どこを見ても隙がない。さて、それを認めた上で、反論しよう。</p>
		<blockquote cite="http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/omake/diary.html" title="闇黒日記">
			<dl>
				<dt>平成十六年十二月七日</dt>
				<dd>カトリックだと、それらを個別の、別次元の要素として見る。信ずる側の人間(信徒)の態度が何うであれ、教理の正當性は影響を受けない。教會の定めた教理が何うであれ、信徒の信仰が有效になつたり無效になつたりはしない。事效論と言ふが、「事」と「人」との二元論である。</dd>
				<dd>プロテスタントでは、それらのうち、人間の態度を優先的に考へる。極端な話、人間が眞面目ならば、教理は何うでも良い、と考へる。</dd>
				<dd>また、聖職者の態度がどうであれ、聖職者が聖職者である限り、聖職者としての行爲は聖職者としての行爲である、と云ふのがカトリックの事效論である。醉ひどれ神父が信徒の懺悔の聽聞を行つたとしても、聖職者としての行爲であるから有效である。聖職者が、他人から尊敬される立派な人物であるか、輕蔑されるウィスキー神父であるかは、その神父の聖職者としての行爲の有效性に影響を與へない。ウィスキー神父が聽聞したのであつても、信徒の懺悔は有效である。</dd>
				<dd>一方、聖職者は人間であり、時として誤を冒すから、信徒は直接、神と對峙しなければならないとするのが、プロテスタントの立場である。教會が資金を得る目的で免罪符を賣つたとしても、免罪符を買つた信徒の免罪は有效である、とカトリックの立場では考へる。それに對して、ルターは怒つた。</dd>
			</dl>
		</blockquote>
		<p>日本の伝統を守るべきだと云ふ点から「知行一致」をとなへるのは容易である。また、日本人だからこそさう考へるのだといふことも、論理として通る。しかし、私は敢へてさういつた言論は斥ける。なぜといつて、人間が観念としてまづ実体をもち、行動によつてそれを示すといふ点は、ナショナルとインターナショナルとを問はず、人間の思考形式としての通念だからだ。それもそのはず、ニーチェが『善悪の彼岸』で示したやうに、当の西欧人からしてもキリスト教的なるものを、信仰そのものとして考へることには出来なくなり、フッサールやハイデガーを俟つこととなつたといふ仕儀だからである。</p>
		<p>或いは、それは日本においても同様だつた。林羅山は「格物窮理」のやうな形而上学的な思惟に反し、「人倫」を求めようとした。本居宣長の場合になると、「やまとごころ」の表現に、出来事と人の心の様子を掴もうとした。夏目漱石の場合はもつと典型的である。漱石の当初の立場は「自己本位」であつた。しかし晩年、あの有名な言葉「則天去私」を周囲の者たちに語らざるを得なかつた。</p>
		<p>してみると、西欧において、キリスト教と代る物事を判断する根拠は如何なる場所に置かれたのか。それは、ハイデガーもヤスパースも言ふやうに、「良心」においてなのである。</p>
		<p>いや、小難しい話で結論らしきものへと先走る前に、ごく初歩的な確認をせねばなるまい。</p>
		<p>そもそも宗教なり思想なり哲学なりは、何のために必要なのか。</p>
		<p>先にも言つたやうに、ニーチェは、キリスト教の道徳観から弱者のルサンチマンの正当化を見て取つた。それゆゑに、ニーチェは「超人」たらんとしたのである。しかし、ルサンチマン云々は兔も角、キリスト教とニーチェが目指したものは、人間が如何にしてあるべきか、つまり、如何にして生きるべきかといふ問ひから発してゐることは明白である。すべての思想や哲学、宗教は、人間が如何に生きるかといふ根本をなくしては成り立たないのである。</p>
		<p>私はキリスト教を詳しくは知らない。だから、カトリックとプロテスタントの対立も、ほとんど教科書的な知識しか持ち合はせてゐない。ゆゑに、その対立についての詳細な検討はできない。それを前提として述べるが、もしカトリックの信徒や神父が、キリスト教の教へから背いたことをやつたのならば、それは当然責められるべきなのである（ただし、免罪符を売るべからず、富を得るべからずといふ教義がない限り、カトリックが教理に背いたことにならないから、一応の妥当性とそれなりの正当性はある）。或いは、「ウィスキー神父」を認めないとする教義があるのならば、その神父はもはや<q>聖職者</q>としての資格を失つてゐると言へる。それゆゑに、プロテスタント的な主張の正当性もそれなりにある。かう考へるのが野嵜氏が私を批判する根拠の<q>人效論</q>なのだが、如何だらうか。</p>
		<h3 id="DOC041209_09">本当は</h3>
		<p>もつと反応したい箇所があるのだけれど、完璧にやればいつまでもアップできないので、この辺で。</p>

	<h2 id="FOOTER">この文書について</h2>
	<dl id="STATUS">
		<dt>公開</dt>
		<dd>2004-12-09</dd>
		<dt>改定</dt>
		<dd>2004-12-16</dd>
		<dt>制作</dt>
		<dd>加納　景 &lt;<a href="mailto:%77%65%62%6D%61%73%74%65%72%40%70%6F%65%73%69%61%2E%6A%70">webmaster&#64;poesia.jp</a>&gt;</dd>
	</dl>
</body>

</html>